太田述正コラム#9307(2017.8.29)
<進化論と米北部(その5)/コハンスキ先生のこと>(2017.12.12公開)
 「ダーウィンは、世界の容赦なき改善、すなわち、神の姿に似せて創造された人間が、より神に接近しつつあるという考え(notion)、なる観念(idea)に挑戦した。
 今日において、ダーウィンが引き起こしたと最も一般に理解されているところの、文化的不安は、人間の存在における神の位置であり、また、その逆、に関するものだった。
 我々は、ダーウィンが、20世紀のテネシー州の諸法廷や、21世紀の米国の諸教室にまで暴れ狂いながら流れ込んだところの戦い・・この戦いは、その19世紀における掻き立てられ方と言えば、エミリー・ディキンソン(Emily Dickinson)<(注7)>が、「我々は、ダーウィンが、「贖い主(redeemer)」<(注8)>を捨て去った」、と宣言するに至らしめたものだった・・を誘発したと考えがちだ。
 (注7)1830~86年。「<米国>の詩人。生前は無名であったが、1700篇以上残した作品は世界中で高い評価を受けており、19世紀世界文学史上の天才詩人という名声は今や不動のものとなっている。」殆ど無学歴。生涯独身。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3
 (注8)キリスト教神学においては、イエスについて、しばしばredeemerと言及する。
https://en.wikipedia.org/wiki/Redeemer_(Christianity)
 彼が、少しばかり、それをやったのは確かだ。
 いずれにせよ、著者が証明するように、『種の起源』が、当時、議論を呼んだのは、生物学的諸議論と同じくらい、その神学的諸含意だった。
 この本は穏やかなトーンで書かれている。
(続く)
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        –コハンスキ先生のこと–
 ピアノで、モーツアルト記念音楽院の夏期講習でショルツという大先生にに師事した話や、日本に帰国後、武蔵野音楽大学の市田儀一郎先生に2年近く師事した話は、以前、したことがあります(それぞれ、コラム#5109、コラム#7339)。
 つい先だって、フェイスブック友達のピアニストの西澤安澄さんが、私もかつて演奏する機会があった、モーツアルト記念音楽院の夏期発表会を見に行ったらマクロン仏大統領も来ていた、という話をフェイスブックに書いていて、大変懐かしい思いがしました。
 さて、次回あたりの一人題名のない音楽会で取り上げる予定にしている、エミル・シモン・ムイナルスキ(Emil Młynarsk)のことを調べていたら、「オデッサ音楽院の教師になり、<ヴァイオリニストの>パウル・コハンスキを教えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%AD
という記述に遭遇し、ひょっとして、と思い、今度はこのパウル・コハンスキを調べてみたところ、ピンポーン、「弟は日本に亡命したピアニスト・音楽教師のレオニード・コハンスキ」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD
とあるではありませんか!
 このレオニード・コハンスキ(Leonid Kochanski。1893~1980年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD
こそ、中1~中2にかけて師事した、私の最後のピアノの先生なのです。
 私が、毎日音楽コンクールの中学生のピアノの部に出て予選で落ち、激しく落ち込んでいたら、市田先生が、先生が変われば気分も変わるかも、と、彼の武蔵野音大での同僚のコハンスキ先生を紹介してくれたのです。
 厳しい先生でしたね。
 一度、レッスンの途中で逃げ出して家に帰った記憶があります。
 しかし、市田、コハンスキ両先生の期待に応えることができないまま、私は、その翌年、ピアノを止める決断を下すことになります。
 
 才能がなかったわりには、ザルツブルクのモーツァルト音楽院のショルツ先生、東京の武蔵野音大の市田・コハンスキの両先生、と、随分、私はピアノの先生に恵まれたものです。
 市田先生とのご縁は、ザルツブルクで母親が取り結んでくれたものです(コラム#7339)が、モーツアルト記念音楽院の夏期講習に行くのを勧めてくれた人が、一体誰だったのか、思い出せません。
 名前を忘れてしまった、カイロ時代のピアノの先生(アルメニア人女性)(コラム#2651、2665、4440)の可能性が大ですが、いずれにせよ、講習を受ける手配を実際にしてくれたのは、やはり母親だったはずです。
 父と違って、さほどクラシック音楽愛好家ではなかった母親でしたが、やはり、母は偉大ですね。