太田述正コラム#9871(2018.6.7)
<『西郷南州遺訓 附 手抄言志録遺文』を読む(その8)>(2018.9.21公開)

 六 聖賢・士大夫あるいは君子

三〇条:命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。<(注14)>

 (注14)これは、「江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会」したことで有名な、山岡鉄舟(1836~88年)について語ったものとされている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F
が、その典拠は明らかではない。

 此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。
 去れども、个様(かよう)の人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるるに付き、孟子に、「天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之れに由り、志を得ざれば独り其の道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」<(注15)>と云ひしは、今仰せられし如きの人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは彼の気象は出ぬ也。

 (注15)『孟子』滕文公下。
http://ike-ike.sakura.ne.jp/softvoice/cgi/kokoronihibikukotoba/index.php/view/1

⇒上出の山岡鉄舟が、西郷亡き後、西郷について、こう言っています。
 「世人は西郷が先に忠にして、後に賊となりしを怪しむものがあるけれども、全体西郷は邪悪なる男にあらず。あまりに正直過ぎて物を信ずる性質なりしため、ついに賊名を帯びるに至ったのは、遺憾至極である。もし彼をして少しく私智に富みたる人ならしめたならば、かのごとき始末には至らなかったであろう。かかる例は古人にもいくらもある事である。ゆえにその跡方だけにつき、その人を論評するときには、大変なる相違を生ずるものである」
http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/08/17/070000
 私は、全体についてはともかくとして、「正直過ぎる」という箇所だけはそのまま拝借することにし、「命ち・・・いらぬ人は・・・もの也」に言う「人」とは、山岡等、他人のことではなく、自分自身を形容し、自画自賛した、と解釈するとともに、そんな西郷が維新という「国家の大業は成し得られ」たように見えたのは、彼のメンターであった島津斉彬が、彼に、いわば、口移しで伝えた戦略を、西郷を中心とする薩摩藩の同志たる藩士達が忠実に実行しただけであって、西郷自身の功績などでは全くなかった(やはり、今度のオフ会「講演」参照)、という解釈なのですが、こんな理解に接したら、世の西郷ファンは、さぞや激怒することでしょうね。(太田)

三一条:道を行ふ者は、天下挙て毀(そし)るも足らざるとせず、天下挙て誉るも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也。
 其の工夫は、韓文公が伯夷<(注16)>の頌<(注17)>を熟読して会得せよ。

 (注16)儒教では聖人とされるところの、伯夷(はくい)とその弟の叔斉(しゅくせい)の事績(伝説?)については、下掲参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E5%A4%B7%E3%83%BB%E5%8F%94%E6%96%89
 (注17)「唐宋八家文 韓愈 伯夷頌」
https://blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/e/0ed1e314881cbfbd839da117921ade60

⇒父親の遺言に背いて王位を継がなかった叔斉も、その後、君主たる殷の紂王を自分の父の文王が死んで間もない時点で討とうとした周の武王を諌めたところの、伯夷と叔斉の2人も、前者は父に逆らった点で、また、後者は、放伐を、しかも、それを最適な時に行うことを、否定した点で、どちらも、儒教倫理に照らしても、間違ったことをした、というのが私の見解ですが、韓愈の伯夷頌を読むと、彼は、武王も聖人としつつ、伯夷も聖人とすべく、四苦八苦しているように見え、苦笑させられます。
 西郷は、愚直で頑固な伯夷と叔斉の兄弟、と、自分、とを重ね合わせているのでしょうが、西郷に、韓愈の伯夷頌を読めと言われて読んだ人々の困った顔が浮かぶようです。(太田)

三二条:道に志す者は、偉業を貴ばぬもの也。
 司馬温公は閨中(けいちゆう)にて語りし言<(注18)>も、人に対して言ふべからざる事無しと申されたり。

 (注18)調べがつかなかった。
 なお、司馬温公とは、北宋の司馬光(1019~86年)のことであり、歴史書たる「『資治通鑑』の編者として著名<で、>新法・旧法の争いの旧法派の領袖として王安石と論争した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E5%85%89
人物だ。

 独を慎むの学推(おし)て知る可し。
 人の意表に出て一時の快適を好むは、未熟の事なり、戒む可し。

三三条:平日道を蹈<(ふ)>まざる人は、事に臨みて狼狽し、処分の出来ぬもの也。
 譬へば近隣に出火有らんに、平生処分有る者は動揺せずして、取仕抺も能く出来るなり。
 平日処分無き者は、唯狼狽して、なかなか取仕抺どころには之れ無きぞ。
 夫れも同じにて、平生道を蹈み居る者に非れば、事に臨みて策は出来ぬもの也。
 予先年出陣の日、兵士に向ひ、我が備への整不整を、唯味方の目を以て見ず、敵の心に成りて一つ衝て見よ、夫れは第一の備ぞと申せしとぞ。

三四条:作略は平日致さぬものぞ。
 作略を以てやりたる事は、其の跡を見れば善からざること判然にして、必ず悔い有る也 唯戦に臨みて作略無くばあるべからず。
 併し平日作略を用れば、戦に臨みて作略は出来ぬものぞ。
 孔明は平日作略を致さぬゆゑ、あの通り奇計を行はれたる<(注19)>ぞ。

 (注19)「孔明<について、>・・・『三国志』の撰者の陳寿<は、>・・・「毎年のように軍隊を動かしたのに(魏への北伐が)あまり成功しなかったのは、応変の将略(臨機応変な軍略)が得意ではなかったからだろうか」と・・・書いて<いる。>・・・
 また、『三国志』に収録されている「諸葛氏集目録」で陳寿らは「諸葛亮は軍隊の統治には優れていたが、奇策はそれほど得意でなかった。・・・」と評している。
 諸葛亮が奇策を用いなかったことについては、「古来より兵を出して奇計を使わず危険を冒さず成功した者などいない。諸葛孔明の用兵は奇計を使えなかった所に欠点がある。・・・」(王志堅『読史商語』)など批判する意見もある一方で<、>「蜀がもともと弱国で危ういことを知っていたから、慎重堅持して国を鎮めたのだ」(傅玄『傅子』)<、>「主君が暗愚で敵国が強大であるので(魏を一気に滅ぼす)計画を変更して蜀を保持しようとしたまでのことだ」(王夫之『読通鑑論』)<、>「諸葛公はリスクが大きい計略だから用いなかったのではない。大義を標榜した出兵だったから策謀や詭計を用いなかったのだ」(洪邁『容斎随筆』)<、>など様々に擁護する意見<がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%91%9B%E4%BA%AE

⇒「注19」から明らかなように、孔明は、「平日」どころか、「戦」においてさえ、応変の将略≒奇策≒計略≒策謀≒詭計≒奇計、を、用いなかった、ないしは、用いるのが上手ではなかった、というのが、同時代以降の支那の識者達の共通の評価のようですから、西郷の、『三国志』の読み込み方が不足している感が否めません。(太田)

 予嘗て東京を引きし時、弟へ向ひ、是迄少しも作略をやりたる事有らぬゆゑ、跡は聊か濁るまじ、夫れ丈(だ)けは見れと申せしとぞ。

⇒江戸テロは、西郷が「平日」(平時)にやってのけた「作略」であるというのに、よくもまあ、こんな言葉を吐けたものです。
 勘ぐれば、あれは、実は大久保利通がやらせたことだった、と示唆するのが目的での言葉であったのかもしれませんね。
 それにしても、西郷も、たまには、日本人がらみの史実を援用してもよかろうに、こんなところでも「孔明」なのですから、何をかいわんや、です。(太田)

三五条:人を籠絡して陰に事を謀る者は、好し其の事を成し得るとも、慧眼より之れを見れば、醜状著るしきぞ。
 人に推すに公平至誠を以てせよ。公平ならざれば英雄の心は決して攬<(と)>られぬもの也。

(続く)