太田述正コラム#14740(2025.2.2)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その20)>(2025.4.30公開)
「・・・朝鮮出兵には多くの兵粮・武器・弾薬が必要であった。
秀吉は博多・名護屋で高い米価を設定して、その地に米が集まるようにした。・・・
<また、>全国に蔵入地を設定し、直轄の鉱山・都市と有機的に結んで貿易に参入したばかりでなく、国内の物流を全国的な規模に拡大させようとした。
そのために物流の拠点的な港湾都市の商人を積極的に登用した。
その一人が若狭小浜の組屋源四郎<(注39)>である。・・・
(注39)「組屋家は浅野長政の若狭領知の時代、既に門閥的町人となっている。文禄元年(1592)秀吉の朝鮮出撃に先立ち、長政の命を受け、兵糧の米や大豆を九州名護屋へ輸送する業務に携った。・・・また、豊臣恩顧の諸大名に当時の珍重品ルソン壺類を売捌いたり、津軽で徴収した大量の豊臣氏上納米を南部や小浜へ運んだ事実が窺われる。」
https://www1.city.obama.fukui.jp/obm/rekisi/sekai_isan/Japanese/data/246.htm
⇒「文禄四年(一五九五)、小浜の組屋源四郎・・・の膨大な利潤を豊臣政権が認めたのは、全国統一による国内流通の急速な拡大にその輸送手段としての船舶の供給が追い付かず、その確保のためには豪商たちに頼らざるをえなかったことが最も大きな要因である。」
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-03-03-02.htm
ということからも伺えるように、秀吉の朝鮮出兵が、膨大な軍需を惹起した結果として、自ずから大商人達が大活躍するようになるとともに、国内の物流が全国的な規模に拡大した、ということでしょう。
ここもそうですが、とにかく、池上は、秀吉にとって、単に手段に過ぎなかったにもかかわらず、その手段が、目的のために必要不可欠な重要なものであったことによって、結果としてもたらしたこと、についてまで秀吉の目的視する、という倒錯を起こしてしまっています。(太田)
秀吉の専制的・利己的で傲慢にみえる流通政策の数々は、流通の全国的な展開を促し、貿易を活発にするという重商(主義的)政策であったように思われる。
京都の金工後藤特乗(とくじょう)に命じて天正大判を造らせ、大坂の大黒常是(じょうぜ)に極印銀を造らせたのも、その一環であり、かつ中国の貨幣圏からの脱却を明確に志向した動きでもあったといえよう。・・・」(262)
⇒重商主義(mercantilism)とは、短く定義すれば、「貿易などを通じて外貨準備などを蓄積することにより、貴金属や貨幣などの国富を増やすことを目指す経済思想や経済政策」であり、長く定義すれば、「16世紀から18世紀の原始工業化時代のヨーロッパ地域で支配的な考えであ<り、>特に絶対君主制を標榜する国家では、常備軍や官僚制度などの絶対主義体制を維持、増強するため国富の増大が必要となり、重商主義を基とした経済への介入政策が取られた<ところ、>具体的な政策としては、製品の貿易収支を通じた外貨準備の蓄積や、工業製品に対する高関税がある。」です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E5%95%86%E4%B8%BB%E7%BE%A9
池上は、長い定義の方を無視して、短い定義の意味だけのものとして「重商主義」という言葉を使ってしまっている、と、私は見ているわけです。
(なお、私に言わせれば、上出の長い定義中の「常備軍や官僚制度などの絶対主義体制<の>維持、増強」は、「軍事力の維持、増強」で必要十分です。)(太田)
(続く)