太田述正コラム#14744(2025.2.4)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その22)>(2025.5.2公開)
「<天正>14<(1586)>年に大坂に上った大友宗麟に、秀吉の弟秀長は「内々の儀は宗益(そうえき)(利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と語ったという。・・・
その利休が秀吉から謹慎を命じられ堺へ下ったのは19<(1591)>年2月13日のことである。
26日には京都に護送されて・・・自宅に移され、28日切腹した。・・・
秀吉は利休の首を一条戻橋で獄門にかけ、罪状を記した高札を立てた。・・・
<千利休が>なぜ突然に自刃に追いこまれたのか、真相はわからない。
同年正月に「公儀」を担当していた秀長が病死してその支えを得られなくなったこと、秀長がいてこそバランスがとれていた利休の役割が妥当性を失ったことも大きいであろう。
しかしなんといっても天下統一が実現したことが重要だ。
彼の得意とした「内々の儀」による政治から、統一の制度整備へと統一政権の課題が実現したことが重要だ。・・・
石田三成に代表される吏僚派に主導権を移すことが政権にとって必要となっていたのだ。
商人から武家へ政治・経済の主導権を奪い取る動きがあらわになってくるように思う。
その路線強力に進めたのは三成であろう。
⇒だからといって、そんなことで利休を殺すまでの必要性は、秀吉にも三成にもなかったはずです。
利休殺害の理由は、同年における秀長の死にではなく、翌1592年に予定されていた朝鮮出兵(文禄の役)にあるのであって、(豊臣秀次のケースもそうですが、)利休が朝鮮出兵に反対であったからだ、というのが私見である(コラム#省略)ことはご承知の通りです。(太田)
小西行長が朝鮮に渡海したあと秀吉が打った手もその一つではないだろうか。
すなわち側近の寺沢正成<(注42)>(まさなり)(広高)が九州の大名の取次、博多の支配、立佐没後の室津・小豆島代官などに登用され、九州と瀬戸内海の物流の掌握に向かうようになる。
(注42)1563~1633年。「尾張国の生まれ。豊臣秀吉に仕えて肥前国唐津の6万石を拝領すると、天正17年(1589年)に従五位下志摩守に叙任される。
文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵に際して軍功を挙げたことから、慶長3年(1598年)に筑前国怡土郡の2万石を加増されている。
文禄3年(1594年)から翌年10月までの間に受洗してキリシタンになり、その後、再び迫害者に転じている。・・・
秀吉死後は徳川家康に近づき、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。戦後に関ヶ原の戦功によって天草4万石を加増され、計12万石を治めた。
豊臣政権の公儀権力が徳川に移ってからは「秀吉の取次ぎ」から「家康の取次ぎ」として公的地位を新たにした。九州の諸大名と繋がりがあり、長崎代官として国際外交に携わっていたため、関東での海外貿易を模索していた家康にとって貴重な人材であったとされている。関ヶ原の戦い以降も実権を握った家康と西軍だった島津氏との戦後処理の交渉を仲介するなどしたが、時と共に取次の役割は家康の家臣に委ねられた結果、権力を失った。
唐津城を築城し、天草の飛地を含めると12万3千石を領する大名となり、天草領を治めるために富岡城を築くなどし、城代・代官を派遣して統治した。唐津や天草の土着豪族を弾圧したが、その結果、唐津は安定し繁栄した。・・・
慶長6年(1601年) 、関ヶ原の戦いの戦功報償として肥後天草を加増されたおり、広高は天草の石高を合計約42,000石と算定したが、これは天草の実状を無視しており、実態の倍という過大な値だった。このため以後の徴税が過酷となり、広高の没後、嫡子・寺沢堅高の代に島原の乱(1637年 – 1638年)が勃発する原因の一つとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E6%B2%A2%E5%BA%83%E9%AB%98
また鍋島直茂に代わって長崎奉行にも任じられ、ポルトガル人・イスパニア人との交渉、貿易をも管轄する。
⇒「注42」を踏まえれば、寺沢正成は、絵に描いたようなオポチュニストですね。(太田)
それは秀吉の新たな政略であろう。
それまでの、立佐・行長父子の流通・商人ネットワークとキリシタンネットワークに大きく依存した体制を脱却して、近親や吏僚直臣による支配体制を構築しようとのねらいから出たものであろう。
巨大化した政商大名の力の削減策は、利休追い落としと軌を一にするものではないだろうか。
利休の悲劇的な死は、彼自身の教養や能力の高さ、道を極める心の強さとともに、豪商たちが共有した自主自尊の心がもたらしたものといえるかもしれない。」(285~287)
⇒繰り返しになりますが、そんなことだけでは利休を殺すまでの理由たりえません。(太田)
(続く)