太田述正コラム#8102(2015.12.19)
<楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その10)>(2016.4.4公開)
 「<今度は、>満州国から目を転じ、隣接する内モンゴルの徳王やその周囲に集まった軍人民族主義者を扱<お>う。・・・
 1936年2月10日午前・・・徳王は宣誓式を経て、「モンゴル軍総司令」のポストについた。・・・
 この・・・式典には関東軍の参謀長・・・も祝辞を述べ<たし、>・・・<内モンゴル>に駐屯する<日本の>特務機関長・・・の少佐・・・と<日蒙?>善隣協会の代表<たる日本人>も参列していた。・・・
 <その上で、徳王は、>5月12日、・・・正式にモンゴル軍政府の成立を宣言した。
 ・・・モンゴルは建国を準備する一環として軍政府をまず設立<し、>モンゴル国が成立した暁には、軍政府を国家政府に改組する<計画だった>。
 日本軍の力を借りて、中<華民>国からの独立を実現させる第一歩だった。・・・
 <その>頃、日本軍も壮大な戦略を有していた。
 南北には「ソ連・外蒙古方面からの赤化防止」と南京国民政府との交渉、そして東西のラインでは、「中央アジア防共回廊の建設」計画を練っていた。
 モンゴル軍政府の支配地域から西の寧夏と甘粛、青海と新疆を通ってアフガニスタンのカブール経由でドイツと手を握る「欧亜連絡通路」という構想だった(森久男・・・)、関岡英之(ひでゆき)・・・)。・・・
⇒帝国陸軍が追求していたのは、「壮大」であろうとなかろうと、不可欠な戦略でした。(太田)
 <すなわち、>日本側は「モンゴル独立」に否定的で、「赤化防止」に力点を置いていたので、<双方の>壮大な国際戦略も最初から同床異夢だった。・・・
 <やがて、1939年9月、モンゴル軍政府の後継>と中国人の晋北自治政府などを併合して<日本は、いわゆる>蒙疆政権<(注24)をつくった。>・・・
 (注24)「蒙疆地区には1937年、蒙古聯盟・察南・晋北の3自治政府が設立されたが、利害関係を調整して活動の円滑化を図るため、1937年11月22日、3自治政府によって蒙疆聯合委員会が設立された。しかし、この委員会が十分に機能しなかったため、・・・駐蒙日本軍の主導のもとで、3自治政府が統合して蒙古聯合自治政府が樹立され、初代の主席には・・・徳王・・・が就任した。首都は張家口に置かれ、名目としては中華民国臨時政府・汪兆銘政権いわれる傀儡政権下の自治政府という位置づけだった。この統合により総人口525万4833人のうち漢民族が9割の501万9987人に対してモンゴル族は15万4203人となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%81%AF%E5%90%88%E8%87%AA%E6%B2%BB%E6%94%BF%E5%BA%9C
 日本<は、>諸民族の解放者というよりも、自国の利益を最優先する、エゴイズムの帝国だった本質がみえはじめていた。」(167~170、176)
⇒当時の、広義の内モンゴルの、この時点における人口構成から見て、その独立や、外モンゴルとの統一など、不可能であることは明らかであり、(モンゴル人が、漢人よりも戦士に向いていて、かつ、反漢人的であるから、ということがあったのでしょうが、)むしろ、日本は、よくもまあ、モンゴル人を、広義の内モンゴルの指導的民族として扱い、かつ、広義の内モンゴルの首班に据えたものだ、と言いたくなるくらいです。
 (同じことが、満州国内の「モンゴル人」地区についても、より強くあてはまりそうです。)
 楊の言うことは、(当時の日本が、「エゴイズム」どころか「人間主義」の帝国だったことはさておき、)現実を無視した世迷言以外のなにものでもありません。(太田)
 「モンゴル軍政府<の下、>・・・1940年6月17日に、・・・モンゴル軍幼年学校<(前出)が>スタートした。・・・
 <この>学校ではモンゴル語と日本語のどちらをより強化するかで、教官同士がぶつかり合った。・・・
 結局、モンゴル語を重視しようとの意見は採用されなかった。・・・
 1943年6月1日に<は>・・・「モンゴル総軍軍官学校」<が>創立<され>た。・・・
 教育制度は完全に<日本の>陸士をモデルとし、日本人の柳下中尉が顧問として赴任してきた。・・・
 以前に<満州国の>興安軍官学校に派遣していた青年たちにもモンゴルとしての民族意識がなかったわけではないが、絶対にモンゴル独立を口にしなくなる。
 そうした事実をみて、徳王とほかの指導者たちは独自の軍官学校を創建したのである。」(183、190~192)
⇒前にも指摘したように、興安軍官学校の教育は(普遍的な意味で)成功していた、ということです。(太田)
 「<1945年>8月9日に、ソ連・モンゴル人民共和国連合軍は・・・内モンゴルに突進し・・・た。
 ・・・徳王の精鋭第9師団はウルジーオチル師団長に率いられて、ソ連・モンゴル連合軍に呼応する行動を取った。
 ウルジーオチル師団長は内モンゴル人民革命党の党員である。
 彼らは日本人顧問の<日本人>を殺害し、<他の>二人<の日本人>を拘留し、新たに「内モンゴル人民革命軍」と名乗った。
 ・・・<他方、>日本人教官たちはモンゴル軍幼年学校の生徒たちを連れて南の張家口に向かっていた。
 8月11日に・・・何人かの生徒が銃口を日本人教官に向けた。
 殺害された日本人教官は<三人>だった。・・・
 まもなく「ヤルタ協定」の内容がモンゴル人に伝わってきた。
 「内モンゴルは現状維持」、すなわち中華民国による占領を追認するとの決定である。
 ・・・<いわゆる>「ヤルタ密約」である。」(194~196)
⇒内モンゴルのモンゴル人たる軍関係者達は、結果的に見れば、何の意味もない殺戮を、在内モンゴル日本軍人達及び在内モンゴル・モンゴル人達<(後出)>に対してもたらした、というわけです。
 これは、内モンゴル人による内モンゴル軍人教育の失敗を語って余りあるものがある、と言うべきでしょう。(太田)
(続く)