太田述正コラム#8454(2016.6.12)
<一財務官僚の先の大戦観(その51)>(2016.10.13公開)
 「軍ににらみを利かせていたのは、伊藤のような元老たちだけではなかった。
 大正元年に起きた二個師団増設問題<(注103)>では、日銀総裁から大蔵大臣になっていた山本達雄<(注104)>が上原勇作<(注105)>陸軍大臣の要求を退けている。
 (注103)「日露戦争開始期13個師団であった陸軍兵力は,戦時に4個師団増え,戦後の1906年9月に2個師団増設され19個師団となった。翌07年策定の帝国国防方針にもとづき陸軍はさらに朝鮮駐留の2個師団増設を要求したが,。11年8月成立の第2次西園寺公望内閣は,・・・戦後の財政難のなかで・・・行財政整理を政策の中心にすえ・・・この要求<を認め>なかった。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E5%80%8B%E5%B8%AB%E5%9B%A3%E5%A2%97%E8%A8%AD%E5%95%8F%E9%A1%8C-1192461
 (注104)1856~1947年。豊後国臼杵藩士の子として生まれ、苦学して慶應義塾卒。郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)入社、日本銀行、横浜正金銀行を経て日銀総裁。次いで日本勧業銀行総裁、そして、第2次西園寺内閣の蔵相。更に、農商務大臣(2回)、内務大臣を歴任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E9%81%94%E9%9B%84_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)
 (注105)1856~1933年。薩摩藩島津氏一門・・・の子として生まれ、陸士卒、仏留。「日本工兵の父」と称される。・・・
 1912年(明治45年)・・・第2次西園寺内閣の陸軍大臣に就任。陸軍提出の2個師団増設案が緊縮財政を理由に拒否されるや、・・・辞任。陸軍は上原の後任者を出さず、軍部大臣現役武官制を利用して内閣を総辞職させた。・・・
 陸軍大臣、教育総監、参謀総長、元帥の「陸軍三長官」を歴任したのは帝国陸軍史上、上原と杉山元の2名のみである。・・・
 シベリア出兵では、国際協定によって撤兵が決定されていたものの、当時参謀総長であった上原は「統帥権干犯」を理由に拒絶する。原内閣が陸相田中義一の同意を得て撤兵を閣議決定するや、撤退協定締結の前夜にロシア側を総攻撃してウラジオストクを占領する。結果、日本だけがシベリアに駐留することとなって国際的非難を受け、また、これにより尼港事件の遠因ともなった。原敬首相は「参謀本部の陰謀」と断じて上原を非難し、激怒した田中が上原を更迭しようとすると、上原は元老山縣有朋に懇願して更迭策を阻止している。
 陸軍部内では、九州出身者を中心に「上原閥」を形成して長州閥に対抗した。元帥として影響を持ち続け、長州閥の田中義一と対立した。田中を後継した宇垣一成による宇垣軍縮に対抗してその反対派を支援し、後の皇道派結成の温床となった。派閥抗争・確執の遠因となったとの意見もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%8B%87%E4%BD%9C
 軍に対するシビリアン・コントロールは、後に重臣と呼ばれるような人々(山本は首相候補者とされたが、首相にはならなかった)によっても行われていたのである。
⇒私は、シビリアン・コントロールという言葉は使うべきではない、という立場ですが、いずれにせよ、ここでの話は、単に、大蔵大臣、ひいては内閣、が陸軍予算を査定し、その予算を国会が承認した、というだけのことでしょう。
 大げさな。(太田)
 時代が大正から昭和となり元老たちが歴史の舞台から退場するようになると、最後の元老とされた西園寺が軍閥の跋扈を前にして元老に代わるものとして期待したのは、その重臣(首相経験者)たちであった。
 しかしながら、その重臣たちが君側の奸として五・一五事件や二・二六事件で暗殺の対象とされるようになると、重臣たちの実質的な発信力は封じられてしまい、結局、我が国では軍部の暴走の前に弱い首相を支える仕組みは成立しなかったのである。
⇒軍部の暴走などなかったし、特段、内閣制下の首相として日本の首相は「弱」くなかった、との私の立場からすれば、このあたりの上下の記述はナンセンスです。(太田)
 なお、軍部の中でも陸軍が暴走を始めるようになった直接の契機は、シベリア出兵(大正7年~11年)であった。
 シベリア出兵に際し、参謀本部は特務機関を新設するとともに、日本軍を中国軍司令官の指揮下に入れうるとの協定を中国と結ぶことによって満州全域で事実上自由な行動をとるようになった。
⇒「中国軍司令官~」は初耳であり、もう少し詳しく説明して欲しかったところです。(太田)
 そして、実際の行動を可能にするために軍の出先が機密費を持つようになった。
 それが、軍の出先が財政面からの政府や議会のコントロールを外れて勝手な行動をとることを可能にしたというわけである(加藤洋子「歴史は生きている」『朝日新聞』2007年10月1日付)
⇒ここは、松元は加藤の記述を単に横流ししていますが、シベリアへの「積極的な出兵論とは、<英米>の考え方に関係なく日本は主体的かつ大規模に出兵を断行せよという立場であ<って、>これが参謀本部および外相本野一郎ならびに内相後藤新平達の出兵論である。対して、これと比較するとやや消極的な出兵論すなわち対米協定<に基づく>の出兵論が、元老山県有朋および憲政会総裁の加藤高明ならびに立憲政友会総裁の原敬達によって唱えられた。対米協定にもとづく妥協案が形成され、出兵に踏み切った」、という背景の下「寺内首相は同地域において日本の息のかかった傀儡政権を樹立する事を参謀本部・・・に命じ<るとともに、例えば、>・・・ロシア人住民の対日感情が芳しくないことを熟知すると、日本国内の宗教団体を利用する方式を採用し、日本正教会と西本願寺に白羽の矢が立った。前者からは、・・・計4名の神父、後者からはウラジヴォストークの西本願寺布教場の<布教>師が工作員に指名された。・・・外務次官・・・から陸軍次官・・・に宛てた通牒(1918年8月22日付)<には、>・・・「表面全然政府ト関係ナキ体裁」をとることなど、工作を実施する上での規定が詳細に記されている。<こうして、>日本軍特務機関および総領事と緊密な関係を保ちつつ<彼らは活動した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5
というのですから、一事が万事、在シベリアの日本軍部隊にせよ、日本の領事館にせよ、当時、多額の機密費が必要であったのは当然です。
 この時に設けられた機密費制度が、シベリア出兵が終了してからも残ったとすれば、それが、いかなる理由で、どういう形で残ったのかを、松元は調査の上で、具体的に記すべきでした。
 なお、上で紹介した、シベリア出兵時の、上原参謀総長による、事実とすればゆゆしき「武勇伝」については、上掲のシベリア出兵のウィキペディアに言及がないのが不思議です。(太田)
(続く)