太田述正コラム#9239(2017.7.26)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その13)>(2017.11.9公開)
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[乙巳の変の背景について]
 この変の日本語ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E5%B7%B3%E3%81%AE%E5%A4%89 前掲
には、表記について、軽皇子首謀者説、半島諸国モデル説、反動クーデター説、皇極王権否定説、の4説が列挙されているところ、最初の説は、軽皇子(孝徳天皇)首謀者説、最後の説は、中大兄皇子(天智天皇)首謀者説であって、権力争いを超えた、変の背景への言及がないので、(この二人のどちらがこの変の首謀者であったかにも興味はあるけれど、)この変の背景については、二番目と三番目の説が対立している形だ。
 半島諸国モデル説は、少数説らしく、基本的に吉田孝<(注30)>の名前だけがあげられている説であり、「蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼし権力集中を図ったのは、高句麗における<泉>蓋蘇文のクーデターを意識しており、乙巳の変は<それに対する反動であって、647年に生起した、>新羅における・・・●<(田偏に比)>曇の内乱<(前出)>鎮圧後の王族中心体制の元での<新>女王推戴と類似していたが故に<、結果論ではあるが、>諸臣に受け入れられやすかったとする」(上掲)。
 (注30)1933~2016年。東大文(国史)卒。中部工業大、山梨大、を経て青山学院大教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%AD%9D
 入江も泉蓋蘇文のクーデタを背景視しているという意味では、一見、半島諸国モデル説である、と言えそうだが、この高句麗でのクーデタに倣った、入鹿によるクーデタに対する反動ではなく、高句麗でのクーデタそのものが、中大兄らに刺激を与えた、としていることから、独自の絶対少数説であると言えよう。
 他方、反動クーデター説は、最近の多数説らしく、典拠として2冊の概説書があげられており、「618年に成立した唐が朝鮮半島に影響力を及ぼし、倭国も唐の脅威にさらされているという危機感を蘇我氏は持っていた。そのため従来の百済一辺倒の外交を改め各国と協調外交を考えていた。それに対し、従来の「百済重視」の外交路線をとる中臣鎌足や中大兄皇子ら保守派が「開明派」の蘇我氏を倒したと言うものである」(上掲)らしい。
 私が唱えたばかりの説は、「倭国も唐の脅威にさらされているという危機感を蘇我氏」のみならず中大兄皇子らも共有していたものの、蘇我氏は、国家体制はそのままで対外政策の転換によってこの脅威に対処しようとしたのに対し、中大兄皇子らは、唐に倣った国家体制の刷新・・大王家への権力集中を含む・・によってこの脅威に対処しようとした、というものであり、この多数説とは異なる新説、ということになる。
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 「<乙巳の変の際の、>三韓からの調使<(注31)>の上奏文が披露されるという設定<は、>かつて馬子が崇峻を殺害したときの場面設定<(注32)>に似ている。・・・
 (注31)実際に、「三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E5%B7%B3%E3%81%AE%E5%A4%89
ことになっているが、「『大織冠伝』には三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている」(上掲)。
 (注32)蘇我馬子は、「東国の調を進めると偽って<崇峻>天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢駒に暗殺をさせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%B3%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
⇒以前から誰も問題視していないのが不思議なのですが、果たして、別々の諸国である「三韓」が、(二国ならまだしも、三国が、しかも、文字通り相互に角突き併せていたこの時期に、更に言えば、大王の即位や葬儀でもないのに、)一緒に揃って大王家に共同の使者を派遣することなどありうるのでしょうか。
 それまでには、敏達天皇六年五月条に、「大別王と小黒吉士とを遣して、百済国に宰とす。王人、命を奉りて、三韓の使と為り、自ら称ひて宰とといふ。」(『日本書紀下』)
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/18/7671200
と、嘘であった事例だけしかなさそうであるというのに・・。
 ですから、私は、『大織冠伝』が記すように、この話もまた嘘だったと思っているのです。
 私は、そんな、眉唾物の儀式に、不審の念を抱くことなく、入鹿が参列したことが、いや、そもそも、(中大兄皇子らに加担していなかったとされる)皇極が事前におかしいと思わなかったようであること、が解せないでいるのですが・・。(太田)
 皇極は蝦夷と入鹿の埋葬とそれに伴う喪の儀を許した。・・・
 皇極は入鹿を逆臣とは認めなかったのだ。」(48~49)
 
(続く)