太田述正コラム#9367(2017.9.28)
<アングロサクソンと仏教–米国篇(その17)>(2018.1.11公開)
 仏教の実践は、かつて、<社会>転覆的でカウンターカルチャー的であると見られていたけれど、今では、資本主義の道具のように見られている。
 それは、自分の洞察力の深化、から、自分の刃(edge)を鋭利にすること、へと変わったわけだ。・・・
⇒著者による説明の途中ですが、私に言わせれば、米国における、戦後の第一次ブーム(小ブーム)は、日本の禅宗継受の試みであったのに対し、現在進行形の第二次ブーム(大ブーム)は、支那の禅宗的なものの継受の試みである、といったところでしょうか。
 後者にどうして「的」が付いているかと言えば、瞑想がサマタ瞑想から念的瞑想にすり変わっているからです。
 さて、南伝仏教では、悟ったのは釈迦だけで、その他の人々は出家して修行を積んでようやく擬似悟り(私の言葉。=阿羅漢果)に到達できるとしています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E4%BB%8F
 戒律を守り、サマタ瞑想を行い、更に念的瞑想を行っても、擬似悟りにまでしか到達できない、というわけです。
 (これに対し、北伝仏教では、悟りを目指して修行を積みつつ、他人にも悟りを目指すよう勧める努力を続ける人は、いつか釈迦と同じ悟りに到達できるとしているところです。(上掲))
 ですから、南伝仏教の論理に従えば、いくら、擬似悟りに到達する最終プロセスである、念的瞑想だけをつまみ食いしても、悟りどころか、擬似悟りにすら到達できない、ということにならざるをえないはずです。
 南伝仏教の論理を信じていない私自身も、直感的にそう思います。
 (なお、南伝仏教で擬似悟りに到達した僧がいたとしても、それがまさに「擬似」である証拠には、南伝仏教の僧で人間主義の実践を行った事跡のある人を聞いたことがありませんし、そもそも、南伝仏教がヒンドゥー教と混淆してからは、擬似悟りを目指すことすら放棄してしまっているのではないか、と私は疑っています。
 このあたりのことで、私の印象論を覆す典拠があればご教示ください。)
 とりあえずはこれくらいにしておきましょう。(太田)
 もちろん、ステレオタイプはステレオタイプでしかない。
 今日の瞑想者達の大部分は、「ウォール街で大儲けをするには瞑想を始めることだ」、というフォードの言葉の引用付きのブルームバーグ・ニュースの見出しの案内に従っているわけではない。
 とはいえ、この10年間のマインドフルネス瞑想への関心の波は功利主義的空気を漂わせていた。
 ゴールドマン・サックスのような諸会社が被雇用者達に無料で瞑想訓練を提供し始め、セールスフォース・ドットコム(salesforce.com)<(注15)>が、そのサンフランシスコの本社ビルの各階に瞑想室を設ける、となれば、仏教形而上学のより高度な賞味が目的(goal)ではない、という方に賭けるべきだろう。
 (注15)「米国カリフォルニア州に本社を置く、顧客関係管理(CRM)ソリューションを中心としたクラウドコンピューティング・サービスの提供企業・・・1999年3月に、マーク・ベニオフにより設立された。・・・CRMの世界マーケットシェアは16.1%で第1位。また、・・・日本国内の営業支援システム(SFA)のマーケットシェアは60.4%を占めている。 クラウドプラットフォーム分野においては・・・日本国内のPaaS市場で第1位。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%A0
 「PaaS(Platform as a Service の略、パースまたはパーズ)・・・では、ソフトウェアを構築および稼動させるための土台となるプラットフォームを、インターネット経由のサービスとして提供する。・・・ 具体的には、インフラ、DBMS、ユーザインタフェースなどのシステム開発手段となるツールや、開発したシステムを運用するための環境をインターネットを通じて「サービス」として提供し、月額使用料などの形で収入を得る事業モデルである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/Platform_as_a_Service
 実際、マインドフルネス瞑想は、しばしば、率直に言って、「マインドフルネスに立脚したストレス軽減」、といったセラピー的言辞によって表装されている。
 この、哲学的なものから実際的なものへの漂流は、二種類の不完全燃焼(blowback)を鼓吹した。
 第一に、ストレス軽減といった諸目的は、極めて明確で、達成可能で、かつ、満足させる(gratifying)、が故に、多くの人々は、瞑想を賛美する歌を歌うが、これが、そうはならない若干の人々を深く苛つかせる。
 著述家にしてビジネスのグルであるアダム・グラント<(前出)>は、「瞑想の福音伝道師達によってストーカー行為をされる」ことに苦情を申し立ててきた。
 なお一層、彼を悩ませるのは、彼らがくどくど述べ立てる諸遺業(feats)は極めて平凡なものばかりだからだ。
 「この<マインドフルネス瞑想の>実践による効用は、ことごとく、他の諸活動によっても得られる」、とグラントは言う。
 例えば、運動は、ストレスの角を取ってくれる。
(続く)