太田述正コラム#0436(2004.8.9)
<京都・奈良紀行(その3)>

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 ベテランの観光タクシーの運転手のNさんのおかげで、春日大社の裏に車をつけてもらい、最短距離で本殿まで往復することができました。

 (6)東大寺
 東大寺も裏手から、正倉院(かつては東大寺のものだったが現在は宮内庁所管)を横目に眺めてから、Nさんが大仏殿のすぐ脇にタクシーを乗り付けてくれました。
 東大寺は、聖武天皇(701??756年)が夭折した皇太子(この話は覚えておいて下さい)の供養のために728年に建立した金鐘寺が始まりです。
 ところが、その後、聖武天皇の仏教観が、当時唐からもたらされたばかりの「金光明最勝王経」(注4)に接して急速に深まります。

 (注4)インドに赴いて様々な仏教典を持ち帰った唐の義浄(645??713)が702年頃に漢訳したもの。これを恐らく日本の留学僧が持ち帰り、聖武天皇に内容を説明した、と考えられている。

 このお経の中で、釈迦が四天王(注5)に対し、「若し人王ありて、此の金光明最勝の経典を恭敬し供養せば、汝等応に勤めて守護を加え安穏を得しむべし。一畧一汝等(四王)若し能くこの経を護持せば、経力に由るが故に、よく諸々の苦、怨、賊、饑饉及び諸々の疾疫を除かん。この故に汝等四衆、この経王を受持し読誦する者を見ては一畧一守護を加えて為に衰悩を除き安楽を施与すべし」と諭しています。

 (注5)インド古来の神々。持国天(天王。以下同じ)が東、増長天が南、広目天が西、多聞天が北を守るとされる。多聞天だけは単独で祀られる時に限り毘沙門天と呼ばれる。(その他の天王が単独で祀られることはない。)聖徳太子は四天王への帰依が深く、蘇我氏と組んで反仏教派の物部氏を滅ぼすに当たって四天王に願をかけ、後に摂津に四天王寺を建立した。(http://www.ffortune.net/spirit/tera/hotoke/sitenno.htm

 そして聖武天皇は741年にいわゆる「国分寺建立」の詔を発し、金鐘寺を大和国分寺として金光明寺と改称するとともに、日本全国に国分寺の建立を始めます。その目的は金光明最勝王経の精神を体し、この詔に「朕薄徳を以って恭く重任を承け、未だ政化を弘めず 寤寐多く慚づ一畧一頃者年穀豊かならず、疫癘頻りに至る一畧一広く蒼生の為に、遍ねく景福を求む」とあるように、当時大流行した疫病(朝鮮半島から九州に入り全国に蔓延した天然痘)と飢饉から国を護り、国民を救うことでした。
 ここに日本における仏教は、現世利益追求の手段にとどまりつつも、単に特定の人や一族を対象とするものから、蒼生(衆生)一般を対象とするものへと「進化」を遂げたわけです。
 しかし、ここで「蒼生」とは、あくまでも「世界」の、ではなく「日本」(注6)の「蒼生」であったことに注意すべきでしょう。この詔は、既に唐と同様の律令国家となっていた唐と対等の存在である日本を、更に唐と同様の仏教国家にして国威を発揚するぞ、という宣言でもあったのです。

 (注6)「日本」という国号は、東夷国 の「倭」から始まり、 聖徳太子が唱えた「日出之国」を経て、8世紀初頭、720年に完成した「日本」書記で分かるように、定められたばかりだった。

 聖武天皇が次ぎに発したのは、743年の「盧舎那仏造顕」(注7)の詔です。

 (注7)盧舎那仏とは毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ=毘盧舎那如来)の略称。毘盧舎那如来はサンスクリット語でヴァイローチャナといい、「光があまねく広く照らす」「太陽」を意味し、「光明遍照(こうみょうへんじょう)」とも訳される。密教では大日如来と称する。
     ちなみに、毘盧舎那如来(大日如来)は「法身仏」(真理そのものとしての仏。始めも終わりもない永遠の存在)、既出の薬師如来や阿弥陀如来は「報身仏」(修行の報いとして身体を持つことになった、始めがあって終わりのない存在)、釈迦如来は「応身仏」(衆生の要請に応じて身体を持つことになった、法身仏の化身で始めがあって終わりもある存在)とされる(http://butsuzo.cside.com/buddha/html/bsyuha.html)。

 「・・國銅を盡(つく)して象(かた)を鎔(と)かし、大山を削りて以て堂を構え、廣く法界に及(およぼ)して、朕が知識と為し、遂に同じく利益(りやく)を蒙(こうむ)りて、共に菩提を到さしめん。夫れ天下の富(とみ)を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢(いきおい)を有つ者は朕なり。此の富勢を以て、此の尊像を造る・・」というくだりに天皇のお気持ちの高揚ぶりがうかがえます。
 そして大仏造営が開始された745年に金光明寺が更に改称されて東大寺となるのです。
 (以上、特に断っていない限り、http://tokyo.cool.ne.jp/nara_hakken/bunkazaijisya/990823kasugataisya.htmhttp://www.naranet.co.jp/cgi-bin/narant.asp?code=A003&kubun=J01http://www.linkclub.or.jp/~hocco/kokubunji2.htmlhttp://members.at.infoseek.co.jp/bamosa/toudaiji.htm、及びhttp://www.naranet.co.jp/todaiji/による。)
(続く)