太田述正コラム#0476(2004.9.18)
<ベスラン惨事とロシア(その7)>


(3)米英両国のプーチン批判
 米国のパウエル国務長官は、プーチンの対応措置について、「これは民主的改革のいくつかを後退させるものだ。われわれは心配しており、ロシア政府と本件で協議をしたい。」と語り、ブッシュ大統領は、「民主主義の敵と戦う際には民主主義の原則を堅持する必要がある。私は・・ロシア政府が決定したことは民主主義を危うくすると心配している。」と述べました。
 英国政府はこれまでのところ何も言っていませんが、ファイナンシャル・タイムス紙は、プーチンが諜報機関を統合しようとしているのは、単に米ブッシュ政権のつくった国土安全保障省に倣っただけかもしれないとしつつも、これは「ソ連時代のKGBという化け物の再来の恐怖をかきたてる」と書き、ガーディアンは、プーチンの対応措置は、「プーチンを独裁者に変貌させるわけではない。何となれば彼は<民主主義を奉じる>サミットへの招待を依然有り難がっているし、」ロシア当局は「余りに腐敗しているため専制的になろうとしてもなり切れない」だろうと皮肉たっぷりにプーチン批判を行いました。
 (以上、(http://slate.msn.com/id/2106809/(9月17日アクセス)による。)
 それどころか、ホワイトハウスのバウチャー報道官は、ベスラン惨事の犯人達を非難しつつも、チェチェン紛争の政治的解決を図るべきだとの米国政府のスタンスについて、「われわれの基本的見解は変わっていない」と述べたのです(注13)。
(以上、http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A9594-2004Sep9.html(9月11日アクセス)による。)

 (注13)米国も英国も、チェチェンの穏健派抵抗勢力たる「大統領」マスハドフの側近(それぞれIlyas AkhmadovとAkhmad Zakayev)を自国に受け入れている。

 ちなみにロシアの政治家達は、だらしないことにベスラン惨事そのものについても、プーチンのその後の対応措置についても、ごく少数の例外を除き、何も言わず貝のように沈黙を保ってきました(http://www.nytimes.com/2004/09/05/international/europe/05assess.html?pagewanted=print&position=(9月5日アクセス)及び(http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,2763,1299408,00.html(9月9日アクセス))。
しかし、米英の厳しいプーチン批判によって促されたのか、9月17日になってようやく超大物の元政治家二人が重い腰を上げました。ゴルバチョフとエリティンです。
 ゴルバチョフは、「正常な議会と自由なメディアなくしてどうやって腐敗をなくすことができるのか。」「<ロシア>社会の統制が不十分だったって?<ロシアでタガが緩む>傾向など全く見られないよ。<そもそもプーチンは>これまで一貫して統制強化に向けて努力してきたのではなかったか。<これ以上統制をしようと言うのか。>」とその評論家的舌鋒に少しも衰えのないところを見せつけました。
 またプーチンの恩師エリティンは、大統領職をプーチンに譲ってからというもの、プーチンに批判めいたことは一切言ったことがありませんでしたが、「自由の圧殺と民主的諸権利の剥奪はテロリストの勝利を意味する。」「民主的な国家であって初めてテロに成功裏に対処することができ、世界の先進諸国の協力を得ることができる。」と初めてプーチンに苦言を呈したのです。
(以上、http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,2763,1307289,00.html(9月18日アクセス)による。)
もっとも、二人とも米英のように、チェチェン紛争の政治的解決を図るべきだとまでは言っていないところに彼らの限界が現れています。

 (4)イスラム諸国における反応の限界
 イスラム諸国における反応には興味深いものがありました。
 ベスラン惨事が起こった時点で多くのイスラム教徒が、子供達を人質にとり、多数の子供達を死に追いやった犯人達がイスラム教徒であったことにショックを受け、それがイスラム諸国の一部で、アラブないしイスラムへの自己批判を引き起こしたのです。
 例えば、
アルジャジーラと並ぶアラブ世界の二大衛星チャンネルの一つであるアルアラビーヤの支配人は、「<世界の>テロリストが全てイスラム教徒ではないことは事実だが、テロリストの殆どがイスラム教徒であることもまた事実であり、このことにはとりわけ心が痛む。・・<ベスランでテロリストが達成したのは>何と唾棄すべき「成果」であることか。われわれはこの惨事が、われわれ自身、われわれの社会、そしてわれわれの文化の何たるかを物語っている可能性に思いを致さなければならない。」と激白しました。
またサウディのあるコラムニストは、「血と殺戮がもたらされているのにイスラム教が慈悲と赦しの宗教だなどとどうして信じることができようか。・・われわれはわれわれの病の深刻さを自覚して初めてその病を治すことができる。まず自らを見つめ、懺悔しなければならない。」とした上で、「ベスラン惨事の犯人や、無辜の一般人の首をかききったり、無辜の一般人を自爆テロの対象にしたりする輩は、「真のジハード」を発動して殲滅しなければならない」とまで言い切りました。
更にエジプトのあるイスラム教著述家は、アルアラビーヤでフツーのレバノン人がベスラン惨事についてイスラム教学者(cleric)に繰り返し食ってかかっていたことをとりあげ、「これは新しい現象だ。・・イスラム教の宗教的権威者はかつて持っていた無謬性を失ってしまった。深刻な疑問が彼らに投げかけられるようになったのだ。」と記しています。
(以上、http://www.csmonitor.com/2004/0910/p06s02-wome.html(9月10日アクセス)、http://www.csmonitor.com/2004/0910/p08s03-comv.html(9月11日アクセス)による。)
しかし、私に言わせれば、イスラム世界における多数派については何をかいわんやですが、ご紹介したこれらの「良心的」少数派の論ですら、イスラム世界の絶望的なまでの知性の鈍磨ぶりを示しているのです。

(続く)