太田述正コラム#8196(2016.2.4)
<矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読む(その14)>(2016.5.21公開)
 「実は昭和天皇という方は、占領終結後も非常にきめ細かな政治的努力をつづけた人物で、たとえば1961年に雑誌『文藝春秋』が「人間宣言の成立についての座談会」という企画を立てたとき、その座談会に出席する予定だった元侍従の木下道雄<(注19)>に対して、こんな助言をあたえているのです。
 (注19)「東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省入省、岡山県で地方勤務を体験し、内閣書記官となる。二四(大正十三)年夏、摂政であった東宮殿下(後の昭和天皇)の侍従にと声がかかり、東宮事務官兼東宮侍従に転任、一九二七(昭和二)年に侍従兼皇后宮事務官に就任するが、一九三〇(昭和五)年四月に宮内大臣官房秘書課長に転じ、天皇側近からいったん離れる。以後総務課長、内匠頭、帝室会計審査局局長を歴任する。
 終戦後、木下が再び昭和天皇の側近として侍従次長兼皇后宮大夫に就任したのは一九四五(昭和二〇)年一〇月二三日。しかし、わずか半年余りが過ぎた翌年五月三日に辞任する。以後、宮内省御用掛を経て、皇居外苑保存協会理事長として皇居前の整備に尽くした。 ・・・
 木下は昭和天皇が最も信頼していた人物とされるが、皮肉にも昭和天皇の意向を受けて女官制度改革に手をつけたことが、貞明皇后の逆鱗に触れ、辞めざるを得なかったと伝えられている。・・・
 侍従次長を辞めた後、敬虔なカトリック信徒になっ・・・た。・・・
 木下の次男・公雄の戦病死の報せが届いた時、「御野菜、御菓子料」が昭和天皇から届けられる。一九四六(昭和二一)年五月十八日、お礼に参上すると、慰めの言葉とともに「何もないから少しだけれども」とお菓子を渡される。このお菓子は、皇后自らが渦巻蚊取線香の空箱を半分に切り、千代紙を張って作った小箱に詰められた小さなそばまんじゅう二つ、両陛下の昼食の代用食として出されたものを一個ずつ取り分けていたものだった。
 五月二六日には退官の記念にと昭和天皇愛用のインクスタンドとペンが手渡された。木下は謹んで受け取るが、おそらくあふれる涙のためか、ペンを落としてしまう。拾ったらまた落ちた。それを昭和天皇が拾ってくれた。この時のペンはその日昭和天皇が使っていた黒インクの跡を残したまま、木下家で大切に飾られたという。
 木下が宮内省御用掛の寺崎英成らとともに『独白録』の作成にかかわったことはよく知られているが、昭和天皇聖断拝聴録を『側近日誌』(文藝春秋)に書き残したのも木下である。」
http://www.yorozubp.com/0806/080621.htm
⇒(前述した理由から、)「政治的努力」を「天皇制存続努力」に置き換えれば、という条件下で、私も同感です。
 ところで、上掲コラムの執筆者の園田義明は、木下のほか、「一九二七(昭和二)年、東京関口教会で美智子皇后の祖母である正田きぬは・・・洗礼を受けて敬虔なカトリック信徒になっていた。このきぬと美智子皇后の祖父・正田貞一郎(日清製粉創業者)、それに叔母・正田郁子の告別式はいずれも 千代田区 麹町の聖イグナチオ教会で営まれた。また、母・登美子も聖路加国際病院で臨終洗礼を受け、妹の安西恵美子も洗礼を受けている(『美智子皇后と雅子妃』福田和也、文藝春秋他参照)。」といったことに言及し、戦後の皇室があたかも隠れキリシタン化したかのような記述を行っていますが、深読みし過ぎと言うべきです。
 そもそも、昭和天皇が(キリスト教一般ではなく、)カトリック教会に好印象を抱いていたとしても、それは全く不思議ではないのです。
 カトリック教会は、日支戦争において日本支持を打ち出してくれた(コラム#省略)だけでなく、日米戦争勃発前にも、その回避に尽力してくれた(注20)(コラム#省略)からです。(太田)
 (注20)「<在米日本>大使館の関知しないまま、<1941年>3月17日に・・・日米国交調整に関する「原則的合意」についての予備的草案である<ところの、カトリック教会メリノール宣教会 の>ウォルシュ司祭とドラウト神父らの日米を行き来しての労作である>「井川<=産業組合中央金庫理事>・ドラウト案」が作成されました。4月からはこの民間交渉に陸軍省の前軍事課長岩畔豪雄大佐が加わり、大使館側も岩畔から報告を受け、協議も行われるようになりました。やがて「井川・ドラウト案」をもとにして修正案が作成され、4月14、16日の野村<駐米大使>・ハル<米国務長官>会談において、このいわゆる「日米諒解案」をその後の「日米交渉」を進めるうえでの出発点とすることが合意されました。」
http://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index13.html
 「<メリノール宣教>会の設立<は>1911年6月29日。創立者は、ボストン大司教区司祭で司教区の信仰弘布会の担当者として、<米国>のカトリック信徒に外国宣教に関する熱意を養うために「遥かなる畑」という雑誌を出版していたウォルシュ(James Anthony Walsh, 1867-1936)と、<米国>のカトリック信徒数のいちばん少ない南部で国内宣教に専念し、カトリックの教えを普及するために「真理」という雑誌を出版していた、ノース・カロライナ州のローリ教区司祭であるプライス(Thomas Frederick Price, 1860-1919)である。 同年4月に<米国>の司教団から承認を得、6月29日(聖ペトロと聖パウロの祭日)にローマでピオ10世から許可を受けた。ウォルシュとプライスがローマから帰国し、ニューヨーク市の郊外でハドソン川を見おろす丘を見つけ、Maryknoll=「マリアの丘」と名付け、そこに神学校を設立し<た。>」
http://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%AE%A3%E6%95%99%E4%BC%9A
 「五箇条の御誓文を主とせよ。
 現御神(あきつみかみ)のことは軽く言え、ブライス[GHQと皇室の連絡役となった学習院教授]<(注21)>のことは、言うに及ばず」(『側近日誌』)
 (注21)レジナルド・ホーラス・ブライス(Reginald Horace Blyth。1898~1964年)。「イギリス出身の文学者、日本文化研究者。」ロンドン大卒。1925年に妻と共に朝鮮に来住、禅を学ぶ。離婚し日本人と再婚、戦争前に日本本土に移る。戦争「が勃発すると、ブライスは敵性外国人として収容される。日本支持を表明し、日本国籍を取得しようとしたが却下された。・・・<戦後、GHQと>皇室との連絡調整役を務め、また・・・<GHQの米>陸軍中佐ハロルド・ヘンダーソン<(下掲)>・・・とともに昭和天皇の人間宣言起草に加わった。1946年、学習院大学英文科教授とな・・・る。禅の思想と日本の詩歌、特に俳句が西洋に広められたのはブライスの功績が大きい。1954年、東京大学より文学博士号を授与<される。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9
 Harold Gould Henderson。1889~1974年。コロンビア大卒。卒業後1930~34年、日本研究を日本で続ける。メトロポリタン美術館、コロンビア大勤務。戦争の時に中佐に任官、戦後、GHQの教育・宗教・文化顧問となり、GHQと皇室との仲介役を務める。その後、コロンビア大学教授(~1952年)。米日本協会会長、米俳句協会共同創設者、も務める。
https://en.wikipedia.org/wiki/Harold_Gould_Henderson
⇒ここにも、日本大好き人間であるイギリス人がいましたね。(太田)
 現御神とは、・・・現人神のことです。
 つまり、
「人間宣言は、天皇が神であることの否定がメインではなく、日本にもともとあった民主主義について広く知らせることが目的だったと言え。
 GHQがかかわっていたことについては言うな」
ということです。
 たかが雑誌の座談会ですよ。
 その発言まで指示している。
 実にきめ細かい。」(154)
⇒かかる資質は、昭和天皇だけでなく、歴代天皇の大部分に備わっており、だからこそ、日本において、天皇制・・世界最長の君主制・・が維持されてきたのです。(太田)
(続く)