太田述正コラム#8571(2016.8.26)
<チーム・スターリン(その2)>(2016.12.10公開)
 (2)チーム・メンバー達
 「スターリンは、気儘な暴君(tyrant)というより、クレムリンのチームの船長だった。
 フィッツパトリックは、このチームの初期の成員達を追跡し、恒常的に激動が続いた諸時代であったにもかかわらず、この成員達が瞠目すべきほど一定であり続けた、と主張する。」(C)
 「<このチームの成員達の>諸氏名は、学者達にとっては周知なことだろうが、フィッツパトリックは、我々がこれらの諸氏名にそれぞれ容貌を付与することを可能にしてくれる。
 当時、スターリンの最も近しい仲間(associate)であったヴャチェスラフ<・ミハイロヴィチ>・モロトフ(Vyacheslav Molotov)<(注1)>は、面白味もカリスマ性もなかったが、仕事だけはいくらでもやった–
 (注1)1890~1986年。「[ロシアの店の事務員の息子で無学歴。]・・・
 1930年には人民委員会議議長(首相)に就任し、以降11年間にわたってその座を占め続けた。<また、外相を1939~49年、1953年~56年、務めた。>・・・
 1930年代以降唯一、スターリンに対して革命時代の愛称「コーバ」を使うことの許された人物であり、スターリンも彼のことを「モロトシヴィリ」「モロトシュテイン」といったあだ名で呼んだ。妻はユダヤ人の仕立屋の娘であり、ウクライナ共産党の書記や交通人民委員を務めた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%A3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%95
https://en.wikipedia.org/wiki/Vyacheslav_Molotov ([]内)
 ラヴレンチー<・パーヴロヴィチ>・ベリヤ(Lavrenty Beria)<(注2)>は、お調子者的に人に敬意を表し、かつ、あくどいほど機知に富んでいた–
 (注2)1899~1953年。グルジアの少数民族出身でバクー大(?)工業学部で学ぶ。・・・
 大粛清の主要な執行者(実際にベリヤが統轄したのは粛清の終結局面のみだったにせよ)とみなされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%A4
 ラーザリ・<モイセーエヴィチ・>カガノーヴィチ(Lazar Kaganovich)<(注3)>は、知識人達に対する劣等感を抱いた、いじめっ子だった–
 (注3)1893~1991年。ユダヤ人の両親の元に生まれ、無学歴。「1934年の第27回党大会において、カガノーヴィチは集計委員会議長となった。彼は中央委員会の役員選挙において、スターリンの立候補に反対する290個の票を取り除き、改竄した。彼の行為により、セルゲイ・キーロフの代わりにスターリンを書記長として再選させた。規約では、反対票がより少ない候補者が書記長となる。カガノーヴィチが改竄する前のスターリンの反対票は292、対してキーロフはわずか3票であった。しかしながら、「公式」の結果では(カガノーヴィチの妨害により)、スターリンへの反対票は2票だけであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%AC%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81
 スターリンの「農民」たる子分(protege)のニキータ・<セルゲーエヴィチ・>フルシチェフ( Nikita Khrushchev)<(注4)>は、粗野な外観の下に鋭い頭脳を隠していた–
 (注4)1894~1971年。ウクライナ人家庭(父は炭鉱夫)にロシアで生まれ、両親と共にウクライナに移り住んだ。晩学だが、ソ連の国立モスクワ高等工業学校で冶金学を学ぶ。スターリンの死後、ソ連の第4代最高指導者・・レーニン、スターリン、マレンコフ(9日間)、の後・・となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%95
そして、1926年にカフカス地方からモスクワに、このチームに加わるためにやってきた3人の友人達であるところの、威勢の良い若きアナスタス・<イワノヴィチ・>ミコヤン(Anastas Mikoyan)<(注5)>、短気でカリスマ性のあるグリゴリー・<コンスタンティノヴィチ・>オルジョニキーゼ(Grigory Ordzhonikidze)<(注6)>、そして、チャーミングなセルゲイ・<ミローノヴィチ・>キーロフ(Sergei Kirov)<(注7)>、に出会う。
 (注5)1895~1978年。アルメニア生まれのアルメニア人でグルジアのトビリシの神学校で学ぶが無学歴。「戦後の1946年ソ連閣僚会議副議長(副首相)として首相であるスターリンを補佐した。その後も一貫して外国貿易と国内商業を担当し、戦後のソ連経済の復興に当たり、「赤い商人」の異名をとった。・・・フルシチョフ失脚の翌1965年、最高会議幹部会議長<(国家元首)>の職を辞任し、事実上ミコヤン自身も失脚することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%82%B3%E3%83%A4%E3%83%B3
 (注6)1886~1937年。グルジア生まれのグルジア人。トビリシのミハイロフ病院医療学校卒の医師。「自殺の前夜、・・・ミコヤン・・・に対し、「スターリンが党に対して行っていることを許せないが、もうこれ以上それと闘う力を持たない」と打ち明けていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8B%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%BC
 (注7)1886~1934年。ロシア生まれのロシア人だが、「カザン工業学校を卒業後<(要するに無学歴(太田))>、シベリア、カフカースなどで革命運動に加わり、1914年北カフカースでボルシェビキの組織責任者となった。」不倫相手の夫に殺される。この「暗殺事件は、大粛清の契機となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%95
 クリム<(クリメント)・エフレモヴィチ>・ヴォロシーロフ(Klim Voroshilov)<(注8)>、ミハイル・<イヴァーノヴィチ・>カリーニン(Mikhail Kalinin)<(注9)>、ヤン・<エルネストヴィチ・>ルズターク(Jan Rudzutak)<(注10)<、ヴァレリヤン・<ウラジーミロヴィチ・>クイビシェフ(Valerian Kuibyshev)<(注11)>、ゲオルギー・<マクシミリアーノヴィチ・>マレンコフ(Georgy Malenkov)<(注12)>、及び、アンドレイ・アンドレーエフ(Andrei Andreev)<(注13)>もまた、明確に選抜された鍵たるプレヤー達として、それぞれ大役を演じた。」(B)
 (注8)1881~1969年。ウクライナでロシア人鉄道労働者の家庭に生まれる。無学歴。「1934年、国防人民委員(国防相)に就任し、翌1935年にはソ連邦元帥の称号を得た。1939年11月から1940年1月まで冬戦争(第1次ソ・芬戦争)でソ連軍を指揮するが、フィンランド軍の粘り強い抵抗の前に非常な苦戦を強いられ、多くの死傷者を出した。この責任を取る形で40年3月、国防人民委員を解任された。この頃、夕食会の席上でスターリンから失策を痛罵され、思わず「(苦戦の原因は)あなたの粛清だ! 多数の優秀な将校がいなくなったからだ!」と激しく反駁したという逸話が残っている(これは衆人環視のなかで彼が怒りを爆発させたほとんど唯一の事例であり、かつ独裁体制を樹立したあとでスターリンに直言したものが政治的に生き残った数少ない例のひとつでもある)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%95
 (注9)1875~1946年。ロシアでユダヤ人農民家庭に生まれ、無学歴。「大粛清において、スターリンは当時まで生存していた革命時代の元勲を自身の脅威と見なし、そのほとんどを追放、処刑していた。その中でカリーニンはソ連成立初期から実権の無い国家元首という名誉職にあったことで権力闘争から遠ざかっていたことから自身は粛清対象とはならずに命脈を保った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3
 (注10)1887~1938年。ラトビアで農場労働者の家庭に生まれ、無学歴。「大粛清への支持・協力をおこなっていたが、大粛清が激化してくると自身も粛清された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%AF
 (注11)1888~1935年。「<ロシアの>軍人の家庭に生まれ、オムスク幼年団(陸軍幼年学校)で学んだ。・・・1905年、軍事医学アカデミーへ入学したが、1906年に退学させられた。・・・<ソ連の要職を歴任した後、>心臓発作で急死」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%93%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%95
 (注12)ロシアでマケドニア人移民の家庭に生まれ、モスクワ高等工科学校卒業。「1953年のスターリンの死により、・・・閣僚会議議長(首相)兼共産党書記局筆頭書記となり、<ソ連>の最高指導者となった<が、1957年に完全失脚した。>・・・、80歳を過ぎてからはモスクワの<ある>・・・教会合唱団に所属していた。・・・歴代指導者のうち最も長命で、後任のフルシチョフ、ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコよりも長く生き・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%95
 (注13)1895~1971年。ロシアの農民の家庭に生まれ、無学歴。ソ連の要職を歴任した後、1953年に事実上失権。
https://en.wikipedia.org/wiki/Andrey_Andreyev_(politician)
⇒ここで登場した13人は、全員白人でキリスト教地域の出身・・1名を除き正教地域の出身で、いずれにせよ、イスラム教やアジア人の家庭出身者はいない・・ですが、まともなロシア人はわずか5人であり、彼らが仕えたボスのスターリンもグルジア人でしたが、帝政ロシアにおいて隷下諸民族の融和がロシア人の「犠牲」の下でいかに進捗していたかが想像できるというものです。
 もう一つ印象的なのは、高等教育を受けた者(中退した者を含む)が、13人中、やはりわずか5人にとどまっていることです。
 スターリンも神学校止まりでしたが・・。
 スターリンが、「将来の成長率を先食いした略奪的経済政策」をとった、と示唆したところですが、そのことも、また、ソ連の科学技術が戦後停滞するに至ったことについても、(指令経済中心の経済体制運営の本質的困難性もさることながら、)スターリン及びその取り巻きに科学的素養の持ち主が少なかったこと(注14)も大きいのではないでしょうか。
 (注14)フルシチェフは一応高等教育を受けていたわけだが、晩学のためか、ついに科学的素養は身に付かなかったようだ。
 「フルシチョフは死ぬまでルイセンコの学説を信じ続け、遺伝子の存在を信じ・・・なかった。結果、ソ連の農業生産高は大きく落ち込み、<米国>からの穀物輸入に依存する事態に陥った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%95 前掲
(続く)