太田述正コラム#0457(2004.8.30)
<世界を決定した1759年(その1)>

1 始めに

 世界の近現代史はアングロサクソン文明と欧州文明のせめぎあいだというのが、私の歴史観の核心部分(多すぎるのでコラム番号は挙げない)なのですが、一体いつアングロサクソン文明による世界制覇が確立したのでしょうか。
 それは7年戦争(Seven Years War。北米大陸ではフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)。1756??1763年)における英国の勝利によってである、と言っていいでしょう(コラム#100)。
 この戦争の結果、英国は北米大陸のフランス領を消滅させるとともに、インドにおいてフランス勢力を駆逐し、世界帝国を築く地歩を固めました。
 また、7年戦争の結果フランスという仇敵が消滅し、もはや英本国に依存する必要がなくなったにもかかわらず、英本国が駐北米英軍経費の一部を北米植民地に負担させようとしたため(拙著「防衛庁再生宣言」48頁以下)、北米植民地中の13州は独立戦争を経て英国から独立してしまいます。その結果誕生した米国は、英国と競い合いながら、独自に超大国に向かって歩みを開始します。
 こうして7年戦争の結果、英国と米国を中核とする、アングロサクソン文明による世界制覇が確立したのです。
 その反面、欧州文明の当時の旗手であったフランスは、全面的敗北に終わった7年戦争、及びその意趣返しのために行った米独立戦争支援によって財政的に破綻し、フランス革命からナポレオン戦争へと「ナショナリズム」を掲げた自滅の道をたどることになります。
 一番罪作りだったのは、7年戦争において英国は、欧州においてプロイセンを支援したため、ドイツ人地域の中の最後進国であったプロイセンが後にフランスから欧州文明の旗手の座を奪い、ドイツを統一することとなり、19世紀から20世紀にかけて、プロイセン改めドイツが無謀にも英国に(「ナショナリズム」、「共産主義」、「ナチズム(ファシズム)」を掲げた)政治的挑戦、更には(1914年からの)軍事的挑戦を行う遠因をつくり出してしまったことです。
 ドイツによる政治的・軍事的挑戦は、アングロサクソン文明諸国が一丸となった反撃によって1945年のドイツの壊滅的敗戦によって終わり、ドイツの政治的・軍事的挑戦から派生した、エセ欧州文明国ロシアによるアングロサクソン文明への政治的挑戦も、1991年におけるソ連邦の崩壊によって終焉を迎えたわけです。
 (以上、事実関係については、http://members.cox.net/johnahamill/sevenyears.html(8月29日アクセス)による。)

2 7年戦争

 話は1688年にさかのぼります。
 名誉革命の結果、英国からスチュアート朝勢力が一掃されます。英国からカトリシズム=プロト欧州文明勢力が一掃された、と言い換えてもいいでしょう。
 しかし、スチュアート朝の残党は、その後も18世紀中頃に至るまで、フランスの庇護のもとに執拗に英国における失地回復を試みます(コラム#181)。
 そして欧州においても、スチュアート朝の残党の多くは、フランスのために戦います。
 有名なのはアイルランド人のトレンダール(Lally Tollendal。1702??1766年)です。トレンダールはフランス亡命後、オーストリア継承戦争にフランス軍人としてアイルランド旅団中の一連隊を率いて従軍します。1745年のスチュアート朝のボニー・プリンス・チャーリーのスコットランド遠征(コラム#181)の参謀をつとめた後、7年戦争においては、フランス遠征軍を率いてインドに赴きます。結局彼はインドで英国に敗れ、英本国における捕虜生活を送った後にフランスで敗戦の責任を問われて断頭台の露と消えるのです(注1)。
 (以上、トレンダールについては、http://62.1911encyclopedia.org/L/LA/LALLY_TOLLENDAL_MARQUIS_DE.htm(8月29日アクセス)による。

 (注1)もっともスチュアート朝残党の中には、スコットランド人のケイス(James Keith。1696??1758年)のように、1715年のスチュアート朝残党の英国での叛乱やスチュアート朝残党による1719年の未遂に終わった英国侵攻計画に加わった後、欧州に亡命し、スペイン、ロシアを経てプロイセンにおもむき、フリードリッヒ2世(後述)の知遇を得て元帥に任ぜられ、戦死するまで7年戦争初期においてプロイセンのために活躍した人物もいる(http://www.bartleby.com/65/ke/KeithJa.html。8月29日アクセス)。

 7年戦争は、英国対フランスの争いを中核として、フランス側がオーストリア、ロシア、スペインを味方に付け、他方英国側はプロイセン、ポルトガルを味方に付けるという図式で戦われました。一つ忘れてはならないのは、当時英国はハノーバーと同君連合関係にあり(コラム#426)、英国は欧州大陸国でもあったということです。
 欧州における争点は、オーストリア継承戦争(1740-1748。北米大陸ではジョージ王戦争(King George War)。コラム#100)の結果プロイセンにシレジア地方を奪取されたオーストリアによるシレジア地方の奪還の成否です。
 プロイセンとポルトガルは英国から見れば敵の敵であったということですが、英国とプロイセンの結びつきはそれだけではなかったように思われます。
 当時のプロイセン王のフリードリッヒ2世(フリードリッヒ大王。Frederick the Great)は、母親が当時の英国国王(兼ハノーバー選帝公)ジョージ2世の妹だったこと、フリードリッヒが父国王(フリードリッヒ・ヴィルヘルム)と不和だった時に英国に逃げようとしたことがあること、とりわけフリードリッヒ自身は無神論者であったのですが、即位後宗教の自由を擁護したこと、等英国のお眼鏡にかなった人物だったからです。
 (以上、フリードリッヒ2世については、http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_the_Great及びhttp://www.bartleby.com/65/fr/Fred2Pru.html(どちらも8月29日アクセス)による。)
 すなわち、7年戦争は、アングロサクソン文明の英国が北ドイツの反カトリシズム勢力とともにカトリシズムの(プロト)欧州文明のフランス等(ただし、ロシアは正教であり、助っ人)と雌雄を決した、文明の衝突の性格を帯びた戦争だったのです。

(続く)