太田述正コラム#8623(2016.9.21)
<改めてフランス革命について(その5)>(2017.1.5公開)
それは、「この革命に亀裂が入った瞬間だった」、と著者は言う。・・・
 しかし、国王自身がまだかなりの忠誠を維持していた。
 皮肉にも、立憲王制に対する致命的打撃は、この革命によって失われた自分の権力を取り戻すために、オーストリアの軍隊とフランスの亡命貴族達に支援されて帰国するという意図の下、ヴァレンヌ逃亡(flight to Varennes)<(注10)>として知られるところとなった、彼の家族とオーストリア国境に向けて逃亡するという、無思慮な決定を行った、ルイ16世自身によって加えられた。
 (注10)「ヴァレンヌ事件・・・は、フランス革命時の1791年6月20日から翌朝にかけて<の>・・・事件である。ヴァレンヌ国王一家逃亡事件、ヴァレンヌ逃亡またはヴァレンヌ逃亡事件とも。・・・
 最終的な目的地は、フランス側の国境の町であるモンメディ (Montmedy) の要塞に決まった。ここに国外の亡命貴族軍を呼び寄せて合流する予定であった。つまり実際には亡命ではなかったのである。ベルギー国境に集結していたオーストリア軍の協力をあてにはしていたが、国王はあくまでも国内に留まる決意だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%8C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 認識され、捕まえられ、パリに連れ戻されたルイは、二度と自分の人々の亀裂の入った信頼を取り戻すことはなかった。
 著者は、革命家達の指導者のブリッソー(Brissot)<(コラム#6887、7796)>と彼の追従者達であるジロンド派(Girondins)<(注11)>によって演じられたところの、国王の裏切りを暴露し欧州の他の人々にも自由をもたらす、との意図を持ったところの、「人民の」戦争を開始する、という「危険なゲーム」・・・へと移る。
 (注11)「もともとはジャコバン・クラブに属しており、1791年の立法議会の誕生にあわせて、同派の山岳派とともに民主派の勢力を形成した。
 国王ルイ16世ら王家と亡命貴族(エミグレ)が画策する中、他<の欧州>諸国との開戦の気運が高まってくる。ジロンド派は、対外戦争を利用して国王の真意を明確にしようとし、主戦論を展開した。・・・ロベスピエールが反戦論を唱えるが、1792年3月にジロンド派内閣が組織され(首班ブリッソー・・・)、同年4月20日オーストリアに対し、宣戦を布告する。しかし、・・・フランス軍は、各地で敗戦を重ねた。そのため、ジロンド派は敗戦の責任を取り、政権をフイヤン派に譲り渡す。
 対外戦争において苦戦する中、立法議会に代わり国民公会が開催される。ジロンド派はこの議会において多数を占め、王政の廃止および共和国宣言を採択する。しかし、革命の一応の終結を目指すジロンド派と、急進的な革命を推し進めようとする山岳派との対立が激しくなっていった。
 やがて、ルイ16世が外国と画策したとされる文書がテュイルリー宮殿内から発見される。また、王妃マリー・アントワネットの外敵通牒も伝えられた。山岳派は、国王や王妃の裏切り行為に対し裁判を要求したが、これ以上の革命の推進を望まないジロンド派は、裁判の実施に消極的であった。しかし、ロベスピエール<ら>山岳派の演説により、国王裁判が開催されることになる。
 裁判の結果、ルイ16世の死刑が決定する。・・・
 ルイ16世を処刑したフランスに対し、<英国>などから経済制裁が行われた。フランスは<英国>やスペインなどに対し宣戦を布告するが、<英国>を中心とした<地理的意味での欧州>諸国は第一次対仏大同盟を結成し、フランス包囲網を形成する。
 経済や軍事面でのジロンド派の失政に対し、議会は山岳派主導に傾き始めた。追い詰められたジロンド派は、さまざまな手法で山岳派を陥れようとするが、ロベスピエールの先導により、1793年6月にジロンド派の主要メンバーが捕らえられ、中央政界での基盤を失うことになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E6%B4%BE
 「フイヤン派は、元々はジャコバン派に属して多数派を形成していたグループで、フランス革命をずっと主導してきたが、ヴァレンヌ事件の対応をめぐって、共和派の台頭したジャコバン・クラブから1791年7月16日に脱退して分裂した。
 政治的には立憲君主派であり、人権宣言の精神を遵守するものの、王権の不可侵・神聖を主張する自由主義貴族・右派ブルジョワ層、穏健派の集団であった。主要なメンバーとしてはラファイエット、・・・シエイエス、バイイらが挙げられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%B3%E6%B4%BE
 ブリッソーの政策は、ロベスピエールによって強く反対された。
 この戦争挑発者達に対して、彼は、「武装した宣教師達が好きな者は皆無だ」・・・、と<言ったのだ>。
 <しかし、>このロベスピエールの警告は無視され、結果として起こった戦争は23年間続き、フランスのみならず、欧州やそれ以外の運命を改変した。
⇒地理的意味での欧州中・西部(北欧を含む)の諸国や諸人民の好戦性は、その共通の指導層であるゲルマン人の好戦性を引きずっている(と私は思っている)ところ、この戦争も、西ローマ帝国崩壊前から始まった、超長期の戦争の時代の中の、ほんの一つの挿話に過ぎない、という感を改めて深くしますね。
 むしろ、第二次世界大戦が終わってからの、この地域の平和が異常に思えてくるほどです。(太田)
 この戦争は、今度は、1792年の王制の打倒、新しい立法議会(assembly)であるところの、国民公会(Convention)<(注12)>を設立し、この国民公会が、フランスは共和国である、と宣言した。
 (注12)「1792年9月20日から1795年10月26日・・・まで存在したフランスの一院制の立法府で、諸委員会を通じて執行権をも握っていたので、同時に行政府の役割も担った革命政治の中央機関である。
 1792年、パリ市民がテュイルリー宮殿を襲撃した8月10日事件で王政が<停止>され<ると、>・・・新議会<が>・・・「国民公会」という名称に決まり、<その議員の>選挙<が>フランス革命中では唯一となる男子普通選挙(ただし間接選挙)で実施された。
 国民公会は、会期2日目の9月21日に共和国宣言を行って<フランスは>第一共和政に移行し、王政は廃止され<、>ルイ16世は国王裁判にかけられて処刑された。・・・<国民公会は、>フランス革命戦争とヴァンデの反乱などの内戦という危機的状況にあって、超法規的体制を維持する必要<の下>、人民主権を体現する革命独裁の権力の<中枢となっ>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%AC%E4%BC%9A
⇒フランス最初の憲法である1791年憲法は、私見では、イギリスの不文「憲法」をより急進的かつ「近代」化した独立米国の1787年憲法(現憲法)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
(を王制(非共和制)化し中央集権(非連邦)化したところ)のコピーであったわけですが、1792年の、共和制移行にせよ国王の処刑にせよ、150年も前のイギリスで起こったことのコピーである、と言っていいでしょう。(太田)
 1793年の夏には、この共和国は、西欧の大部分と戦争しており、フランスは、侵攻してきた諸軍、そして、全面的規模の内戦がヴァンデで勃発していた。
 この革命の世界主義(cosmopolitanism)の初期の年々は危険なナショナリズムに道を譲ってしまった。
 この危機の時点において、急進集団であるジャコバン派(Jacobins)が政府の中の指導的存在(figures)となり、パリの人民運動(popular movement)、すなわち、サンキュロット達(sans-culottes)<(注13)>からの圧力の下、国民公会は、この革命に反対した罪で有罪とされた者達の逮捕、裁判、そして処刑合法的(legalised)、という、「恐怖政治(terror)」に訴えた。
 (注13)「「キュロットをはかないひと」というような意味・・・。主に手工業者、職人、小店主、賃金労働者などの無産市民(固定資産の無い人)を指し、当時のパリでは貧困層に属した。・・・
 キュロットとは半ズボンのことで、当時貴族の一般的なボトムスであった。そして、長ズボンを履く庶民を貴族が馬鹿にして「サン・キュロット」と呼んだ。これに対し、労働者は不公平な身分制度に反対する意味をこめて、逆に自分たちを誇りを込めてこう呼ぶようになる。・・・
 7月14日のバスティーユ襲撃事件、九月虐殺など、血なまぐさい革命の暴力的側面はすべて彼らによって引き起こされたものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88
 「1793年・・・4月・・・頃・・・ジャコバン派では、ジロンド派と山岳派が決裂し・・・た。当時、食糧難や経済の混乱から各地で民衆のデモが頻発しており、ロベスピエールはこの人民を利用する計画を立て、集会に参加するサン・キュロットに金が支払われ、人民を扇動する方策が講じられた。・・・
 <6月1日、山岳派は、>武装した群衆を率いて国民公会を包囲、・・・ジロンド派幹部の議員<ら>・・・の追放と逮捕が議決された。・・・こうして6月2日からジャコバン派独裁が開始される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%90%E6%80%96%E6%94%BF%E6%B2%BB
 40,000前後の人々・・革命諸牢獄で病死した人々を入れたらもっといる・・がこの合法的恐怖政治の中で死亡した。
 冷厳な数字(tally)であることよ。
⇒この、理想主義を標榜する革命当局による、革命防衛・輸出戦争(ジャコバン派のジロンド派作)、及び、恐怖政治(ジャコバン派の山岳派作)、こそ、フランス革命が爾後の人類に残したところの、ただ二つの(イギリスのコピーならぬ)オリジナルな遺産、但し、著しく負の遺産、であると言えるでしょうね。(太田)
 
(続く)