太田述正コラム#9395(2017.10.12)
<アングロサクソンと仏教–英国篇(その1)>(2018.1.25公開)
1 始めに
 では、引き続き、ステファン・バッチェラー(Stephen Batchelor)の『仏教の後に(After Buddhism)』(2015年)のさわりを諸書評をもとにご紹介し、私のコメントを付します。
D:https://www.newyorker.com/magazine/2017/08/07/what-meditation-can-do-for-us-and-what-it-cant 前出(於米国篇)
α:https://www.lionsroar.com/review-stephen-batchelors-after-buddhism/
(10月9日アクセス。以下同じ)
β:http://secularbuddhism.org/2015/10/01/stephen-batchelors-after-buddism-a-review/https://www.vanityfair.com/culture/2015/12/stephen-batchelor-on-buddhism-in-a-secular-age
γ:https://www.publishersweekly.com/978-0-300-20518-3
 なお、バッチェラー(1953年~)は、スコットランドで生まれ、3歳の時に両親と共にカナダに渡るも、すぐに両親が離婚し、母親と共にイギリスに「戻り」、高卒後、海外旅行に出、インドでチベット仏教に出会い、修行し得度の後、別途、念的瞑想の訓練を受け、更に、韓国で禅の修行をし、そこで、同僚のフランス人女性と恋に落ち、彼女と共に還俗して結婚、その後は、イギリスで仏教の普及活動に従事してきた、という人物です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Stephen_Batchelor_(author)
 なお、彼の奥さんのマルティーヌ(Martine Batchelor。1953年~)は、フランス生まれで、韓国での禅の修行、得度だけを経験しています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Martine_Batchelor
2 アングロサクソンと仏教–英国篇
 「<米国篇で紹介した本の>著者と、現代の仏教についての他の最近の諸本は、古い形而上学と現代の認知科学との折り合いを付けようという目的を<おしなべて>共有はしているけれど、自身の諸幻想の外に存する頭、という教条的な(doctrinaire)見方を彼ほどしてはいない。
 ステファン・バッチェラー<(英国篇で紹介する本の著者)>のこの本(エール大出版会)は、この何年かの間における、色んな意味で、仏教に関する、最も知的刺激に富んでいる本であり、以下の問題に対して哲学的解釈(take)を提供している。
 「自身は、体と頭の孤高の独立した「統治者」ではないかもしれないが、「非人格的な物理的、心理的(mental)諸力の幻想的産物でもない」、と彼は記す。
 頭の諸部品(modules)に関しては、「釈迦は、人が何であるか、ということよりも、人は何ができるか、に関心があった。彼が提起(propose)した任務は、生そのものの自然条件として受容されるべきことは何かということ(経験の展開)と、それに対して何を手放すべきかということ(反応性)、を分別することが必要である、というものだった。」(D)
⇒このくだりを読んだ時点では、「仏教に関する、最も知的刺激に富んでいる本」という点に関心を抱き、その本がエール大出版会という権威ある出版元から出版されていること、また、そもそも、ニューヨーカーという米国の高級誌の書評中で、このように、好意的に言及されていること、も預かって、この本をシリーズで取り上げようと決意しつつも、この書評において、それに引き続く部分が、訳が分からず、さほど大きな期待を抱くには至っていませんでした。(太田)
 「著者は、若干の仏教徒達からは異端と見られており、若干からは、仏教徒ではないとさえ考えられている。
 他の批判者達は、彼の著作に敬意は払いつつも、彼が方向性を誤っていると考えているが、にもかかわらず、多くの人々が、彼を、人を鼓吹させる教師であり予見力のある人物(visionary)である、と高く評価している。」(β)
⇒しかし、その他の諸書評を読んでみると、まさに、この第二の書評子が言う通りであり、私にとってはうれしい驚きでした。
 著者の結論に至る思考過程はともかくとして、結論そのものは、概ね、私の最新の釈迦の考えについての見解と合致していたからです。(太田)
(続く)