太田述正コラム#8663(2016.10.11)
<またまた啓蒙主義について(その13)>(2017.1.25公開)
 (インド論理学が最高峰に達した時代もまた、インド亜大陸がギリシャ文明の圧倒的影響下にあったことに鑑み、これにも、やはり、ギリシャ論理学の影響が考えたくなるが、立ち入らない。)
 さて、私がかねてから不思議に思っていたのは、江戸時代における和算の突然の隆盛だ。
 「明に留学して算術を学」んだ毛利重能<(もうりしげよし)>が「後の代表的な和算家吉田光由や今村知商、あるいは関孝和の師匠でもあった高原吉種などの弟子達を育てた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%87%8D%E8%83%BD
いわば、和算の祖なのだが、その後急速に数学が支那の水準を拭いて当時の世界トップクラスになり、かつ、一般庶民までにまでファンのすそ野が広がったのはどうしてか、という疑問だ。
 私は、インド論理学が唯識論を通じて日本で脈々と受け継がれることによって、もともとインド論理学と切っても切り離せない関係があったところの、数学、が発達する基盤が醸成されていたからだ、という仮説を抱いているのだが、残念ながら、「中世および江戸時代以前の近世において、どのような数学が行われたかは全く分かっていない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%AE%97
上、毛利重能の具体的な経歴が不詳であり、また、吉田光由や関孝和らの著名な和算家の経歴を見ても、仏教との濃密な接点が出てこないので、この仮説を検証することができなかった。
 誰かが、この検証を行って欲しいものだ。
 
 次に、18世紀後半における蘭学の興隆は、杉田玄白・前野良沢らがオランダの医学書の『ターヘル・アナトミア』を訳して『解体新書』として刊行したことがきっかけとなった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E5%AD%A6
ところ、この二人は、どちらも藩医・・小浜藩と中津藩・・であって
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E7%94%B0%E7%8E%84%E7%99%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E9%87%8E%E8%89%AF%E6%B2%A2
両者とも仏教との濃密な接点はやはりなさそうだが、「遣唐使の廃止以後、最新の医療技術(宋の医学・医術)を持ち帰ってきたのは禅宗系の僧侶であ<り、>・・・室町時代・織豊時代・・・も前代と大きく流れは変わらなかったが、・・・<医師の間で>僧侶以外の知識人が増加して行<った点>に変化があった」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/8740/militaryhistory/medicine/medicine01.htm
という日本の医学史を踏まえれば、ここでも、唯識論を通じて、論理的思考が日本の医師の間で培われていたからだ、と言いたくなる。
 いや、そうとでも考えないと、日本ほど鎖国していたわけではなった清で、杉田らの動きに対応する動きが、医学界で全くと言ってよいほど起きなかった
http://www.shen-nong.com/eng/history/qing.html
ことの説明がつかないのではなかろうか。
 もう一つ。
 明治維新は、蘭学のような、欧米の学問・思想の継受なくして起こらなかったところ、それだけでは十分でなく、日本自身についての認識の深化とあいまっての復古革命思想の形成が必要だった。
 「幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた<のは、>・・・崎門学(きもんがく)<(注13)、>・・・水戸学<、及び>国学」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E9%97%87%E6%96%8E
だが、崎門学の創始者の山崎闇斎(1619~82年)は、「幼くして比叡山に入り、ついで<臨済宗の>妙心寺に移って僧となる。19歳のころ土佐国・・・に移り、<臨済宗の>湘南宗化の弟子とな<った>」(上掲)人物で、オタク的な2人の水戸藩主が中心的役割を果たした水戸学はともかくとして、(日本の国の在り方の根幹に人間主義を見出した)国学(注14)の大成者たる本居宣長(1730~1801年)は、「10代頃は浄土教思想の強い影響下にあ<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7
人物であることから、山崎も本居も、唯識論との格闘による思弁的能力の涵養があった、と思いたいところだ。
 (注13)山崎闇斎は、「「・・・中国の王朝を立てた者はみな、無理に天下を奪い取って王朝を立てた叛逆者ではないか。これでは中国の王朝はみな“簒臣・賊后・夷荻”とさして違いはなく、正統性をもった王朝は中国にはない」と言い、「天下を奪い取られずに連綿と続いているのは、日本の天皇だけである」と結論づけた。」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1475817034
 (注14)「国学は、儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを批判し、人間のありのままの感情<・・人間主義!・・>の自然な表現を評価する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%A6
 本居宣長は、人間主義を「もののあはれ」という言葉で表現した。
 人間主義者たる彼は、死刑を極力課さないよう、紀州藩主に提言している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7 前掲
 明治維新の実行者達の元締めとも言うべき西郷隆盛(1828~77年)も、陽明学のほか、島津藩歴代藩主の曹洞宗の菩提寺で禅を学んでいるところだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%98%8C%E5%AF%BA_(%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%B8%82)
 このように見てくると、「仏教界が生み出した日本の知的巨人の系譜は、江戸時代に入って、ぱったりと途絶え<た>」
https://books.google.co.jp/books?id=I6pFBAAAQBAJ&pg=PT35&lpg=PT35&dq=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%EF%BC%9B%E4%BB%8F%E6%95%99%EF%BC%9B%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%AE%B6&source=bl&ots=9zyha_rPUe&sig=LuA1ATLtiewhhtbNUVtrDszgMe8&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiTu4bR1c_PAhUEHGMKHe3eD7AQ6AEINzAE#v=onepage&q=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%EF%BC%9B%E4%BB%8F%E6%95%99%EF%BC%9B%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%AE%B6&f=false
という通説は誤解を呼ぶのではなかろうか。
 で、日本における唯識論の意義について、結論的に、次のように言えるのではないか。
 一つには、欧米以外で、ほぼ日本においてのみ、論理的思考・・科学的思考と言ってもよい・・を醸成したことだ。
 二つには、もう少し幅広く、日本人の思弁的能力や論争能力を鍛えたことだ。
 三つには、インド亜大陸での唯識論の生誕から1200年以上も遅れて、欧州たるアイルランドでバークリーが唯識論的な哲学を発表し、それが、同じく欧州たるドイツでドイツ観念論の生誕と発展を促した、という思想史からしてある意味必然的に、明治維新以降の日本人知識人・・彼らは唯識論を意識的無意識的に引きずっていたと考えられる・・の間でドイツ観念論フェチシズム的なものが生まれたことだ。
 (戦後の日本人知識人の間では、ドイツ観念論のフランス的展開である実存主義等が流行したところだ。)
 これは、私としては、全般的には日本における唯識論の負の意義だと見ているところ、西田幾多郎や和辻哲郎らが、人間主義をドイツ観念論の用語や論理で描写しようとしたことは、それなりの意義があったと考える。
 なお、この人間主義が、日本で堅持されてきたことについては、仏教の唯識論以外の部分の貢献が、更に大きいことを忘れてはなるまい。
 一つは、法華経等の仏教経典に載っているところの、人間主義推奨論や人間主義説話による、日本人の人間主義のメンテナンスであり、もう一つは、禅、とりわけ臨済禅によるところの、人間主義的美意識の洗練化とその日本人へのフィードバックだ。
これらについては、機会があれば、改めて、もう少し詳細に論じたい。
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