太田述正コラム#9353(2017.9.21)
<アングロサクソンと仏教–米国篇(その10)>(2018.1.4公開)
 で、ここにいいニュースがある。
 非自身の経験は、100%かゼロ%かではないという点だ。
 あなたは、それを、可変力ある効果が得られる形で最終的に越えることができるか、いかなることに関しても啓発(edification)を得られないまま永久に達成できないか、の敷居のようにそれを考える必要はないのだ。
 不思議に思えるかもしれないが、あなたは、毎日のかなりささやかな瞑想実践によってだけで、非自身を、ほんの僅かとはいえ、経験することができる。
 それから、時間が進行するにつれて、多分、更にもう少し<経験することができよう>。
 そうして、いつか、あなたが、その経験に係る完全な可変力あるバージョンを得るかもしれないということを誰が否定できようか。
 それに、そうならなかったとしても、重要かつ永続的な進歩がなされうるのであって、その過程で、あなたと人類に、その効用が帰属しうるのだ。・・・
 「確かに、きしるような感覚があり、この感覚は普通不快なもの、と定義される。
 しかし、その感覚は下の方の顎の中にあって、そこには私はいない。
 私がいるのは頭の中だからだ。」
 私は、もはやこの感覚と同定してはいない。
 つまり、私はそれを客観的に見ていたのだ。
 <非自身の経験的なものは、>こういった感じに形容できるのではなかろうか。
 その時空(space of a moment)において、それ<、すなわちきしるような不快な感覚、>は私を捉えることが全くできなくなったのだ。
 <私自身の経験で言えば、>不快な気持ちが、消えたわけではないのに、不快であることが止まる、というのは実におかしなことだった。・・・
 この気持ちに、より接近した結果、この気持ちからの一種の距離、というか、一定程度の脱離(detachment)、を獲得した<、とでも言おうか>。・・・
⇒日本の臨済宗の快川紹喜(かいせんじょうき。1502~82年)和尚の辞世とされる「心頭滅却すれば火も亦た涼し」を思い出し、瞑想の種類こそ違え、同じようなことが、日本や支那の禅宗にはあったのかもと一瞬思ったのですが、「この辞世は『甲乱記』では快川と問答した僧・高山の言葉とされており、同時代文献には見られず近世の編纂物に登場していることから、本来は快川の逸話でなかった可能性が指摘されている」上、「この言葉は、碧巌録による禅の公案であるが、もとは杜荀鶴の詩である「夏日題悟空上人院」の転結句である(原典は「…火も自ずから涼し」)。「心頭、火を滅却すれば、また涼し」の誤読とも言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%AB%E5%B7%9D%E7%B4%B9%E5%96%9C
というのですから、がっくりです。
 それはともかく、人間が訓練によってある程度、(不快な気持ちの最たるものである)痛み(の感覚)を軽減させることができるようになるのは確かなようですね。
http://www.el-aura.com/the-pain20160323/
 瞑想・・実験されているのは痛み以外の事柄に意識を集中させるという方法(上掲)であるところ、それは念的瞑想に似ている・・は、運動や催眠と並んで、その手段として有効な一つであるところ、そんなものが瞑想の大きなメリットだと言われても、そうかねえ、第一、仮に大きなメリットだとしてもそれがどうした、と言いたくなります。(太田)
 ・・・諸実験が示唆するのは、人々は、諸事柄を行った自分達の本当の諸動機をしばしば自覚していないけれど、にもかかわらず、彼らは、自分達のふるまいについての諸説明をひねり出し、本当にこの諸説明を信じてしまう、ということだ。
 これは、我々が自動操縦されていて、覚醒している頭脳が、それが飛行機を飛ばしているとの幻想の下、単なる乗客である、ということを意味しない。
 これらの諸事件に係る解釈に関する諸疑問が投げかけられており、もっと多くの諸事件が行なわれなければならない。
 でも、あなたの覚醒している「自身」があなたのCEOであるとの直感に対して、深刻な疑問が現代心理学によって呈されていることに疑問の余地はない。・・・
(続く)