太田述正コラム#8613(2016.9.16)
<英国のインド亜大陸統治の醜悪さ(その5)>(2016.12.31公開)
 「灌漑諸工事は、一連の経済諸危機が英当局をして、反乱や諸税収入の減少を心配させた後においてのみ開始された。
 鉄道網が、熱意をもって推進されたのは、1857年のインド大内乱が反対を弾圧するためにインド中に諸部隊を迅速に輸送することができる必要性が生じてからのみだった。・・・
 英当局の統治の混沌は19世紀末のインド亜大陸を世界で最も飢饉を起こし易い諸社会の一つに変えることに資した。
というのも、困った時にインド亜大陸の人々が相互に助け合う政治的諸ネットワークや諸メカニズムが、英当局の政治的挑戦に対する恐れから掘り崩されてしまったからだ。
 飢饉救恤は、英当局の権威の諸中心と支出をできる限り低く抑えることに焦点を置いた形で行われた。
 初期の戦略は、<英国人>諸居留地から遠く離れた場所で飢えている人々に仕事を提供すべく飢饉諸収容所を建設するというものだった。
 そうすれば、英帝国の町々で貧者達が蝟集して抗議をしないだろう、というわけだ。・・・
 英当局による統治に対するインド亜大陸の反対者達の政治戦略は、彼らが英帝国の権力と結びつけたところの、混沌と暴力とは対照的な秩序ある社会を創造するべく企図されたものだった。
 例えば、それこそが、モハンダス・ガンディーの非暴力戦略の狙いだった。
⇒以前、ガンディー論(コラム#省略)で私が申し上げたことからすれば、ガンディーは、個性的なものの考え方をした点を含め、宗主国人化、より端的には(個性あふれる個人主義者達であるところの)イギリス人化してしまっていたのであり、彼が、「混沌と暴力とは対照的な秩序ある社会を創造」したいと願ったとすれば、それは、単に、インド亜大陸をイギリスのような「秩序ある社会」にしたい、と思ったという程度のことでしょうね。(太田)
 しかし、経済不況と世界戦争の最中、インド亜大陸社会は断片化してしまったのだった。」(E)
 
⇒ここも不同意です。
 もともとから、インド亜大陸社会においては、同社会の大半を占めるヒンドゥー教徒はカーストに分かれていて断片化しており、更に、そのヒンドゥー教徒が、イスラム教徒、シーク教徒らとの間で相互に断片化していたのであって、英当局は、この断片状況を放置したのみならず、むしろ諸断片相互を反目させて分割統治なる資源節約的統治を行った、ということなのであって、戦間期の経済不況と第二次世界大戦は、かかる断片化状況を悪化こそすれ、改善はしなかった、というだけのことでしょう。(太田)
 (5)自己欺瞞
 「<統治が以上のようなお粗末さだったというのに、>英国人の多くは、「勝利者達としての主権(victors’ sovereignty)」という思い違い(delusion)にしがみついていた、と著者は言う。
 その結果は、インド亜大陸人達に対する、傲慢で人種主義的で蔑んだ態度であり、また、インド亜大陸における英国の権力は絶対的なものでなければならないという信条だった。
 英インド当局が、もっとインド亜大陸人達と協同的であろうとし、かつ、権力が諸集団全体に遍在(diffuse)していて、主権が階層をなし委譲(devolve)されていることを認めようとしていたならば、同当局は、はるかに多くのことを達成できていたかもしれない。
 しかし、<EUの「首都」の>ブリュッセルで人々が「補完性原理(subsidiarity)」<(注3)>と呼ぶところのものが、英国人の流儀であったためしはないのだ。」(A)
 (注3)「決定や自治などをできるかぎり小さい単位でおこない、できないことのみをより大きな単位の団体で補完していくという概念。」
http://ejje.weblio.jp/content/subsidiarity
3 終わりに
 以前、「ある意味で最大の社会主義国は英領インドだった。インドでは政府が学校や大学を運営し、医療を管理し、鉄道の大半と、塩と阿片の製造工場と膨大な森林資源のすべてを経営し、土地の大半を理論上所有していた・・・
 英国の労働党の戦後の政策が、英領インドにおける政策の逆輸入であった可能性はありそう」(コラム#8398)、と記した話、と、今回のシリーズでの英領インドにおける英当局の資源節約的統治の話、とをどう総合したらよいのか、という悩ましい問題に気付いたのですが、これは、今後の宿題、ということにさせてください。
(完)