太田述正コラム#9085(2017.5.10)
<二つのドイツ(その2)>(2017.8.24公開)
 「野蛮人達による、ライン河を渡っての、ガリア(Gaul)に対する略奪目的の攻撃、に辟易した、皇帝アウグストゥス(Augustus)は、境界線を東方へと動かすべく、ローマがいまだかつてかき集めたことのない、最大の軍隊を招集したところ、<その侵攻は、>BC9年にエルベ(Elbe)河で止まり、その後は、南を目指し、ドナウ(Danube)河の西側の諸岸辺に沿う、もう一つの境界線を構築した。
 それからは、これがドイツ人の生活を規定する断層線・・その西側はローマ文化と諸制度によって文明化され、その東側は、権威主義と不安定性の、うす昏い中間地帯・・になった。」(B)
⇒本そのものではどうなっているのか知りませんが、当時のライン河以東の民族構成の話が出て来ないので一言。
 ゲルマン人は、(現在のデンマークを含む)スカンディナヴィア地域から南下してきた人々であり、アウグストゥス(BC63~AD14年。皇帝:BC27~AD14)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9 
が、(ケルト人が住んでいたガリアの征服と並行して、)エルベ河とドナウ河への東征を行った当時は、彼らは、現在のオーストリアにはまだ殆ど到達しておらず、現在のオランダ、フランダース地方、及び、現在の東独、並びに、西独の(北部を中心とした)約半分に到達していただけでした。
https://en.wikipedia.org/wiki/Germania#/media/File:Germanic_tribes_(750BC-1AD).png
 もちろん、彼らは、先住のケルト人等と混住していたわけですし、ゲルマン人の多くは、ケルト化してもいました。
 アウグストゥスは、そのうち、抵抗した諸部族は、女性や子供もろとも全滅させたことが何度かあったのですが、アウグストゥスの東征以降も、ゲルマン人の、南下は続きます。
https://en.wikipedia.org/wiki/Germanic_Wars
https://en.wikipedia.org/wiki/Tencteri
https://en.wikipedia.org/wiki/Usipetes
https://en.wikipedia.org/wiki/Chatti
https://en.wikipedia.org/wiki/Eburones (太田)
 (3)ドイツ第1帝国
 「AD843年に、シャルルマーニュ(Charlemagne)の孫達は、彼の帝国を、あたかも、マフィアのボス達が縄張りを山分けするように分割した。<(注2)>
 (注2)「ヴェルダン条約(Treaty of Verdun)は、843年にフランク王国(カロリング朝)の王ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世)の死後、遺子であるロタール、ルートヴィヒ、カールがフランク王国を3分割して相続することを定めた条約。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%B3%E6%9D%A1%E7%B4%84
 ルートヴィヒ(Louis)は、我々が後にドイツ(Germany)と呼ぶことになる地をもらった。
 その過半は、かつてのローマ帝国領であり、東部の野蛮人達を締め出しておくためにローマ人達が構築した大防壁(great wall)であるところの、リメス・ゲルマニクス(Limes Germanicus)<(注3)>の内側の一帯だった。
 (注3)早くも、アウグストゥスの治世中のAD9年に、ヴァルス(Publius Quinctilius Varus)率いるローマ軍がゲルマン人とのチュートブルク森の戦い(Battle of the Teutoburg Forest)で大敗を喫し、ローマはドナウ河の境界線は維持するも、エルベ河の境界線は放棄し、元のライン河の境界線まで後退し、爾後、この新境界線が維持されることになる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_the_Teutoburg_Forest
 この境界線沿いに、全長568kmの、両河の間で自然境界のない300kmを中心として設置された、城塞(fort)60以上、監視塔900以上、からなる、事実上の防壁が作られた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Limes_Germanicus#/media/File:Germanic_limes.jpg
https://en.wikipedia.org/wiki/Limes_Germanicus
 後世の西独とオーストリアの全ての最大の諸都市である、ケルン(Cologne)、シュトゥットガルト(Stuttgart)、ウィーン(Vienna)、ボン(Bonn)、マインツ(Mainz)、及び、フランクフルト(Frankfurt)、は、ハンブルク(Hamburg)を除き、ローマの西の方の帝国の領域内、ないしは、その直近の影(shadow)の中、で成長した。・・・
⇒本そのものの中にはあるのでしょうが、「影」の具体的な意味が説明されていないので、今一つすとんと腑に落ちません。(太田)
 この分割を管掌した、ヴェルダン条約(Treaty of Verdun)は、ルートヴィヒに、単純に、「ライン河以遠の全て」を割り当てた。
 それは、「全て」がどこまでか、という問題を残した。
 ドイツが、シャルルマーニュの統治の最遠地であったエルベ河までなのか、それとも、その統治者達がシャルルマーニュに朝貢していたところの、スラヴの諸地<(注4)>にまで及ぶのか、という・・。」(A)
 (注4)この朝貢地が黄色で図示されている。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%B3%E6%9D%A1%E7%B4%84#/media/File:Vertrag-von-verdun_1-660x500_japref.png
⇒3兄弟中のルートヴィヒの直轄地の東端、すなわち、シャルルマーニュの直轄地の東端・・ライン河・・は、西ローマ帝国の東端とほぼ一致していたのですから、アウグストゥスが、その治世中、短期間占領していただけの、ライン河以東エルベ河以西の話を無理やり冒頭に持ってきた、著者の魂胆は想像できるものの、こじつけに近い、と言ってよさそうです。(太田)
(続く)