太田述正コラム#0446(2004.8.19)
<京都・奈良紀行(その8)>

 (本日と明20日、
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 (14)垂仁天皇陵
 今度は、第11代の垂仁天皇陵と伝えられる、壕をめぐらせた前方後円墳(5世紀)です。
 壕中に小島が浮かんでいますが、これは田道間守(たじまもり)の塚だとされています。田道間守は、垂仁天皇から常世の国(現在の韓国済州島と言われる)の橘(みかん)をもってくるよう命じられ、この命を果たして帰国しますが、天皇は亡くなっていました。悲嘆にくれた彼は天皇陵の側で死に、人々はこれを悼み、彼の持参した橘の木を天皇陵の側らに植えたと言い伝えられています(注16)。(http://miyosida.hp.infoseek.co.jp/acchi/nishinokyou/suinin/suinin.html

 (注16)京都御所(後述)の紫宸殿の前庭に右近の橘(と左近の桜)が植えられているのはこの故事による。

 (15)菅原天満宮
 さて、垂仁天皇は天皇陵を造るにあたり、殉死を禁止し、埴輪をもってこれに代えたことになっていますが、この埴輪作りを担っていたとされるのが土師(はじ)氏です。
 この土師氏が後に改姓して菅原氏と名乗りました。
 (以上、http://town.nagi.okayama.jp/library/kanwa1.htmlによる。)
 その菅原氏から出た悲劇の英才、菅原道真(845??903年)を祀るのが菅原天満宮です(http://www1.sphere.ne.jp/naracity/j/kan_spot_data/w_si88.html)。
 酷暑の午後、垂仁天皇陵と菅原天満宮には、人っ子一人いませんでした。

 (16) 秋篠寺
 秋篠宮家創設を契機に補助金が出て周辺を含めてきれいに整備されたというお寺です。
 美しい苔が境内を覆っており、昔訪れた京都の苔寺(西芳寺)を思い出しました。
 国宝の簡素で美しい本堂の中に多数の仏像が安置されていますが、一番有名な伎芸天(天平時代)については、次の一文をどうぞ。
「いま、秋篠寺といふ寺の、秋草のなかに寝そべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎芸天女の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののやうな気がせられて、わけてもお慕はしい。」(堀辰雄「大和路」より)
 (以上、http://www1.sphere.ne.jp/naracity/j/kan_spot_data/w_si52.html及びhttp://www.alice-it.com/tabi/tani3.htmlによる。)

 (17)平城宮跡等
 最後は平城宮跡です。平城宮は平城京(東西4.3km、南北4.8km、東に外京と呼ぶ張り出し部分を持つ。人口は20万人・・一説には10万人)の中央北寄りに築かれた宮城で、東西1.3km、南北1km。周囲に高さ5mの大垣をめぐらせ、正門の朱雀門を含め四方に12の門があったそうです。
復元された朱雀門に前日の夜行きました(コラム#438)が、今回は大極殿跡のホンモノの井戸枠を見学しました。
 (以上、http://www.kintetsu.co.jp/senden/Database/HE-Htm/HE0002.htmlによる。)
 ホテルに帰る途中、Nさんがイトーヨーカドーの大店舗を指さして、ここが長屋王邸跡だと教えてくれました。
 長屋は、皇孫なので長屋「王」なのですが、親王扱いされていた上に、左大臣として権勢をふるっていました。これを妬んだ藤原氏(武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟)によって呪詛の疑いをかけられ、時の聖武天皇の逆鱗に触れ、一族共々自殺に追い込まれます(729年の長屋王の変)。(http://www.asukanet.gr.jp/miyako/nagaya.html及びhttp://tokyo.cool.ne.jp/nara_hakken/rekisi/nagayaou.htm
 その長屋王の邸跡が、奈良そごうの建設中に発見されたのですが、発掘調査による中断を経て、結局そごうの店舗は完成します。しかし、奈良そごうは経営不振のため、イトーヨーカドーに身売りしてしまいます。Nさんによれば、これは長屋王のたたりだ、と噂されているとか。

 奈良篇はこれくらいにして、次回からは(時間を遡って)京都篇です。

(続く)