太田述正コラム#0444(2004.8.17)
<京都・奈良紀行(その7)>

 (多くの読者の皆さんのご尽力で、何とあっという間に13位になってしまいました。
これから先は容易ではありませんが、ここまで来たら10位以内をめざそうではありませんか。
現在団子状態の12位(私のコラムとの票差は300票弱)から8位(票差は600票弱)までのうち、三つ抜けば10位です。
 このコラムの読者は1000名以上いるわけですから、本篇を読んだ人全員が、
http://cgi.mag2.com/cgi-bin/mag2books/vote.cgi?id=0000101909
をダブルクリックし、出てきた画面のボタンをクリックすれば、それだけで即7位に上昇することを考えれば、10位以内に入ることは決して不可能ではない、と思いたいですね。)
 
 (12)法隆寺周辺
  ア 藤ノ木古墳
 法隆寺のすぐ近くに藤ノ木古墳があります。6世紀後半の円墳で、めずらしく盗掘されておらず、1085年の調査で二体の遺骨と沢山の副葬品が見つかっています。現在は整備中なので、脇を通り過ぎただけです(http://homepage2.nifty.com/asagiura/hujinoki.htm)。
 法隆寺長老の高田良信氏は、聖徳太子は、当時できたばかりのこの古墳・・恐らくは崇峻天皇陵・・の傍らにあえて崇峻天皇(コラム#440)同様非業の死を遂げた穴穂部皇子(注13)を改葬し、更にこの古墳の傍らに二人の鎮魂のために法隆寺を建立したのではないか、という説を立てておられます(http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/susyunnsatugai.html)。

 (注13)厩戸皇子(後の聖徳太子)の父、用明天皇が587年に亡くなると、誰を次の天皇にするかで排仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏との間で争いが起こり、物部守屋が推していた穴穂部皇子(聖徳太子の母親の実兄)が蘇我馬子によって殺害されてしまう。
これをきっかけに両者は武力衝突に至る。このとき、敏達天皇妃の炊屋姫(豊御食炊屋姫。後の推古天皇)・厩戸皇子・泊瀬部皇子(敏達、用明、額田部皇女の異母弟)らが蘇我氏側に味方し、厩戸皇子の活躍で蘇我氏が物部氏を滅ぼす。そして泊瀬部皇子が天皇に就任し、崇峻天皇となる。
ところが、今度は崇峻天皇と蘇我氏との関係が悪化し、592年に蘇我馬子が刺客を放って崇峻天皇を暗殺してしまう。これは日本史上、公式記録に残る唯一の天皇殺害事件。
なお通説では、崇峻天皇の陵墓は奈良県桜井市の倉梯岡上陵。
(以上、http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn032.htmlhttp://www.ffortune.net/social/history/nihon-nara/susyun-shiigyaku.htm、及びhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/tokusyu00003/toku00007.htmによる。)

  イ 法起寺
 708年に建造された、現存する日本最古の三重塔がある法起寺も法隆寺の近くです。
 外からこの三重塔を眺め、境内には入りませんでした。
 Nさんは、先般室生寺の五重塔が台風で倒れた木の直撃を受けて大破したことから、法起寺において、三重塔の回りの木々を急遽切り倒したおかげで、以前は外からは殆ど見えなかった塔が見えるようになったと言っていました。
 ちなみに、法起寺は、聖徳太子の宮殿の一つの岡本宮があったところに、太子の遺命により、建立された尼寺(当時)です。
 (以上、http://www.horyuji.or.jp/hokiji3.htmによる。)

  ウ 慈光院
  Nさんご推奨の柿の葉寿司の店が貸し切り満員であったため、昼食はコンビニのおむすび等ですませた後、コースに入っているので、とNさんが我々を連れて行ったのが慈光院です。
 奈良市及びその周辺には寺院に庭園が設けられていないこともあって、観光客が訪れるようなお庭は殆どないのですが、その例外が茶の湯にゆかりの深いこの慈光院(注14)の庭です。しかし、先を急ぐこととし、門前の付属駐車場まで行っただけで、門の中には入らずじまいでした。

 (注14)片桐勝元の甥で1万数千石の大名であった片桐石州が1663年に建立。石州は徳川第四代将軍家綱、水戸光圀、保科正之らの茶湯指南。(http://www1.kcn.ne.jp/~jikoin/

 (13)薬師寺
 次には薬師寺に行ったのですが、駐車場が遠いからとNさんは門前の奈良漬け屋の「寿吉屋」に車を駐めてくれました。(ただし、帰りに奈良漬けを少しは買わなければならない。東京に戻ってから食べたが大変おいしかった。)
 薬師寺は白鳳時代にできた三重塔が有名です。各層に裳階(もこし)といわれる小さい屋根があるため、息子は六重塔だと言い張っていました。
 国宝の仏像が何体もあるのですが、余り印象に残った仏像がなかったこともあり、紹介は控えます。(薬師寺は公認ホームページ(http://www.naranet.co.jp/yakushiji/)に掲載された仏像の写真をコピーできないようにしています。いささか度量が狭い、と思ったのも、仏像紹介を控える理由です。)
 ちなみに薬師寺は、第40代の天武天皇が菟野讃良皇后(うののさららひめみこ)(後の第41代の持統天皇)の病気平癒のため発願(注15)し、680年に建立に着手したお寺です(上記奈良ネットのサイト)。

 (注15)菟野讃良は実兄天智天皇(中大兄皇子)の娘なので天武天皇(大海人皇子)の姪にあたる。大海人皇子は671年の兄の死後、その跡を襲って弘文天皇となった兄の息子、つまりは甥の大友皇子と672年に壬申の乱を戦い、勝利し、弘文天皇を自殺に追い込む。そして673年に天皇となった。天武天皇は兄中大兄皇子が645年の大化の改新でうたった、律令国家の建設を推進する。691年に夫天武天皇が亡くなり、跡を襲って即位した持統天皇が律令制を完成した。(http://www.tabiken.com/history/doc/M/M245L200.HTM及びhttp://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/jitoutennou.htm

(続く)