太田述正コラム#8306(2016.3.30)
<ナチスの原点(I部)(その4)>(2016.7.31公開)
 「・・・<時を遡るが、ミュンヘン一揆の時、>ヒットラーは<舞台の>後ろから登場し、演説を行ったが、ある目撃者によれば、「手袋のように、群衆の表裏をひっくり返した」。
 これは、大勢を前にしたヒットラーの傑出した語りと説得の力が実際のところどうであったのかについて、我々がこれまで聞いた中では最も良い証明だ。
 そして、この非常に短い演説の最後には、人々は、何と、はやし立てて足を踏み鳴らし、彼の新しい計画を承認していた。・・・
 ヒットラーと彼の2000人の男達がミュンヘンの中心部を行進した時、彼らは、群衆からたくさんのはやし立てと支持を得たのだが、反対側の下町のオデオン広場(Odeon Square)に<彼が>現れた時に、バイエルン州警察の射撃手達の一隊と向かい合わせになると、この射撃手達は、膝を付き、射撃姿勢をとり、本当に彼らに対して発砲した。
 <こうして、>この一揆は、極めて暴力的な形で終わりを迎えた。
 16人の人々…とバイエルン警察の部隊の4人が殺された。
 これでもって一揆は終わりを迎え、ヒットラーは、ひどく肩を脱臼して倒れたけれど、逃亡し、2日後に、ミュンヘン郊外の友人の別荘で逮捕された。・・・」(C)
 (3)裁判
 「・・・多くの観察者達は、この素人っぽい一揆の後、このミュンヘンからの成り上がり者たる民衆扇動家(rabble-rouser)は政治的に終わってしまった、と確信した。
 しかし、著者が裁判の生き生きした叙述の中で指摘するように、ヒットラーは、検察官のハンス・エハード(Hans Ehard)<(注14)> が、彼を「この企て全体の魂(soul)」と呼んだ時に光り輝く完璧な機会を与えられたことをすぐに自覚したのだ。
 (注14)1887~1980年。ミュンヘン大学とヴュルツブルク大学で法学を学ぶ。第二次世界大戦後、バイエルン州司法相。
https://de.wikipedia.org/wiki/Hans_Ehard
 同情的な裁判官と傍聴人達を前にした、ヒットラーは、そのぶらぶら歩きのような、しかし高度に効果的な、諸演説の中で、自分自身を、ワイマール共和国を嫌っていた全ての者達の声として示すと共に、自分達を逮捕する前にナチスと協力していたところの、バイエルン州当局の偽善性を指摘した。・・・」(A)
 「・・・当初は、ランズベルク刑務所は、ヒットラーの政治的諸大志の終末線であるように見えた。
 著者は、しばらくの間失意の人となったヒットラーの姿を提示する。
 彼は、ハンストを試み、鬱と意気消沈に陥った。
 しかし、それが、自分の裁判のための諸準備が始まると変わった。
 彼の裁判に対する新聞<論調>と<人々の>関心が<彼のもとへ>伝わって来たところ、<高い関心がある以上、>それは、この裁判が、小さな刑務所付属の裁判室でではなく、ミュンヘンで行われなければならないことを意味したからだ。
 ヒットラーは生き返った。
 彼は、貪欲に読書をし、そして執筆を始めたのだ。・・・
 彼の裁判は、1924年2月26日に始まり、ドイツ国内と国外において広範に報道された。
 この巨大な舞台を与えられたヒットラーは、敵から与えられたこの機会を鷲掴みにし、ドイツ民族のための彼のナショナリスト的ヴィジョンを推進しようとした。
 著者は、同時代の諸史料を活用して、ヒットラーの観衆を巻き込む(engage)傑出した能力を<我々の眼前に>蘇らせる。
 例えば、下掲の記述は、ヒットラーの極端なナショナリズムに対する同情心など持ち合わせていなかったところの、リベラルな新聞であったフランクフルター・ツァイトゥング(Frankfurter Zeitung)の記者によって書かれたものだ。
 「彼は声を和らげ、次いで、次第に、劇的な叫び声へと、いや、しわがれた悶絶叫へとさえ、至るまで、声を強めて行く。
 次いで、彼の声は、彼の、倒れた仲間達に対する悲しみでしわがれる。
 彼は、自分の諸敵の震えている臆病さを侮蔑的に嘲る。
 自分の諸言葉を自分の両手による生き生きとした所作でかたどりしつつ、ヒットラーは、話の区切りに来ると、その都度両手でそれを分からせ、左手の人差し指を州検事に突き付けることによって皮肉たっぷりの或いは攻撃的なコメントを強調し、自分の演説を印象付けるために自分の頭や身体さえ動かした。
 その修辞的インパクトは強力だった。」
 もう一人の記者によれば、ヒットラーが醸し出した印象は極めて積極的なものであったので、この裁判の市民裁判官達の一人が、「このヒットラーってなんて凄い奴(tremendous guy)なんだろう!」とつぶやくのが聞こえた。
 他の者達は、ヒットラーについて新聞諸報道で読んで、遠くにいて、彼に惹きつけられた。
 この裁判から400マイルも離れた所にいた20代の若い男は、日記にこう書いた。
 「私は、彼の諸演説を読んでいるが、自ずから、彼によって鼓吹され星々の世界へと運ばれて行ってしまう」、と。
 それは、ヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels)<(注15)(コラム#1428、2035、3606、4065、4338、4427、4429、4836、5370、5408、5431、5458、5460、5737、5875、8272)>だった。・・・」(B)
 (注15)1897~1945年。「「プロパガンダの天才」「小さなドクトル」と称され、アドルフ・ヒ<ッ>トラーの政権掌握とナチス党政権下のドイツの体制維持に辣腕を発揮した。敗戦の直前、ヒ<ッ>トラーの遺書によってドイツ国首相に任命されるが、直後に家族とともに自殺した。」身体障害で背が小さいというコンプレックスを抱えており、いくつもの大学で学んだ後、ハイデルベルク大学で哲学の博士号を取得したが、碌な仕事にありつけないという目に遭った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B9
⇒これまで登場したナチス関係者中、最も高学歴なのがゲッペルスですが、彼も、トホホな人物ですよね。(太田)
(続く)