太田述正コラム#8595(2016.9.7)
<スターリンの死とそれがもたらしたもの(その5)>(2016.12.22公開)
「間違いなく、ソ連人達は、冷戦の諸緊張を緩和することへの彼らの関心を伝えようとしたのだ。
 しかし、米国では、これは人々が聞きたかったメッセージではなかった。
 ・・・アイゼンハワーと国務長官のダレスは、ソ連に対して強く出て「共産主義を巻き戻す」という政綱でもって1953年1月に就任していたからだ。
 ソ連共産主義は、その出し物の悪漢なのであり、それが自分の配役を正しく演じるのを止めることは、控えめに言っても、面食らわせるものだった。
 タイム誌は、この新たな諸展開を「途方に暮れさせる、歓迎すべき、不吉な」ものである、と見た。
 ダレスは、断固として、懐柔的なソ連の交渉開始諸提案が何であれ、米国は、<ソ連に対し、>「心理的その他の諸圧力をかけ続け」なければならない、とした。
 ダレスにとっては、・・・ソヴィエトとの<緊張>緩和は、実際問題として、「欧州人達の恐れを取り除く」かもしれないことから、米国の諸政策目的への脅威だったのだ。
 ソ連の交渉開始諸提案に対して、欧米では、その他、より前向きの諸反応もあった。
 英国では、・・・何か画期的なことが起こっていた。
 ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)は、自分の政治的キャリアの終わりが近づきつつあったところ、掴みとる必要のある歴史的瞬間を見てとり、アイゼンハワーに書簡を送り、そうすべきだ、と伝えた。
 しかし、アイゼンハワーは、チャーチルが、スターリン後のソ連内の諸変化への適切な対応として頂上会談開催を英下院内で呼びかけた時に「ぞっとした(horrified)」。
 ダレスは、公開であれ非公開であれ、ソ連の人々と顔を突き合わせたいかなる諸会合についても、断固として反対だった。
 批判的観察者達は、彼の中に、「殆ど迷信的な恐れ」を見て取った。
 彼には、恐らく、<米国の>人々は、一旦、自分の敵を角を生やした悪魔に成功裏に変身させた以上、それが人間のように見えるチャンスを与えることは欲しない、ということが分かっていたのだろう。
 ルーベンステインの評決は、1953年の3月のスターリンの死から6月のベルリン暴動までの枢要なる数か月の間に、米国はソ連の新しい指導者達と会う偉大な機会を逃した、というものだ。
 それは、一つには、お粗末な情報と勧告のせいだった。
 専門家達は、スターリンの後継者達は、スターリンがそうであった以上に危険で攻撃的である、と<アイゼンハワーやダレスに>伝えたのだ。
 アイゼンハワー自身は、ソ連の指導者達の頭越しにソ連の人々に話しかけたかった。
 そうすれば、彼らは立ち上がり、専制を転覆する気になるのではないか、と。」(A)
3 終わりに
 日本その他の、(ソ連を含む)ロシアの諸隣国・・英国も大英帝国の頃はインド亜大陸においてほぼそうだった・・は、膨張を国是とするロシアを一貫して実存的脅威とみなしてきたのに対し・・その中でも日英はロシアの専制性への嫌悪を共有していたこともあり、この両国のロシア脅威意識は突出していた・・、(アラスカはさておき、)ロシアの非隣国たる米国は、(「専門家達<が対外政策決定者達に>・・・お粗末な情報と勧告」<しか提供できないのを常とする>)持ち前の国際情勢音痴ぶりも与って、その時々の国内事情等によって、親露と反露の間を揺れ動いてきたわけです。
 その米国は、アイゼンハワー政権誕生の頃までには、戦前の日本の対赤露抑止戦略を(私に言わせれば)剽窃したマクマレーやケナンの米政府部内での努力、そして、戦後の日本占領の際に朝鮮戦争を通じての身をもっての学習、によって、(戦前の)親露から反露へと極端な180度転換を果たしていたのですから、スターリンの死にあたって、アイゼンハワー政権が柔軟な対応をすることができなかったのは当たり前でしょうね。
 とまれ、スターリン時代に係る二つのシリーズを、当時もそれに苛まれていたところの、タタールの軛症候群から解放される兆しが、21世紀の今になっても、依然として全く見えないロシア人達に対する心からの憐憫の情を抱きつつ、終えたいと思います。
 次のシリーズでは、憐憫の情など抱く余地なく、ただただ、軽蔑と嫌悪の対象たらざるをえないところの、米国を、久しぶりに俎上に載せることにしています。 
(完)