太田述正コラム#8204(2016.2.8)
<矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読む(その18)>(2016.5.25公開)
 「日本はすばらしい文化をもっている国ですが、政治指導者たちが論理的思考が苦手だという点だけは、どうごまかすこともできません。・・・
 なにしろ1907年に改定されたハーグ陸戦条約(日本も1911年に批准しています)では、「占領地の法律の尊重」を定めた第43条で、「占領者は、絶対的な支障がないかぎり、占領地の現行法律を尊重する」と定めているのです。
 「ポツダム宣言を守れ」とどんなに圧力をかけられたとしても、占領軍自身による憲法草案執筆なんて、・・・社会科学の先進国であるドイツやフランス<なら>・・・絶対に受け入れるはずがありません。・・・
 ドイツにも、日本と同じく占領軍の軍政長官がいて(西ドイツだけで米英仏の三人の軍政長官がいました)、彼らから文書を渡され、「この方針に沿って憲法を改正せよ」と圧力をかけられる状況は同じでした。・・・
 しかし、やはりドイツは政治指導者や知識人がすぐれていた。
 まず占領中はいくら言われても絶対に正式な憲法をつくらず、1945年5月の独立時に・・・基本法(ドイツ連邦共和国基本法)という形で「暫定憲法」を定め、そのなかに、「この基本法は、ドイツ国民が自由な決定により議決した憲法が施行される日に、その効力を失う」(第146条)という条文を入れています。
 当時ドイツは東西に分断されていたため、将来の統一時にあらためて正式な憲法を制定するとしたわけです(結局、統一後も基本法のままなのですが)。・・・
 そうした常識があれば、占領が終わる前はもちろん、50万人(1946年時点)もの日本人が住む沖縄が議会に代表を送れない状況で憲法をつくっては絶対にならないという声が、きっと知識人のあいだから出たことでしょう。」(171~172)
⇒このくだりは無茶苦茶です。
 どうやら、矢部自身が「論理的思考が苦手」で「常識が<ない>」ようですね。
 ドイツ(西ドイツ)が「<独立、すなわち、>主権<を>回復」したのは1955年5月5日であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84
基本法という、名称はともかくとして憲法、が制定・施行されたのは、いまだ、米英仏の占領下にあった1949年5月23日でした。
https://en.wikipedia.org/wiki/Basic_Law_for_the_Federal_Republic_of_Germany
 しかも、名称を憲法としなかったのは、ハーグ陸戦条約第43条との関係では全くなく、(東ベルリンを含む)東独がソ連の占領下にあった・・その状態が事実上、冷戦終焉まで続いていくことになる(太田)・・のでその部分には憲法が適用されず、その上、米英仏の占領下にあった西ベルリンにまで憲法が適用されない、ということを考慮したからに過ぎません。(上掲)
 そもそも、矢部は、米英は「社会科学の先進国で」ない、とでもいうのでしょうか。
 矢部が、荒唐無稽ながら、仮にそう思い込んでいたとしても、矢部自身がお墨付きを与えたところの「社会科学の先進国である・・・<はずの>フランス」が、米英とともに、「ハーグ陸戦条約」を無視して、占領下の西ドイツに憲法制定を指示したことを、矢部は、一体どう説明するつもりなのでしょうか。
 (なお、ドイツ(西ドイツ)が、東西ドイツが統一されても名称を基本法のままにしたのは、制定以来、基本法が50回も改正されてきた(上掲)ところ、基本法の改正が、下院の絶対3分の2の賛成と上院の単純3分の2の賛成だけで、つまりは、国民投票抜きで行える(上掲)けれど、憲法ともなれば、そうもいかない、からではないか、と私自身は勘繰っています。)
 ここで、ハーグ陸戦条約第43条について説明しておきましょう。
 「ハーグ陸戦条約第43条は、次のように定めている。
 第43条国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法規を尊重して、成るべく公共の秩序及び生活を回復確保するため、施し得べき一切の手段を尽くすべし(原文は旧字体、カタカナ書き)。
 この定めによれば、日本国憲法は、占領という異常事態の下で、しかも、占領軍の圧力に屈して制定されたものであるから、同条に違反し、日本国憲法は無効であるとする。こうした主張に対しては、ハーグ陸戦条約は交戦中の占領軍にのみ適用されること、日本の場合は交戦後の占領であり、したがって、原則としてその適用を受けないこと、仮に適用されるとしても、ポツダム宣言・降伏文書という休戦協定が成立しているので、特別法は一般法に優先するという原則に従い、休戦条約(特別法)が陸戦条約(一般法)よりも優先的に適用されることなどが指摘されている。
 なお、日本政府は、この点について、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則中の占領に関する規定は、本来交戦国の一方が戦闘継続中他方の領土を事実上占領した場合のことを予想しているものであって、連合国による我が国の占領のような場合について定めたものではないと解される。」と答弁している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
 この日本政府答弁は、戦後のドイツの占領にもあてはまる、「論理的思考」に則った「常識」であり、米英仏独の各政府もまた、同じ考えのはずです。
 ところで、日本の憲法とドイツの基本法が、それぞれ制定された当時、どこが違っていたかと言えば、当然のことながら、前者には天皇(一種の君主)についての規定があったが後者にはなかったこと、及び、前者には軍隊保持禁止規定があり、後者にはそれがなかったことです。
 (日本に関しては、天皇についての規定と軍隊保持禁止規定がバーター関係にあった、という話をしたばかりです。)
 で、後の方についてですが、軍隊保持禁止規定がなかったにもかかわらず、ドイツも軍隊を保持していませんでした。
 理由は、基本法にはその時点では軍隊に関する規定がなかったところ、それが障害になったわけではなく、単に、占領していた米英仏がそれを望まなかったからです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bundeswehr
 ところが、朝鮮戦争勃発後、日本の方は、占領中の1950年8月10日に、早くも、国際的には軍隊、つまりは憲法違反であるところの警察予備隊が設置されます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E4%BA%88%E5%82%99%E9%9A%8A
 ドイツで軍隊である連邦軍(Bundeswehr)が設置されたのは、占領終了後半年経った1955年11月12日で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%80%A3%E9%82%A6%E8%BB%8D
日本に遅れること、実に5年3ヵ月です。
 ちなみに、基本法に(徴兵制を含む)軍隊に関する規定が盛り込まれたのは、その翌年の1956年3月19日です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Basic_Law_for_the_Federal_Republic_of_Germany
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%80%A3%E9%82%A6%E8%BB%8D (太田)
(続く)