太田述正コラム#8643(2016.10.1)
<またまた啓蒙主義について(その3)>(2016.1.15公開)
 なお、アショーカの事績中、最も重要なのは、釈迦の思想の中核であるダルマ・・人間主義回復方法論、と言い換えてよかろう・・が、彼によってセイロンに伝えられたおかげで、それが、上座部仏教の一環として、(インド亜大陸における仏教の事実上の消滅(後述)にもかかわらず、)忘失を免れることになり、やがて、チベットにおいて、それが大乗仏教の中に組み込まれることによって、現代にまで、念的瞑想として生命を保ち続けることができたことです。
四、インド・グリーク朝下の大乗仏教の成立
 その後、インド亜大陸北西部において、セレウコス朝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%82%A6%E3%82%B3%E3%82%B9%E6%9C%9D
から分離したグレコ・バクトリア王国から更に分離したところの、インド・グリーク朝が成立した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD
 そこで、アショーカの下で興隆し始めた初期段階の仏教に起こったことを、論理的に想像した下掲は説得力がある。↓
 
 「紀元前2世紀に現在のインド西北部を支配したギリシア人のミリンダ<(メナンドロス)>王は、仏僧のナーガセーナとの問答を通じて仏教に帰依し、出家したと『ミリンダ王の問い』は伝える。・・・
 <しかし、>ナーガセーナの教義は、もしもミリンダ王にギリシア哲学の素養があるのなら、論破できる類のもの<なので、疑問>だ。
 もちろん、ミリンダ王ならびに彼の後継者となるギリシア人の王たちが仏教を保護したことは事実と認めてよい。だが、彼らは、出家しなかったことからもわかるように、仏教に心底帰依したというよりも、むしろ政治的に利用しただけではないのだろうか。
 <(そもそも、釈迦の思想の中核たるダルマ・・それは、当時の仏教からは失われていなかっただろう・・を通じて悟りを開いた、つまりは、人間主義者になった、と思われるアショーカが、それが故にこそマウリア朝を没落させてしまった、という教訓も、地理的等からマウリヤ朝の後継王朝とも言える、インド・グリーク朝のミリンダ王等は承知していた可能性が高い。(太田))>
 インドには伝統的なカースト制度が根強く残っており、ギリシア人をはじめ外国人はアウト・カースト(不可触賤民)として蔑視された。そんな中、カースト制度を否定する仏教は、外国人支配者にとっては都合がよく、そのため、ギリシア人のみならず、その後インドに侵入した外国の支配者たちはたいてい仏教を保護したものなのである。仏教を保護することには、支配者が外国人でなくても、メリットがあった。カースト制度では、王といえども、バラモン(聖職者)の下に位置付けられていたのである。バラモンの下のクシャトリヤ(王侯貴族)や、そのさらに下のヴァイシャ(商人など)にとっては、自分たちの権力や富にふさわしい地位を求めて仏教を保護したという事情がある。
 また、支配者、つまり権力や富を持つ者にとって、被支配者、つまり権力や富を持たない者に反乱を起こさせないようにすることは、自分の地位を維持する上で極めて重要である。反乱を起こそうとするのは、権力や富への執着が強いことが原因であるから、仏教を広めて下層民に権力や富への執着を捨てさせ、無欲にすることは、不満分子の反乱を予防するのに効果的である。表向きの理由はともかくとして、インドの王侯貴族や富豪が仏教を保護した裏の理由は、そこにあると考えることができる。王侯貴族や富豪の保護のおかげで、仏教は世俗的な繁栄を享受することとなった。しかし、権力や富への執着を否定する宗教が権力と富を持った支配者と癒着するというパラドキシカルな関係が続く中で、民衆の心は、支配のためのイデオロギーと化した偽善的宗教から離れていった。仏教に代わって民衆の心を捉えたのは土着の宗教であるヒンドゥー教であった。そして仏教は、イスラム国家とイスラム商人が台頭する中、パトロンを失って、インド、パキスタン、アフガニスタンの地から跡形もなく消えてしまったのである。」
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2012/milindapanha/
 つまり、インド・グリーク朝は、初期段階の仏教(原始仏教)を大興隆させることになったけれど、そのインド亜大陸における没落の根本原因をも同時に作った、ということになる。
 さて、ミリンダ王等、インド・グリーク朝の君主達は興隆しつつあった原始仏教に帰依しなかったとしても、支配層たるギリシャ人の中には、帰依した者は少なからずいたと考えられる。
 その結果起こったことが下掲だ。↓
 「原始仏教では身体は不浄で、人生は苦と考える。だが、ギリシャ文化では「身体は美しく、苦しい人生でも生きるに値する」と考える。この肯定的人生観と仏教の否定的人生観は互いに刺激し合って、仏教はインド西北部のギリシャ人に受け入れられる。原始仏教の高い論理性と合理性が受け入れ理由だった。
 紀元前後につくられ始めるガンダーラの仏像はギリシャ人の容貌を持っている。ギリシャ人に受け入れられた仏教はギリシャ人の影響を受け、人生肯定の思想を持つようになる。否定的人生観からこの肯定的人生観への変化が大乗経典の特徴になっている。」
http://huukyou.hatenablog.com/entry/2016/09/20/091358
 そして、その更に結果として生まれたのが、写実的な仏像と物語性豊かな仏典とを伝道の両輪とした大乗仏教である、というわけだ。(上掲)
 この大乗仏教は、伝道僧達によって、中央アジア経由で北伝し、支那、更には日本へと伝播していくことになる。
 大乗仏教には、ダルマ(悟りの方法論)が欠落している(コラム#省略)ことは、既にご承知のことと思う。
 しかし、仏典が説く人間主義は、仏像を中核として発展したところの、仏教美術・建築・庭園・生活様式、等、と相まって、(孤立したチベットを別にすれば、)日本だけで失われることなく維持されてきていた人間主義(縄文性)に滋養強壮的な刺激を与えることで、その引き続きの維持に不可欠な役割を果たすことになるのだ。
 また、大乗仏教の人生肯定性は、日本における弥生性が維持されることに貢献し、人間主義文明たる日本文明の存続を、安全保障面から、引き続き、強固に担保し続けることにつながった。
 
五、暫定的結論
 以上から、暫定的結論だが、インド文明と古典ギリシャ文明の、思想面を含む衝突と一時的共棲の中から、原始仏教が成立し、それが上座部仏教の形をとって南伝を果たすとともに、やがて、大乗仏教の成立を促しそれが北伝し、前者が、非人間主義者の人間主義回帰のための方法論の忘失を免れさせ、後者が、自律的な人間主義文明である日本文明の希釈化ないし滅亡を免れさせた、と言えそうだ。
 すなわち、思想面を含むところの古典ギリシャ文明は、その生み出した合理論科学が直接的に西方に巨大な影響を与え、また、その生んだ哲人王による帝国形成が間接的に東方に人間主義の存続という形の巨大な影響をもたらした、ということになりそうだ、ということ。
 もとより、以上記したことは、極めて粗削りな仮設の域を超えていない。
 機会を見て、もう少し本格的な仮説を展開することを期したい。
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(続く)