太田述正コラム#9233(2017.7.23)
<改めて米独立革命について(第II部)(その12)>(2017.11.6公開)
 著者は、奴隷制・・その保護と関連事項(extension)を含む・・米独立革命とその後、の中心的事実であったことを、正しくも強調する。
 しかし、独立戦争の乱気流の中で起こったところの、同時進行していた、黒人生活の再編成を過小評価するきらいがある。
 彼が記しているように、北部の奴隷化された黒人達は、しばしば白人の同盟者達の助けの下で、新しい諸州政府に対し、奴隷制を廃止するよう陳情した。
 マサチューセッツ州で奴隷化されていた、エリザベス・フリーマン(Elizabeth Freeman)<(注17)>は、新しい州憲法の、「全ての人々(men)は自由にして平等に生まれている」という文言を用いて、訴えを提起し、自身の自由を1781年に勝ち取っている。
 (注17)1744?~19年。1781年にマサチューセッツ州最高裁は、彼女の訴えを受け、奴隷制は、その前年に成立した同州憲法違反であると判示し、事実上、同州における奴隷制を廃止した。
 彼女は、文盲だったが、弁護士(後に連邦上院議員)に訴えを提起してもらい・・この弁護士は、彼女と、彼女の所有者のもう一人の奴隷(男性)の連名の形で訴えを提起した・・、勝訴後、敗訴した、彼女達のそれまでの所有者・・やはり弁護士だった。但しエール卒の有力弁護士・・が、引き続き彼女を雇用したいと申し出たのを断り、自分の弁護士の方の家で、住み込み女中及び住み込み家庭教師として、引退するまで働いた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Freeman
 彼女の勝訴は、マサチューセッツ州における奴隷制を廃止する先例となり、18世紀末までには、全北部諸州において奴隷制が廃止されることになる。
 白人たる愛郷者選良達の諸矛盾、というより諸偽善、に焦点を当てることによって、著者は、意図せずして、それと並行して進展していたところの、この、自由に係るより静かな革命の影を薄くさせてしまっている。
⇒非肉体労働のウェートの高い、米北部諸州の産業構造の下では、奴隷制の経済的メリットが余りなかったというだけのことですから、著者がそんなものを麗々しく取り上げていないのは当然でしょう。
 それにしても、前にも同じような書いたことがありますが、かつて奴隷であった米黒人達・・その子孫を含む・・が、自由になっても名前が奪われたままであることには心が痛みます。
 (エリザベス・フリーマンの場合、とりわけ、彼女の姓の「Free」manは哀れを誘います。しかも、それが「woman」ならぬ「man」であることにも。)
 米国において、アメリカ原住民のカジノに相当する、黒人全体が潤うような、事実上の損害賠償措置がとられることを願って止みません。(太田)
 本当のところは、今日、我々が、全員のための自由と平等について語る場合、我々は、愛郷者選良達ではなく、黒人建国者達が意味した形でそれを意味付けているのだ。
 この点は、強調しておく価値がある。」(d)
⇒フリーマンは、連邦憲法ではなく、北部の一つの州の州憲法によって自由を勝ち取ったのであって、その上位法である連邦憲法は、当時、奴隷制を許容していた・・だからこそ、南部諸州では奴隷制が維持できた・・ことこそ、「強調しておく価値がある」、と思うのですが・・。(太田)
 (7)独立後の諸問題
 「若き米国の脅威となった隣人達はアメリカ・インディアン達だけではなかった。
 英領カナダとスペイン領ルイジアナ<(注18)>も、より安い土地、よりよい交易、そして、驚くべきことに、より低い諸税、を様々な形で提供することによって、米国人達の諸忠誠を呼び込もうとした。・・・
 (注18)「7年戦争<の結果、>・・・1763年2月10日に調印されたパリ条約では、フランスの北アメリカからの撤退が決ま<り、>カナダとミシシッピ川の東の領土は<英国>に譲渡され・・・ニューオーリンズとミシシッピ川の西の領土はスペインに渡された。・・・1800年10月1日に<極秘>調印された<第三次>サン・イルデフォンソ条約<(※)>では、パルマ<公>爵領と引き替えにスペインがフランスに西部ルイジアナとニューオーリンズを戻すことになった。・・・ナポレオンは、1803年に<米>国にこの広大なルイジアナの領土を譲渡する決心をし<、>1803年、ルイジアナは8千万フラン(1,500万ドル)で売却された・・・。<米国>の主権は1803年12月20日に確立された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%A0%98%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%8A
 ※「第三次サン・イルデフォンソ条約(・・・The Third Treaty of San Ildefonso)は、フランスの<ナポレオンを首班とする>統領政府と<フランス=ブルボン家の分枝のスペイン=ブルボン家の>スペイン王国の間で締結した条約<で、その>・・・内容は<概略次の通り。>・・・フランスは<、スペイン王カルロス4世の義理の息子の>ルドヴィーコ1世・ディ・ボルボーネを王に仕立てるための領地を用意する。領地の場所はこの条約では決められなかったが、トスカーナとする討議がされた。ルドヴィーコ1世が即位した1か月後、スペインはフランスに74門艦を6隻譲渡する。ルドヴィーコ1世が即位した6か月後、スペインはフランスにルイジアナを返還する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E6%AC%A1%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84
 1801年に新しく創設されたエトルリア王国の国王として、(ナポレオンが征服したパルマ公国(←スペイン=ブルボン家の分枝のブルボン=パルマ家)のフェルディナンド公の息子であり、かつ、その義理の母がフェルディナンド公の妹であったところの、)「ルドヴィーコはパリで戴冠し、同年4月12日に首都とされたフィレンツェに入った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%B31%E4%B8%96_(%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8E%8B)
⇒アメリカ原住民の地であるルイジアナを引き出物的感覚でやりとりしたアナクロな仏・西の姿に対しても、奴隷制とアメリカ原住民迫害の米国に対してと同様の嫌悪感を覚えるのですが・・。(太田)
 
 1780年代央には、米国人達の、諸州からなる緩やかな連邦は、崩壊寸前に至っていたのに対し、インディアン連合<(注19)>は興隆しつつあった。・・・
 (注19)イロコイ連邦(Iroquois Confederacy)、テカムセ連合(Tecumseh’s Confederacy)、西部連合(The Western Confederacy)、等を指していると思われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%82%A4%E9%80%A3%E9%82%A6
https://en.wikipedia.org/wiki/Tecumseh%27s_Confederacy
https://en.wikipedia.org/wiki/Western_Confederacy
 例えばイロコイ連邦だが、実に面白いので、そのウィキペディアの一瞥を勧める。
 英国が、1763年の宣言でやろうとしたところの、西部ではおとなしくしているよう強いる試みの代わりに、米国政府は、結局のところ、原住の人々から<土地を>奪う形で欧米人達の忠誠を獲得しようと試みたのだ。」(A)
(続く)