太田述正コラム#12132(2021.7.10)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その14)>(2021.10.2公開)

 「・・・1591<年>、秀吉は関白の座を甥の秀次に譲り太閤となった。
 内政から自由になって朝鮮出兵の指揮に専念するための前提とみることができよう。

⇒「<1591>年の1月22日に秀長が、8月5日には秀吉の嫡男・鶴松が相次いで死去した。通説ではこの年の11月に秀次は秀吉の養嗣子となったとされるが、養子となった時期についても、従来より諸説あって判然としておらず、それ以前に養子とされていたという説もある。しかしこの頃に秀吉は関白職を辞して、唐入り(征明遠征)に専心しようと思い立ち日本の統治を秀次に任せると言い出しており、後継者にすることが決まったことは、ほぼ確実のようである。・・・12月28日に、秀次は関白に就任して、同時に豊臣氏の氏長者となった。・・・
 1593年・・・8月3日、大坂城二の丸で淀殿が秀頼(拾)を産む・・・
 文禄の役では『豊太閤三国処置太早計』によると、秀次は<1593>年にも出陣予定であったが、秀吉の渡海延期の後、・・・病気もあって立ち消えになっていた。外交僧の景轍玄蘇が記した黒田如水墓碑文(崇福寺)によると、如水は博陸(=関白)に太閤の代わりに朝鮮に出陣して渡海するように諫めて、もしそうしなければ地位を失うだろうと予言したが、秀次は聞き入れなかったそうである。『続本朝通鑑』にも、如水が名護屋城で朝鮮の陣を指揮している太閤と関白が替わるべきであると諭し、京坂に帰休させることで孝を尽くさずに、関白自身が安楽としていれば恩を忘れた所業というべきで、天下は帰服しないと諫言したが、秀次は聞かずに日夜淫放して一の台の方ら美妾と遊戯に耽ったと、同様の話が書かれている。翌年正月16日付の吉川広家宛ての書状にも、「来年関白殿有出馬」の文字があるが、秀次の出陣は期待されつつも実現していなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
 上↑の引用文には、一、秀吉が秀次を養嗣子にした後、自分の後継の関白に就けた、二、実子の秀頼(拾)が生まれた、三、秀次は文禄の役に出陣しなかった、という三つの話が出てきますが、私は、一、であったからこそ、秀次は止むなく、一層強固に三というスタンスを採ったのだが、にもかかわらずそれに怒った秀吉によって誅殺された、と、考えています。
 そのココロの詳細については、次回東京オフ会「講演」原稿に譲ります。
 それにしても、秀次は、「相応の力量はあり、文武両道の人物であった」ところ、そんな甥(実姉で後に日蓮宗の日秀となる智の子)であって当然日蓮主義者であったと目される秀次・・菩提寺になったのは京の日蓮宗善正寺・・を、秀吉は、自分の都合で、まず宮部継潤、次いで、三好康長、そして最終的には自分自身、の、養子へとさんざん使い回した挙句、そんな目に遭わせた、というわけです。(事実関係は上掲に拠る。)(太田)

 ・・・<1592>年・・・から<、>秀吉が死去する・・・1598<年、>までは、重苦しい朝鮮出兵、いわゆる文禄・慶長の役の時代である。
 豊臣政権の崩壊を決定づけたのは、秀次とその一類を虐殺した<、1595年の>いわゆる秀次事件である。
 ここでは、この事件を単なる一門粛清事件にとどまらず、仕掛けた側の石田三成ら秀吉側近グループによる豊臣一門大名の除去をめざしたクーデター、すなわち「文禄四年政変」ととらえることにしたい。」(247~248)

⇒私は、乙巳の変頃から明治維新頃までの日本史を、常に、藤原氏・・後半においてはそのうちの近衛家・・を補助線として眺めるよう心掛けているところ、そもそも、原因について諸説乱れ飛ぶ秀次誅殺を、その4年前の、やはり原因について諸説乱れ飛ぶ千利休切腹
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91
と関連させて捉えていて、藤田によるこのような捉え方はしていませんし、そもそも、秀次誅殺が豊臣政権の崩壊を決定づけたとも考えていません。
 秀吉が、秀頼が成人になるまで生きていたならば、秀頼が継承しても豊臣政権は崩壊することなく続いた可能性が大だと見ているからです。
 秀頼が自害したのは21歳の時ですが、28歳で亡くなった秀次
https://kotobank.jp/word/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1-19045
とは違って、秀頼には、体格が立派だったらしいことはさておき、秀次のような、文武面での活躍的な挿話が皆無である上、大阪冬の陣の時も夏の陣の時も陣頭指揮を執った形跡がなく、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC
彼がさしたる器であったとは思えませんが、秀頼が成人になる頃までには唐入りだってある程度の成果を挙げるに至っていたはずであり、広大な豊臣「帝国」を支えるところの、石田三成等が中心となった官僚制が成熟し、秀頼を支える態勢が構築されるに至っていただろうからです。
 (もとより、唐入りの首尾がそうならなかった可能性もゼロではないけれど、そんな場合は、豊臣氏だけではなく、日本の、天皇以下の朝廷そのもの、も危殆に瀕するに至っていたのではないでしょうか。)(太田)

(続く)