太田述正コラム#9153(2017.6.13)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その13)>(2017.9.27公開)
 「弥生時代になると男性の農耕神の祭祀がさかんになる。
 しかし男性の神が主流になった後にも、縄文的な母神信仰が重んじられた。
 現在でも日本の各地に、女神を祭神とする神社が多くみられる。・・・
 日本神話に出てくるそのような女神に独身の神は少なく、女神の多くが男性の神の妻で母となった神と伝えられる。
 日本の女神の多くは、縄文時代の大地の母神の流れを引いているのであろう。・・・
 縄文時代のような母親を中心に営まれた社会では、男性は誰かと結婚しない限り一人前の人間として扱われなかったと考えてよい。
 子供が集落全体の宝とされた時代であるから、子供を残せない男性は周囲から軽蔑される。
 このような男性が単独で生きることのむつかしい時代は、日本で長く続いた。
 6世紀なかば以後に日本に仏教が広まるが、僧侶は仏法に従って独身をとおすものとされていた。
 それゆえ「出家」という逃げ道は、家庭を営む能力が劣る男性の救いになったのかもしれない。・・・
 縄文時代以来、「子供は一つの集落、一つの氏族のみんなのもの」という考えが長く受け継がれていた。
 それゆえ子育てに従事している母親は、周囲の人間さまざまな助けを受けることができた。
⇒魅力的な記述が続いていますが、残念ながら、具体的根拠、典拠が示されていません。(太田)
 戦いが続いた古代の中国では、強い戦士が求められて厳格な男尊女卑の考えがとられていた。
 奈良時代直前に、朝廷は、国政の基本とするために中国の法にならった「大宝律令」(701年)を作成してそれを施行した。
 これによって、たてまえの上では日本で中国風の男尊女卑の家族制度がとられることになった。
 しかし・・・貴族政権の時代の日本には、中国風の男系の家族制度が根付かなかった・・・。
 ・・・文献から、かれら<は、従来同様、>通い婚や婿取り婚を行なっていたことがわかるからである。
 通い婚は夫と妻が別々に家をもち、夫が日取りを決めて夜に妻の家を訪れ帰っていくものである。
 このような夫婦の仲が親密になれば、夫が妻の家に迎えられて生活する婿入り婚になる。・・・
 婿入りした者は妻の父の屋敷を相続することが多かった。
 貴族の社会では平安時代頃まで、<このような、>婿入りを基本とする婚姻が行なわれていたのである。
⇒これは、別段、「貴族の社会」に限らなかったようです。
 このような、通い婚(duolocal marriage)、すなわち、妻問婚(つまどいこん)、は、「インド南部ケララ州に住むドラヴィダ人(無典拠)、高句麗(『後漢書』)、古代の日本人(無典拠)など」に見られ、「普通、子は母親の一族に養育され、財産は娘が相続する」(無典拠)、と日本語ウィキペディアはしています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%BB%E5%95%8F%E5%A9%9A
が、ドラヴィダ人(Dravidian)に関しては、インターネット上で、これを裏付ける英語文献が見つからなかったので、間違いではないでしょうか。
 通い婚は極めて稀であること、ドラヴィダ人は(通い婚ではなく、)prescriptive bilateral cross-cousin marriageである旨、記されている英語文献はありました
https://books.google.co.jp/books?id=F0aOAgAAQBAJ&pg=PT1782&lpg=PT1782&dq=duolocal+marriage%EF%BC%9BDravidian&source=bl&ots=rctDB5oPAW&sig=mt3WaD_qC-za9SZQAAr15TkpLrA&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjRo8zyxLrUAhUKgbwKHVX9DQwQ6AEIKjAB#v=onepage&q=duolocal%20marriage%EF%BC%9BDravidian&f=false
が・・。(太田)
 これに対して新興の武士は、家長となる男性の武力によって領地を守らねばならなかった。
 そのために武士の間で、<男性たる>家長を指導者とする日本的家制度がつくられていった。
 そして鎌倉時代に入った頃から、武士のような家制度が京都の公家の間にも広がっていった。」(71、73、76~78)
⇒「鈴木圀弘<(注36)>・・・が中世領主の族縁共同体の在り方は鎌倉幕府の理想とする「一族」結合–家父長(本主)の権限により統率されている族的結合–ではなく、むしろ「親類」結合–ある特定人物(族長)の男系・女系双方の系譜につらなる人々をその族団構成の主要メンバーとしている結合–であったと」いう説を唱えているところ、並木真澄(注37)が、この説が鎌倉北条氏にあてはまることを検証しています
http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/1803/1/shigaku_18_32_64.pdf
が、この説には惹かれるものがあります。
 (注36)日本大学文理学部史学科教授。1961年日大文学部史学科卒、その後、同大修士。著書:『在地領主性』(1985年)、『『日本中世の私戦世界と親族』(2003年)。
http://researchmap.jp/read0027879/
 (注37)学習院大学?。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007562852
 というのも、有力武士の多くは、貴族の流れをくんでおり、母系制から父系制に完全に移行した、と見る方が不自然だからです。(太田)
(続く)