太田述正コラム#9199(2017.7.6)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その26)>(2017.10.20公開)
 「縄文時代の流れをひく母なる女神の信仰<(前出)>は、高天原神話が整えられた6世紀なかばの時点でもさまざまな形で生きていたと考えられる。・・・
 欽明天皇は「母なる女神を最高神とする」という考えをすすんで受け入れたと考えてよい。
 かれが父の権威でなく母の権威によって大王に立てられた人物であったためである。
 欽明天皇の父の継体天皇は、大王を出してきた一族に適当な後継者がなかったときに、前の大王の妹、手白香皇女(たしらかのひめみこ)の婿に迎えられた王族であった。
 しかも欽明天皇自身も手白香皇女の子であったために王家の嫡流とされて、二人の異母兄のあとで王位を継いだ人物である。
 さらに欽明天皇は、異母兄の子供たちとの対立を避けるために、異母兄の宣化天皇の娘、石姫皇女(いしひめのひめみこ)を大后(正妻)にしていた。
 <こうして、>継体天皇の時代以後の王家で、大王と王族出身の大后がならんで朝廷を指導する形が定着していた。
 このような慣行は、奈良時代直前の文武(もんむ)天皇の時代の頃まで受け継がれた。
⇒「継体新王朝説を採用した場合でも、現皇室は1,500年の歴史を持ち、現存する王朝の中では世界最長である。それ以前の系譜は参考ないしは別系とするなどして「実在と系譜が明らかな期間に限っても」という条件下においてもこのように定義・認定されることから、皇室の歴史を讃える際などに、継体天皇の名前が引き合いに出されることが多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
というわけで、実在がはっきりしている最初の大王(天皇)は継体だとすると、大王家は、最初から「大王と王族出身の大后がならんで朝廷を指導する形」だったのかもしれません。
 卑弥呼が仮に大王家の人間であったとして、弟がいて彼女を助けていたという、邪馬台国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC 前掲
の姿ともこれは合致しています。
 (このようなことも以前に指摘したことがありますが、)かかる、朝廷の姿は、母系の縄文文化と父系の弥生文化の両方に目配りしつつ、この二つを止揚したものではないでしょうか。(太田)
 そのあとは、藤原氏出身の后が重んじられるようになっていく。・・・
 王家が大和で行なった太陽神、天照大神の祭祀は、6世紀はじめ頃からつくられてきた比較的新しいものであった。
 これとは別に、弥生時代のはじめから続けられてきたと推測できる伊勢の太陽神信仰があった。
 伊勢では、「天照」の神の一つで、「天照神(あまてるのかみ)」の他に「天日別命(あめのひわけのみこと)」や「高木神(たかぎのかみ)」の別名をもつ神が祭られてきた。
 大和の天照大神の祭祀と<この>伊勢の「天照」の祭祀は、本来は全くの別物であった。
⇒「大和の天照大神」については、上出の、継体天皇と欽明天皇のそれぞれの大后との関係からの推定(憶測?)がなされているだけで、その起源の典拠的なものを武光が全く示していないのは困ったものです。(太田)
 ところが全く異なったこの二つの祭祀を上手に一つにまとめる形で、古代の伊勢神宮の祭祀や天照大神関連の神話がつくり上げられていったのである。
 そのため男性の太陽神であった伊勢の「天照」の神が天照大神という女神と合祀されて、新たな形の女神、天照大神がつくられたのである。」(153~155、160)
(続く)