太田述正コラム#8286(2016.3.20)
<神聖ローマ帝国(その1)>(2016.7.21公開)
1 始めに
 ピーター・H・ウィルソン(Peter H. Wilson)の『欧州の核心–神聖ローマ帝国史(Heart of Europe:A History of the Holy Roman Empire)』のさわりを諸書評をもとにご紹介し、私のコメントを付します。
A:http://www.csmonitor.com/Books/Book-Reviews/2016/0301/Heart-of-Europe-is-history-at-its-most-engaging
(3月5日アクセス)
B:http://www.telegraph.co.uk/books/what-to-read/the-holy-roman-empire-by-peter-h-wilson-review-definitive/
(3月9日アクセス)
C:http://www.spectator.co.uk/2016/01/the-holy-roman-empire-has-been-much-maligned/
 ちなみに、ウィルソン(1963年~)はリヴァプール大卒、ケンブリッジ大博士で、サンダーランド(Sunderland)大、ニューカッスル大等で教鞭を執り、現在、オックスフォード大教授、
https://de.wikipedia.org/wiki/Peter_H._Wilson (←専攻の関係からだろうが、英語ウィキペディアは存在しない。)
という人物です。
2 神聖ローマ帝国
 (1)序
 「・・・ウィルソンの本は、1000年にわたる全歴史を1巻でカバーして<おり、>・・・歴史を<編年体ではなく、>諸範疇に分けて扱うという何か非常に野心的な諸試みを行っている。・・・」(C)
 「・・・「この帝国は、通常の民族(national)史に形を与える諸物・・安定した中心地域(stable heartland)、首都<(注1)>、中央集権的な政治的諸制度、そして、恐らく最も根本的なことだが、単一の「民族(nation)」・・を持っていない。
 (注1)これは、1346年までのことだ。
 ルクセンブルク家出身のボヘミア王が、皇帝に就任してカール4世となったところ、
https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_IV,_Holy_Roman_Emperor
彼が、1346年にプラハを帝国の首都に定めている。(~1437年。1583~1611年)
https://en.wikipedia.org/wiki/Holy_Roman_Empire
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD
 また、爾後、皇位を継続的に帝国の終焉(1806年)まで保持し続けることとなるハプスブルク家出身のフリードリヒ3世が1452年に皇帝に就任し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%923%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
彼によってウィーンが1483年に帝国の首都に定められてからは、1583~1611年(上掲)を除き、首都は最後までウィーンであり続けた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD 前掲
 「この帝国の発展における、複数の諸路、諸迂回、そして、諸袋小路」の水路図(charting)を作るのは、とりわけ大変だった、と記している。・・・」(A)
 (2)起源
 「・・・ウィルソンは、彼の叙述を、法王レオ(Leo)3世がフランク族の統治者たるシャルルマーニュ(Charlemagne)<(コラム#2382、3438、7538、8039)>を、800年12月25日に、「ローマ王(King of the Romans)」として戴冠させて帝国が創設された時から始める。
 カロリング家(Carolingian)は、1世紀近くこの称号を維持したが、その後は、身内同士の悪しき戦争が962年まで続き、時のドイツ王のオットー(Otto)1世<(注2)>がこの称号を新たに帯びた(renovated)ところ、それが何世紀も続くことになり、ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte)によって廃棄されることで、1806年にようやく終焉を迎えた。・・・
 (注2)912~973年。東フランク王国国王:936~973年、神聖ローマ帝国初代皇帝:962~973年。「ザクセン大公ハインリヒ(後の東フランク王ハインリヒ1世)<を父>・・・として生まれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC1%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
 この帝国の特異性は、キリスト教的な政治思想に深く根差している。
 すなわち、天に一つの神しかおられないのだから、一人の皇帝しか存在し得ない、という・・。・・・」(A)
 「・・・929年に、<イギリスの>アルフレッド大王(Alfred the Great)<(コラム#1501、1650、3077、3438、3442、3465、3724、3954、4391、5009、6970、7332等)>の数多い孫娘達のうちの一人がザクセン(Saxony)へと旅立った。
 イーディス(Edith)<(注4)>は、そのわずか2年前に、ブリテン島の英語をしゃべる人々全員の支配を自ら勝ち取っていたところの、アゼルスタン(Athelstan)<(注3)>の異母妹なるが故に、キリスト教圏で最も引く手あまたの独身男性たるオットーの関心(admiration)を惹いたのだった。・・・」(B)
 (注3)894?~939年。アングロサクソン王:924~927年、イギリス国王:927年。父はイギリスのエドワード長兄王(Edward the Elder)。イギリスのサクソン(ザクセン)系の王。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
 (注4)エドギタ(Edgitha/Eadgyth/Adgyth・910~946年)。イギリスエドワード長兄王の娘。「異母兄のアゼルスタン王は、同じザクセン族のドイツ王ハインリヒ1世と友誼を結ぶため、ハインリヒの息子オットーの元に花嫁候補として2人の妹エドギタとエルギフ(Alfgifu)を送り込んだ。オットーはエドギタを伴侶に選び、2人は929年に結婚した。・・・36歳頃に急死した」ため、神聖ローマ帝国初代皇后になりそこねている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%AE%E3%82%BF
⇒10世紀当時に、サクソン(ザクセン)同士のつながりが残っていた、というのは今まで私が気付かなかった事実です。(太田)
(続く)