太田述正コラム#0441(2004.8.14)
<変化の端緒が見られる韓国(その3)>

 (やっと18位になりました。13位はいけそうだと申し上げましたが、どうでしょうか。これからの追い込みに期待しています。
http://cgi.mag2.com/cgi-bin/mag2books/vote.cgi?id=0000101909
にぜひとも繰り返し投票を!)

 以上のような状況下、金大中(Kim Dae-jung)前大統領のもとを、最大野党のハンナラ党(Grand National Party)の党首朴槿恵(Park Geun-hye)女史が8月12日が訪問して会談し、「歴史的和解」をしたというニュースが飛び込んできました。
金氏は1971年に槿恵女史のお父さんの故朴正熙(Park Chung-hee)大統領に大統領選挙でいどみ、敗れた後、何度も朴政権によって投獄され、日本滞在中に韓国に拉致され危うく殺されかけるという憂き目に会いました。その金氏に向かい、槿恵女史は、「私は(朴正熙の)娘としてあなたが私の父の時代に被った被害と艱難辛苦に対し、お詫び申し上げる」と謝罪したのです。(http://english.chosun.com/w21data/html/news/200408/200408120041.html。8月13日アクセス)
 槿恵女史の訪問は、金氏が朴正熙記念館(Memorial Hall)建設に賛意を表明したことに対する御礼言上と、自らのハンナラ党党首就任挨拶のため、ということになっていますが、槿恵女史の党首就任は今年の3月、総選挙後の再任も4月のこと(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040720-00000011-san-int。8月15日アクセス)であり、金氏が記念館建設に賛意を表明した(注5)のは、実に金氏が大統領であった1999年8月のこと(http://www.korea.ac.kr/~hahm/cgi-bin/CrazyWWWBoard.cgi?db=engpress&mode=read&num=2&page=3&category=&ftype=6&fval=&backdepth=1。8月15日アクセス)ですから、いかにも不自然です。

 (注5)慶尚道(朴大統領(や現在の最大野党ハンナラ党)の地盤)と全羅道(金大中大統領(や現在の与党ウリ党)の地盤)の対立(コラム#80)解消を図るためという触れ込みだった。

 私はこれは、対日関係や対米関係のみならず、対中関係まで悪化した上、経済まで不振であることから、危機感を抱いた韓国の左右両翼が、挙国一致体制の確立を目指し、阿吽の呼吸で歩み寄りを始めたもの、と見ています。

2 変化の端緒なしとする指摘

 これに対し、いやいや変化の端緒など見受けられない、そもそも変化することなどありえないのだ、とする指摘もあります。
 シンガポールのLianhe Zaobao(漢字不明)に定期的にコラムを書いているというYu Shiyuによるアジア・タイムス紙(香港)寄稿論説(http://www.atimes.com/atimes/Korea/FH14Dg02.html。8月14日アクセス)の概要をご紹介しましょう。
 
 朝鮮半島をめぐる国際環境の基調を形作っているのは朝鮮半島住民の構造的な反日親中観だ。
 その原因は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592-98年)にある。
 「李朝史録」を読めば、それがなぜだか分かる。
 日本軍がいかに残虐な行為を行い、いかに朝鮮を荒廃に導いたかが書いてあるからだ。
 数年前のフォーリンアフェアーズに載った話だが、日本軍が数万人の朝鮮人犠牲者からそぎ落とした耳と鼻を日本に持ち帰って埋めた耳塚(Ear Mound)が京都にあり(注6)、このことが日本軍が何をやったかを端的に物語っている。

 (注6)慶長の役のおり、秀吉が戦況確認のために敵の鼻を削いで塩漬けにして日本に送らせたが、戦死者だけでなく、生きている者の鼻を削いで送ったケースもかなりあったという。この鼻を供養した場所に後に供養塔が建てられたが、誤って耳塚と称されることになった。(http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/mimi_001.htm。8月15日アクセス)従って、Yu論説が引用した米国誌の論文は、「「耳と」鼻」、「埋めた」としか述べていない、という二点において間違っている。(「埋めた」ことだけを伝えて、耳塚は殺戮記念碑などではなく、朝鮮側の死者への慰霊碑であることを伝えていない。)

 この出兵に対し、明(中国)は李氏朝鮮を助けるために全力を尽くし、秀吉の野望を打ち砕いたが、明はこれによって著しく疲弊し、やがて清によって滅ぼされてしまう。
 日本は、李氏朝鮮末期において、再び朝鮮半島を侵略し、この時も清(中国)は支援の手をさしのべるが、今度は日本が勝利をおさめ、朝鮮半島は1910年に日本の植民地になってしまう。
 すなわち、日本は一度ならず二度までも朝鮮半島を蹂躙し、中国は一度ならず二度までも支援の手をさしのべた。
 こうして朝鮮半島において、構造的な反日親中観が確立したのだ。
 そして、この日本による朝鮮半島植民地化にアングロサクソンが手を貸したことが、戦後次第に知られるところとなり、反日親中が反日反米親中へと「発展」して現在に至っているのだ。

 (続く)