太田述正コラム#8206(2016.2.9)
<東と西/人間主義と個人主義>(2016.5.26公開)
1 始めに
 本日のディスカッションで言及した、人間主義に関するコラムは、NYタイムスに載っていた、ジュリアン・バジーニ(Julian Baggini)が筆者である下掲
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2016/02/08/the-self-in-east-and-west/?ref=opinion
であるところ、そのさわりをご紹介し、私のコメントを付します。
 なお、バジーニ(1968年~)は、「ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンから博士号を授与された・・・<英国>の哲学者」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%8B
https://en.wikipedia.org/wiki/Julian_Baggini (<>内)
です。
2 東と西/人間主義と個人主義
 「・・・東においては、他者達との諸関係から独立したところの、我(self)に意味はない(no meaning)、としばしば主張される。
 我は、掛け値なしに(irreducibly)社会的なものなのである、というのだ。・・・
 ・・・最も一般に銘記されるところの、東における我の概念に係る大雑把な様相は、その関係性(relationality)だ。
 <それに対し、>西においては、我は、その存在が、他者達とは明確に区別されるところの、自律的な(autonomous)自我(ego)としてもっぱら理解される・・・。・・・
 以上の証拠は無数に存在している。
⇒「東」と「西」という雑駁な用語に対する違和感はさておき、理念次元においては、そう言えなくもないかもしれませんが、実態においては全く正しくない、と私は思います。
 関係性において我を捉えるところの、「人間」という言葉が、(恐らく)「東」「西」どころか、世界中において、日本だけにしか存在しないのはどうしてかと言えば、日本においてのみ、理念においてのみならず、実態においても、人々が関係性において我を理解し、言動を行っている・・つまりは人間主義社会が世界中で日本にのみ存在する・・からです。(太田)
 <但し、東西のこの違いは程度の差に過ぎない。>
 <例えば、東においてだが、>日本語には「私」を意味する異なった1ダースを超える言葉群が存在し、正確な社会的諸事情に拠って、人はそのどれかを用いる。
⇒「東」と言いながら、筆者が、基本的に日本の実例しか持ち出していない・・後で北朝鮮が出てきますがね。・・、というか、持ち出しえないことが、上での私の指摘を裏付けています。
 それはともかく、バジーニが、日本人が、人間関係(相手)によって異なった我を演じている、と誤解しているようなのが気になります。(太田)
 <日本で「私」を意味する言葉の中には、西における自律的な自我を意味するものもある。(という趣旨だと私は理解したのですが・・。(太田))>・・・
 <また、西においてだが、>ウィリアム・ジェームズ(William James)(コラム#6991)<のような哲学者> は、はっきりと、社会的我(social self)について語っている。
⇒ジェームズは、’material self’と’social self’を対で用いており、前者は、我・配偶者・子供・親・我の(財産等の)収集物、を指し、後者は、役割・地位が求める我・・例えば、’material self’としては逃げ出したくても、軍人としては戦わなければならない・・を指しています。
http://psychclassics.yorku.ca/James/Principles/prin10.htm
 これは、私の言葉に置き換えれば、人情的我と義理的我、ということです。
 どうやら、バジーニの言うところの、「他者達との諸関係から独立したところの、我(self)に意味はない」は、「関係性によって一方的に規定されるところの我」ということであり、露骨に言えば、義理によって一方的に抑圧される人情、ということらしいですね。
 だとしたら、ジェームズ/バジーニの念頭にあるものは、人間主義とは似て非なるものである、と断じなければならないでしょうね。(太田)
 しかしながら、<ジェームズのような人は例外なのであって、>一般的に言えば、西の人々は、関係性を軽視し、個人性(individuality)を強調する。
 <とまれ、>現在では、西における多くの人々がこのことに疑問を投げかけており、我々が、余りにも原子のような存在、余りにもバラバラ(discrete)、になってしまったのではないか、と思っている。
 東における、我についてのものの考え方は、これをどうやったら変えられるかを考える縁(よすが=resource)になる。・・・
⇒要するに、バジーニは、「西」の人々は、人情至上主義を止めて、もっと、役割・地位に応じた義理を重んじなければならない、と主張しているわけです。(太田)
 <他方、東においては、逆に、西における我についてのものの考え方が浸透しつつある。>
 例えば、日本では、西の個人性の諸様相がより顕現化してきており、若干の諸研究の中には、若者の間で、奉仕と我の放棄(abrogation)という伝統が余り価値を置かれなくなった、ということを示唆するものがある。
⇒戦後の「右」の頭の固い人々の中にそういう主張を行っている者がいる、というだけのことです。(太田)
 (もっとも、廃れ行く古き諸価値への諸嘆きはこれらの諸価値そのものと同じくらい古いことが銘記されなければならない。)
⇒それはその通りでしょう。(太田)
 しかしながら、我々は、<東にも大いに学ぶべきだとする(太田)>普遍主義的敬意(ecumenical respect)が、真の詮索(interrogation)を妨げることのないよう注意しなければならない。
 他の諸流儀(traditions)から学ぶためには、良い面だけでなく悪い面も見なければならないのだ。
 例えば、個人性を余り強調しないことの負の側面として、過度の畏敬(deference)とそれに伴うところの不正義に反対するエネルギーの欠如、がありうる。
 我が関係性において定義されると、我は、社会によってより制約され、かつ、より柔軟性を欠いたものにもなってしまいうる。
⇒しつこいようですが、これらは、人間主義とは全く関係のない話です。(太田)
 このことが、日本における比較的高い自殺率を部分的に説明するのかもしれない。
⇒単に、日本人達はキリスト教的な自殺の禁忌から自由である、というだけのことです。(太田)
 北朝鮮は、我の格下げ(relegation)が、いかにひどい諸事柄の手段(tool)たりうるか、を思い起こさせるところの、<我々に対する、>一層際立った注意喚起(starker reminder)であると言えよう。・・・」
⇒これは、「東」とは関係がないのであって、北朝鮮は、むしろ「西」の悪影響を受けたからこそそうなってしまった、と言うべきでしょう。
 すなわち、「西」においては、個人主義に立脚したイギリス由来の市場的原理、及び、全体主義に立脚した欧州由来の固い組織的原理が併存しているところ、スターリン主義は、後者の原理が肥大化したものであり、それを継受した北朝鮮が、この原理を極限化してしまった、というのが私の見解なのです。(太田)
3 終わりに
 英国の頭が柔らかそうな知識人にして、いまだに、いかに、人間主義に無理解であるか、というか、人間主義について無知であるか、が確認できたわけですが、このことを、残念に思うべきか、ほくそ笑むべきか、悩ましい限りです。