太田述正コラム#9035(2017.4.15)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その19)>(2017.7.30公開)
 「この遊郭には後々まで受け継がれる遊郭の3つの基本の形が、すべて組み入れられていた。
 それは遊郭入口の大門、郭内の並み木、そして娼家の格子窓である。
 入り口の大門は「ここから先は現実社会とは無縁の別世界」であることを示す結界であり、郭内の並み木は中国では遊郭が花柳界と呼ばれていたことを取り入れたものである。
 中国で花といえば牡丹を指し、遊郭では周辺を柳で囲み、玄関脇や中庭などに牡丹を植えるのが慣わしだった。
 日本の場合、・・・牡丹はなじみがなかった<(注62)>ため、もっぱら柳並み木が中心だった。・・・
 (注62)「原産地は<支那>西北部。元は薬用として利用されていたが、盛唐期以降、牡丹の花が「花の王」として他のどの花よりも愛好されるようになった。・・・日本では8世紀には栽培されていたようである・・・
 <楊貴妃を、李白は牡丹に、白居易は>「牡丹・梨花・柳に例えた。」・・・日本では・・・文学に登場したのは『枕草子』が最初である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%BF%E3%83%B3_(%E6%A4%8D%E7%89%A9)
 そして3番目が格子窓で、・・・秀吉は、すべての娼家を格子窓にするように三郎左衛門に申し付けたという。・・・
 秀吉はこの遊郭の完成を心待ちにしており、工事の進捗状況を1日に何度も視察に出かけたほどである。・・・
 なお、この遊郭の開設には、三郎左衛門といっしょに林又一郎<(注63)>という人物も働いていた。
 (注63)?~?年。「妓楼(ぎろう)藤屋を経営し,名妓吉野太夫(よしのだゆう)をだした。[<また、>そこで・・・遊女歌舞伎の「又一大歌舞伎」を作ってその名を轟かせた。]のち大坂新町で妓楼扇屋をひらいた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E5%8F%88%E4%B8%80%E9%83%8E-1102324
 又一郎は秀吉の馬廻りとして仕えていたともいわれる。
 三郎左衛門がシステムのハード面を、又一郎が遊女の確保や客に対するサービスの内容などソフト面を担当していたようだ。・・・
 後に扇屋の娘婿が歌舞伎役者に転身、初代中村鴈治郎<(注64)>となった。」(184~186、188)
 (注64)舌足らず過ぎるくだりだが、史実は以下の通り。↓
 「安政年間、この扇屋の一人娘・妙(たえ)が役者の四代目嵐●<(王偏に玉)>蔵と恋仲になり、ふたりの間には一男・玉太郎が生まれる。●蔵は惚れた女と授かった息子のためにと、いったんは役者を廃業して扇屋に入婿する。しかし芝居を諦めきれず、結局女房子供と家を捨て、役者に戻って舞台に立つ道を選んだ。この●蔵が四代目中村歌右衛門に弟子入りし、やがて認められてその養子となり、三代目中村翫雀の大名跡を襲名するに至る。
 この父の名声が大阪中に響き渡るようになると、居ても立ってもいられなくなったのが林玉太郎だった。物心ついた玉太郎は自らの出自を知ると、父の後を追うようにして家を出て役者となってしまう。これが後の初代中村鴈治郎である。一方、入婿には義絶され、一人息子にも家出同然に逃げられた扇屋は、この妙の代に経営が傾いて没落してしまう。
 鴈治郎の長男・長三郎は、明治34年 (1901) の初舞台以来、長らく本名の「林長三郎」で舞台をつとめていたが、それもこの歴史ある「林」の家名が絶えてしまうことを嫌ったためだった。祖父が名乗った「翫雀」は中村歌右衛門一門の中でも大名跡の一つに数えられるものであり、また父が名乗る「鴈治郎」は父が一代で関西歌舞伎を代表する大名跡にのしあげたものだったが、長三郎はこの双方を弟に譲ってまで「林」を名乗ることにこだわり続けた。そして昭和17年 (1942) になって二代目として襲名したのが、祖宗の名である「林又一郎」だったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%8F%88%E4%B8%80%E9%83%8E
 この二代目林又一郎の「弟<が>二代目中村鴈治郎(笑福亭圓歌の娘と結婚)<、>甥<が>四代目坂田藤十郎(扇千景と結婚)<、>姪<が>中村玉緒(勝新太郎と結婚)」である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%8F%88%E4%B8%80%E9%83%8E_(2%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
⇒どういうわけか、この本の中で、下川は歌舞伎を正面から取り上げていないので、ここで触れておきます。
 「歌舞伎の元祖は、「お国」という女性が創始した「かぶき踊」であると言われている。・・・お国が踊ったのは傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含んだものであった。 ここでいう「茶屋」とはいわゆる色茶屋の事「茶屋の女」とはそこで客を取る遊女まがいの女の事である。・・・その後「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていた事もあり、わずか10年あまりで全国に広まった。今日でも歌舞伎の重要要素の一つである三味線が舞台で用いられるようになったのも、遊女歌舞伎においてである。当時最新の楽器である三味線をスターが弾き、五六十人の遊女を舞台へ登場させ、虎や豹の毛皮を使って豪奢な舞台を演出し、数万人もの見物を集めたという。
 他にも少年の役者が演じる歌舞伎(若衆歌舞伎、わかしゅかぶき)が行なわれていたが、少年達の多くがもともと男色をなりわいとしていた事からも分かるように、好色性を持ったものであった。男色の特殊性ゆえか、全国に広まった遊女歌舞伎と違い、若衆歌舞伎の広がりは京、大阪、江戸の三都を中心とした都市部に限られている。
 しかしこうした遊女や若衆をめぐって武士同士の喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかった為、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は幕府により禁止される。・・・
 次の劃期が元禄の近辺にあたるとするのが定説で、「このころには「演劇」といってはばかりのないものになっていた」(元禄歌舞伎)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E
 要するに、あえて直截的に、かつ単純化して言えば、歌舞伎は、初代林又一郎の手で遊郭において売春行為の宣伝、というか、前戯、目的で生まれた、ということなのであり、現在の関西歌舞伎は、この初代林又一郎の直系子孫であるところの、(初代林又一郎が興した妓楼扇屋を没落させた)初代中村鴈治郎、及び、二代目林又一郎、なる父子が再興した、ということです。
 まさに、日本の遊郭史と歌舞伎史は密接不可分であった、と言ってよいでしょうね。(太田)
(続く)