太田述正コラム#0469(2004.9.11)
<ベスラン惨事とロシア(その5)>

 (掲示板でもお知らせしたように、私のホームページへの8??9月(11日から10日)の訪問者数が21,965人と、過去最高であった前月の20,330人を上回り、四ヶ月連続して記録を更新しました。また、累積訪問者数は、209,224人となり、20万人を突破しました。なお、メーリングリスト登録者数は現在1,124名です。)
 (前回のコラム#468にウィルケンスの「学説」についての私の資料源を挿入してホームページに再掲載しておきました。)

 (3)諜報機関のお粗末さ
 この問題をベスラン事件がらみで電子版で取り上げたのは、私の読んでいる範囲では、世界のメディアの中で日本の東京新聞だけです。
 東京新聞は、滝沢一郎元防衛大学校教授、袴田茂樹青山学院大学教授、寺谷弘壬青山学院大学教授、神浦元彰(前述)、及びジャーナリスト常岡浩介の各氏の話をつなぎ合わせて記事(http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040905/mng_____tokuho__000.shtml。9月5日アクセス)にしています。(望蜀の感はあるが、外国、とりわけ英国あたりの専門家も登場すればよりベターだった。)
 このうち、(防衛大学校総務部長時代にその業績・人となりを存じ上げた)滝沢氏、(私が氏の業績を知っており、かつ母親違いの妹さんが前回のロシア大統領選挙に立候補して落選した)袴田氏、(野村総研のプロジェクトチームで私の同僚だった)寺谷氏の話を採用し、他方、神浦氏の話(は前述した理由から)、そして常岡氏の話は私が同氏の業績も人となりも知らないことからオミットして、私の見解を加味しつつまとめると次のようになります。

 旧ソ連のKGBはエリートが集まり、そのKGBエリート達がプーチン以下、現在のロシアを牛耳っていると以前(コラム#282)書きましたが、ロシアの現在の諜報機関には昔日のKGBの面影はありません。
 ソ連が1991年に崩壊すると、KGBは米国等に倣って、国内担当の連邦保安省(ただし国境警備も担当)と外国担当の連邦対外情報局に分割され、次いで1993年のロシア議会占拠事件に旧KGB幹部が連座したことから、当時のエリティン大統領が更に連邦保安省を連邦防諜局と連邦国境警備局に分割したこと、などから、旧KGBは五つに分割されてしまいました。後に連邦保安省と連邦防諜局の二つは再統合されて連邦保安局(FSB)となったものの、省ではなく局にとどめられています。
 もっとも、分割されたことや格下げになったこと自体が問題なのではなく、各機関の相互連携がうまくいっていないだけでなく、(ロシア政府にカネがないので仕方がない面はありますが、)各機関とも予算不足に苦しめられて能力が低下していることが問題なのです。
 特に、ソ連崩壊によるソ連「辺境」地帯における国境の複雑化もあり、国境警備機能の低下には著しいものがあります。国内外の不穏分子が比較的自由にロシアの国境を出入りできるのが現在の実情です。
 深刻なのは、ロシアの政府機関がソ連時代の政府機関以上に腐敗していることです。KGBはソ連の政府機関の中では最も腐敗していない機関でしたが、その後継機関であるFSB等でも腐敗がはびこっています。
 例えば、今年5月のチェチェン共和国の式典で、ロシアの「かいらい」のカディロフ大統領らが爆殺された事件では、大統領が座った席の真下に爆弾が仕掛けられており、FSBから情報が漏洩していたとしか考えられません。また、8月の民航機二機爆破事件においても、欧米並の最新検査機器が備わっているモスクワ近郊の同一の空港から飛び立っており、検査官の著しい過失があった可能性が大です。こんな過失が起こるようなことは、9.11同時多発テロ以後の米英等ではおよそ考えられません。
 こんなことでは、ロシア当局にバサーエフやマスカドフらが捕まえられるはずがない、と思えてきますね。

4 犯人側のねらいと「成果」

 (1)始めに
 これまで、ロシア当局のいかがわしさと失態について書いてきましたが、犯人側の話もしましょう。
そもそも、子供をターゲットにした今回の犯人達の行為をお前はどう思っているのか、ロシア当局側のことをあげつらってもしようがないだろう、ですって?
 あわてずに、順序を経た冷静な議論をしようではありませんか。
 さしあたり取り上げるべきは、犯人側がなぜ北オセチアを犯行の場として選んだのか、という点です。

 (2)ロシアのエージェントたるオセチア
 オセチア人は、コーカサスの諸民族の間では新参者です。
オセチア人は一部イスラム教徒もいますが、基本的にロシア正教徒であり、帝政ロシアやソ連時代にロシア(ソ連)当局側にたってイスラム教徒のチュチェン人やイングーシュ人の「平定」・「弾圧」に荷担してきました。
(若干のねじれ現象が生じたのが1917年のロシア革命直後の内戦時代です。この時、オセチア人は旧帝政・正教会寄りの白軍に荷担し、イングーシュ人は共産党の赤軍に荷担して戦いました。)
このため、隣人同士のオセチア人とイングーシュ人の仲は一貫して険悪なものがあります。
 今でもチェチェン人らとともにイングーシュ人をカザフスタンに強制移住させたスターリン人気は、オセチア人の間で絶大なものがあります。(そもそも、スターリンの片親はオセチア人でした。)
 イングーシュ人がカザフスタンに強制移住させられた時、ソ連の当局は、オセチア人をイングーシュ人の住居に住まわせ、イングーシュ人の憤激をかいます。しかも、イングーシュ人らが許されて故郷に戻った時、かつてのイングーシュの土地の一部(北部のPrigorodny地区)はオセチアに割譲されてしまっていました。
 1982年にはオセチア人とイングーシュ人の大規模な衝突が、北オセチアの首都ウラジオカフカス(Vladikavkaz)で起こります。この時はロシア軍の戦車の砲撃によってウラジオカフカスの中心部は灰燼に帰しています。
 ソ連崩壊後の1991年にロシア政府はPrigorodny地区のイングーシュへの返還を決定しますが、積極的にこの決定を実施に移さなかった結果、1992年に再び大規模な衝突が起こり、Prigorodny地区のイングーシュ人は家を焼かれ、4万人ないし6万人がイングーシュへ追い出されます。双方合わせて700名近い死者がでました。この時投入されたロシア軍は、両者の間に割って入っただけでした。現在でも、Prigorodny地区に戻ることができたイングーシュ人は2万人にとどまっています。
(以上、http://www.csmonitor.com/2004/0908/p01s03-woeu.html(9月8日アクセス)、http://www.guardian.co.uk/chechnya/Story/0,2763,1299100,00.html(9月8日アクセス)、http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A3570-2004Sep7?language=printer(9月9日アクセス)による。)

(続く)