太田述正コラム#0431(2004.8.4)
<悪夢から覚めつつあるドイツ(その7)>

4 補論:俯瞰的視点から

 (1)第一次世界大戦ドイツ開戦責任論
  ア 始めに
 本稿を終えるにあたって、「そもそもドイツ人が、先の大戦のみを自らを責め苛む「悪夢」としてきたことに問題はないか」を考えてみましょう。
 先の大戦について、ドイツの一般市民も責任を免れないという主張は、一つには、ドイツに開戦責任があるが一般市民の多数も開戦に賛成だった、もう一つにはナチスによる戦争中のホロコースト等の蛮行に一般市民も責任がある、という二点を根拠としています。
 しかし、ホロコーストについて言えば、ナチスすらこのことが知られることを恐れ、徹底的な情報統制を行っていました(http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1268020,00.html。7月27日アクセス)。それでも情報は漏れ、ドイツの少なからぬ一般市民が知るところとなっていました。それにもかかわらず、一般市民はユダヤ人を救うために何もしなかった、と責められているわけです。換言すれば、ナチスが完璧に情報統制を行っておれば、一般市民にまで責任を問うことは困難だったかもしれません。
 また、開戦責任論については、第一次世界大戦後のベルサイユ平和条約が余りにドイツに過酷であったことが先の大戦の原因をつくったという議論もあり、仮にそれが正しければナチスドイツによる開戦を支持したドイツの一般市民は殆ど免責されてしまうことになります。

  イ 第一次世界大戦ドイツ開戦責任論
1961年に上梓した著書Griff nach der Weltmacht(=Germany’s Grasp for World Power)で、この種の言い訳を封じる、第一次世界大戦ドイツ開戦責任論を提起したのが西独(当時)の歴史学者のフリッツ・フィッシャー(Fritz Fischer 1908年??。(http://husky1.stmarys.ca/~wmills/course520/fischer.html。8月2日アクセス)でした(注10)。

 (注10)そもそも日本やロシア(ソ連)等とは違って、米国も英国も、そして先の大戦ではすぐ降伏してしまったフランスも、第一次世界大戦の時の犠牲者の数の方がずっと多い。だから、フランスは第一次世界大戦のことをLa Grande Guerre (the Great War)と呼ぶし、英国は第一次世界大戦の終わった1918年11月11日を両大戦共通の終戦記念日(Armistice Day)にしている。

フィッシャーのこの著書等の内容を要約してご紹介しましょう。(若干私見をおりまぜている。以下、特に断っていない限りhttp://www.csmonitor.com/2004/0802/p06s03-woeu.html及びhttp://yahooligans.yahoo.com/reference/encyclopedia/entry?id=16949(どちらも8月2日アクセス)による。)
注目すべきはドイツの軍人ベルンハルディ(Friedrich von Bernhardi。1849??1930年。http://www.geocities.com/veldes1/bernhardi.html(8月2日アクセス))だ。
ベルンハルディは1912年に上梓した著書の中で、社会的ダーウィニズムの考え方にのっとり、戦争は人種間の自然選択の重要な手段であり、ドイツ人種はきたるべき大戦争において勝利をおさめ、欧州の覇者となり、世界大国(world power)にならなければならないと主張した。
この主張は第一次世界大戦を惹き起こすことになる、皇帝ウィルヘルム2世以下の当時のドイツの政治・軍事指導者共通の見解を代弁したものにほかならない。
この共通の見解のよってきたる淵源は、英国人である生物学者のダーウィン(Charles Darwin。1809??1882年)と、英国人のエッセイエスト兼歴史家ジョン・シーリー(Sir John Robert Seeley。1834??1895年。http://44.1911encyclopedia.org/S/SE/SEELEY_SIR_JOHN_ROBERT.htm(8月2日アクセス))であると言えよう。
シーリーは1883年に上梓された著書The Expansion of Englandの中で、イギリス人が植民した帝国領(カナダ、オーストラリア等)と英本国との結合を強化しなければ英帝国の偉大さは維持できないと説いた(http://husky1.stmarys.ca/~wmills/course520/geopolitics.html。8月2日アクセス)。
ここからベルンハルディ等は、戦争によってドイツも中東欧とベネルクスという、ドイツ人が居住する地域をすべてドイツ本国に統合(MittelEuropaを統合)しなければ、ドイツは世界大国にはなれないとする発想を得た(注11)。

(注11)MittelEuropaを確保する手段として、植民地の拡大(中部アフリカ全域(MittelAfrika)の確保。南西アフリカとカメルーン及びドイツ領東アフリカ(後のタンザニア)は確保済みだったので、MittelEuropaを確保してベルギーを勢力圏内に取り込めば、コンゴが手に入り、目的を達成することができる計算だった)と欧州外での勢力圏の拡大(ベルリン・バグダット鉄道建設によるオスマントルコの勢力圏内への取り込みと英帝国の分断)が図られた。

かかる発想の下、1914年にオーストリア・ハンガリー二重帝国皇太子夫妻がサラエボでセルビア人によって暗殺されるや、これを奇貨としてドイツは二重帝国を(開戦しなければ、将来二重帝国が第三国から攻撃されても見殺しにすると)「脅迫」してセルビアに宣戦布告させ、連鎖反応的に諸大国の参戦をもたらし、第一次世界大戦を勃発させた。

(続く)