太田述正コラム#8108(2015.12.22)
<二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その2)>(2016.4.7公開)
 「しかし、日満友好とは正反対の事件が起こった。
 新京から南西約240キロの撫順郊外で抗日武装集団が狼煙を上げた。
 狙いは撫順炭鉱<(注12)>、日本の検疫上、最重要拠点だった。
 (注12)「撫順炭鉱は、七百年ほど前に、高麗人によって採掘された。当時は陶器製造の燃料として使われていたものと伝えられる。その後、清朝は「風水に害あり」との理由から採掘禁止としていたが、1901年、清国政府の許可の下、清国民族資本により採掘が開始された。その後ロシア資本が進出、東清鉄道の南満州支線(ハルビン-大連間)が建設された後に奉天(瀋陽)-撫順の支線も敷設され、撫順炭田には東清鉄道の「鉄道付属地」(中国の行政権・司法権などが及ばない治外法権地域)が設置された。
 日露戦争後の1905年には鉄道及びその付属地は日本の手に渡り、1907年には南満洲鉄道(満鉄)の管理下に移った。炭鉱周辺は広大な鉄道付属地(満鉄附属地)となり、駅と炭鉱の周囲に新市街が建設され、満鉄による行政が行われた。露天掘りによる大規模な石炭採掘が行われるなど満鉄を支える重要な財源となり、撫順の付属地の人口は10万を超え満鉄附属地の中でも最大であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%AB%E9%A0%86%E5%B8%82
 日満議定書<(注13)>の調印から翌16日未明、総勢2000人が銃や槍、太刀を振りかざし、「殺せ!」と怒号を発し、日本側の炭鉱事務所や社宅を次々と襲った。<(注14)>
 (注13)「1932年9月15日に日本国と満洲国の間で調印された・・・日本側全権は武藤信義陸軍大将(関東軍司令官)、満洲国側は鄭孝胥国務総理。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%BA%80%E8%AD%B0%E5%AE%9A%E6%9B%B8
 (注14)「1932年9月15日に起きた満洲国撫順市の撫順炭鉱における匪賊・・・による放火、日本人殺人事件。・・・日本人5人が殺害された。・・・犠牲者は目を繰り抜かれ、耳、鼻をそぎ落とされていた・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%AB%E9%A0%86%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 日本人11人が死傷し、ただちに関東軍の守備隊約200人が出動した。
 続いて、在郷軍人で組織する防備隊<(注15)>や警官隊計約800人も応戦し、午前4時半、武装集団は撤退した。
 (注15)「民間人居住区を狙ったこの襲撃に対し、周辺居住者を炭坑内や公会堂に避難させ、大人だけではなく青年団員や中学三年生以上(いずれも民間人の若者)を緊急に招集し、市街地への侵入を必死で阻止した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%82%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⇒お分かりのように、二松の記述は、この事件の日本語ウィキペディアの記述(上掲)と微妙に異なった支那寄りのものになっています。(太田)
 日本人の住民は恐怖に包まれた。
 憲兵隊や守備隊、県公署、警察、炭鉱関係者らが集り、緊急会議を開いた結果、関東軍将校は「武装集団の通過を見逃した」との理由から、炭鉱労働者が住む「平頂山の全村民を掃討する」と発表した。
 さすがに反対意見も出たが、将校の恫喝に沈黙するしかなかった。
 16日午前11時頃、村人全員を崖下に集めた後、機関銃の一斉射撃を浴びせ、午後1時過ぎまでに、襲撃と無関係だった3000人の命が失われた。<(注16)>」(28~29)
 (注16)「1932年9月16日、現在の・・・遼寧省北部において、撫順炭鉱を警備する日本軍の撫順守備隊(井上小隊)がゲリラ掃討作戦をおこなった際に、楊柏堡村付近の平頂山集落の住民が多く殺傷された事件。・・・
 翌日の撫順守備隊の捜索の結果、平頂山集落で前日の襲撃の際の盗品が発見され、当集落がゲリラと通じていたとの判断の下、40名程の部隊が同集落を包囲、ゲリラ掃討を行なった。同集落が(または同集落の一部が)ゲリラに関与していたかどうかについては現在、否定も肯定もされてはいない。
 事件後、撫順周辺の中国人労働者に動揺が走り、撫順を離れるものが大量に出た・・・。・・・
 被害者人数については諸説があり、中国側は、発掘死体の数などを根拠にしたとして3,000人を主張している。また、守備隊の中隊長であった川上精一大尉の親族である田辺敏雄は、自著の中で、虐殺に参加した兵士の証言などをもとに犠牲者数を400~800人と推定している。なお当時、平頂山集落の人口は約1,400人、犠牲者数600人前後とする資料もある。ジュネーヴでの国際連盟理事会では、中国側の被害者は死者700、重傷6~70、軽傷者約130名と報告されている。いずれも確証はなく、被害者の人数については類推の域を出ない。・・・
 1948年1月3日、事件とは無関係とされる元撫順炭鉱長ら7名に死刑判決が下され・・・同年4月19日に刑が執行<されている。>・・・
 <この事件は、>本多勝一が朝日新聞に連載した「中国の旅」で、この平頂山事件がとりあげられ(連載1971年、書籍刊行1972年)、広く知られるようになった。この時期に前後して、中国では平頂山殉難同胞遺骨館が建設された(1971年竣工)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%82%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6 上掲
⇒ここでも、二松は、支那側の死者数について、何の説明もないまま、支那側が主張する数字だけをあげていますが、これは、ジャーナリストとしてあるまじきことです。
 いずれにせよ、武力集団がゲリラ的攻撃を行った場合は、こういう、親ゲリラと疑われた一般住民を巻き込んだ悲劇的結果がもたらされがちである、ということです。
 いずれにせよ、自身がゲリラ戦を日本軍等に対して継続的に行ったところの、中国共産党当局は、政権奪取後20年以上にわたって平頂山事件をさして問題視していなかったようですね。(太田)
(続く)