太田述正コラム#8198(2016.2.5)
<矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読む(その15)>(2016.5.22公開)
 「いったいどうすれば国家主権をとりもどし、正常な国にもどれるかという問題を、さまざまなきり口から検討していっても、最後は必ず憲法の問題に収斂していくことになるのです。
 沖縄や福島で起きている重大な人権侵害を、どうすれば食い止められるかという問題も同じです。」(155)
⇒日本の憲法に規範性なし、との私の主張からすれば、戦後日本における国家主権の毀損、換言すれば、日本の米属国状況は、憲法の文言の問題ではなく、せいぜい、政府憲法解釈の問題、より端的に言えば集団的自衛権の全面的解禁か否か、「に収斂していく」、ということになります。
 それはさておき、「人権」という言葉を排斥する私の立場に立とうと立つまいと、沖縄や福島で起きている「問題」・・沖縄と福島の「問題」の性格は相当異なる・・に、憲法の文言ないし憲法解釈が深くかかわっていることは、矢部の言う通りでしょうね。(太田)
 「そもそもGHQが憲法草案を書く直前の1946年1月には、466人いた衆議院議員(解散中)のうち381人、なんと全体の82パーセントがGHQによって「不適格」と判断され、公職追放<(注22)>されていたのです。
 (注22)「昭和21(1946)年1月4日、GHQから日本政府に対して、「ある種類の政党、協会、結社その他の団体の廃止」(SCAPIN548)「好ましくない人物の公職よりの除去」(SCAPIN550)が発令された。」
http://www.ndl.go.jp/modern/cha5/description07.html
 「後者の付属書が、排除すべき人種をAからGまで七種にわたり列挙していた。 A 戦争犯罪者、B 陸海職業軍人、C 極端な国家主義者、D 大政翼賛会・大日本政治会等の重要人物、 E 日本の膨張政策を狙った開発会社や金融機関の役員、F 占領地長官、G その他の軍国主義者・極端な国家主義者。
 (総司令部内の政策形成を見れば、CIS(民間諜報局)段階の案では一九三〇年代すべてを対象としていたのが、 日中戦争開始の一九三七年(昭和12)七月以降に限定され、また全官庁が対象となっていた案に対して、 陸海軍・軍需の三省に対象が絞り込まれた点で、抑制的な側面もある。 その面での問題点は、形式的にある地位と組織にあった者を、熱狂的軍国主義者と良識派の内実を問わず一網打尽に追放することであった。 D項によって、衆議院に議席を持つ者は、ほぼ全滅と思われた。
 他方、それ以上に大きな問題となるのは、G項であった。 AからFまでは中身を問わないとはいえ、逆に限定性が明瞭であり、いわれのない罪を着せられる危険は乏しい。 それに対し、G項は定義が不明瞭であり、誰でも追放しようと思えばできる。 三月一日の発表により、この点の明確化がなされた。 それによると、一九三七年から一九四五年八月の期間に政府の政策決定に関与した全閣僚を含むトップレベルのすべての官職が、 特に平和主義的であったと逆証されない限り、該当するとした。)」
http://www.c20.jp/1946/01tuiho.html
 「<これ>を受け、同年に「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」(公職追放令、昭和21年勅令第109号)が勅令形式で公布・施行され、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われた。この勅令は翌年の「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」(昭和22年勅令第1号)で改正され、公職の範囲が広げられて戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象になった。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。・・・
 この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、学校やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、労働組合員などいわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になるという、推進したGHQ、<米国>にとっては大きな誤算が発生してしまう。・・・
 その後、<1947年の>二・一ゼネスト計画などの労働運動の激化、<支那>の国共内戦における<1949年の>中国共産党の勝利、<1950年の>朝鮮戦争などの社会情勢の変化が起こり、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策が転換(逆コース)され、追放指定者は日本共産党員や共産主義者とそのシンパへと変わった(レッドパージ)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%81%B7%E8%BF%BD%E6%94%BE
 彼らは憲法改正を審議した第90回帝国議会(1946年6月20日~10月)の議員を選んだ。
 同年4月の総選挙に立候補することができませんでした。(『公職追放論』増田弘/岩波書店)
 これはマッカーサーが意図的におこなった処置で、新しい憲法を審議するための国会に旧体制派の勢力が残らないよう、徹底して排除していたわけです。
 」(162)
⇒典拠が付されていません。
 下掲の経緯に鑑み、タイミングがたまたまそうなった、いうだけのことでしょう。
 「「公職追放」とは、ポツダム宣言第6項に基づき、軍国主義・超国家主義者勢力の永久除去のためにとられた一連の措置のことを言う。・・・
 <まず、>昭和20年10月4日、GHQは、東久邇内閣に対していわゆる「人権指令」を発し、その中で、特高警察等を廃止し、内務大臣・警視総監・特高警察課員等を罷免すること、そして同時に、治安維持法等を廃止し、それらの法令違反で拘留・投獄されている者を10月10日までに釈放することを要求した。・・・
 <次いで、同>年10月30日、GHQは、教職不適格者の追放と、戦時下に弾圧され教壇を追われた教師の復職についての指令を出した。これにより、軍国主義教育に協力した教職者が学校から追放された。それと同時に、大内兵衛・矢内原忠雄等、戦時中、軍部の圧力により教壇を追われていた教授が母校に復職した。」
 そして、それに次いで第三弾として打ち出されたのが、上出の公職追放令だったのです。
 なお、「基準の曖昧さ<(上出のG項!)>と、審査は日本側が行うが、実施はGHQ・・・に握られているという二重構造」もあり、「日本人の中には、保身とか政敵を追い落とすためにパージを利用したり、GHQ内でも、パージを巧妙に用いて日本の政界に影響力を残そうとする動きもあった」とされています」
http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-31.html
が、私見では、公職追放が戦後日本に及ぼした最大の後遺症は、それが旧軍人を最大の標的にした追放(発言権の取上げ)であった(注23)ことであり、その後に制定される新憲法の第9条第2項と相まって、吉田ドクトリンの基盤を醸成したところにあるのです。(太田)
 (注23)「実際のところ、日本における公職追放の衝撃は、日本の保守派や<米国>の友人たちが恐れ、のちに主張されたほど広範なものではなかった。というのは、マッカーサーは追放の執行を日本政府に頼ったし、「新日本の組織の中で他の者と代わることが難しい有能な官僚の職を数多く失わせる」つもりはなかったからだ。全人口の二・五%が追放されたドイツにおける<米>占領地区と比較すると、日本の数字は〇・二九%だった。さらに言えば、漸次追放された二一万人の日本人の中で、八〇%は軍人だった。政治指導者の追放はおもに政党の再編をもたらしたが、ほぼ全占領期間を通じて、保守政党による内閣あるいは議会支配の土台を崩すことにはならなかった。一九四六年四月に予定されていた最初の総選挙を公職追放が完了するまで延期すべきだという極東委員会提案をマッカーサーは却下した。極東委員会は、資金と影響力を有する旧勢力の政治家たちが当選しやすいことを正確に予想していたのである。そうした政治家の多くが追放されたとしても、彼らは自身の身代わりを指名することができた。さらに政治家の追放は、<米国>が日本を統治していくうえで頼りとした国家官僚の力を強化するという効果をもっていた。戦前の日本の侵略と抑圧の体制の中で、官僚がその一翼を担っていたことは明らかであるにもかかわらず、実際には、官僚が追放されることはなかった。同様に実業界やマスメディアの指導者たちも、追放令によって影響を受けることはほとんどなかった。」(ハワード・B・ショーンバーガー『占領 1945~1952』P.77)
http://www.c20.jp/1946/01tuiho.html (前掲)
 「戦前の日本の侵略と抑圧の体制」は笑止千万だが、ショーンバーガーの上掲指摘は、概ね信用できそうだ。
(続く)