太田述正コラム#14748(2025.2.6)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その24)>(2025.5.4公開)
「朝鮮出陣中の毛利輝元宛の朱印状で秀吉は、自分は小臣であったが、「或いは五百騎、或いは千騎、小をもって大を撃ち、日本国中を攻め伏せ、鋭士勇将ことごとくみな命に従」った、だから「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧する」がごときものだ、「ただに大明のみにあらず、いわんや天竺・南蛮かくのごとくあるべし」という。
また同じ論法で、「日本弓箭きびしき国にてさへ、五百・千にてかくのごとく残らず仰せつけられ候。みなどもは多勢にて大明の長袖国へ先駆けつかまつり候あいだ」早く征服せよと督励した。・・・
驚くべき単純な論理である。
朝鮮出兵は無謀の暴挙にみえるし、明征服などできるはずがないと我々には思われる。
当時の人だってそう思っていた。
それなのになぜ秀吉はそんなことを計画したり考えたりしたのか、なぜそこへつき進んでいったのか、大きな謎である。
⇒1598年の慶長の役のわずか9年後の1607年、「ヌルハチは<、>諸大臣からゲンギエン・ハン(genggiyen han英明汗)として推戴され<、>国名を、数世紀前に北部中国を支配した女真の王朝である金の後身を意識してアマガ・アイシン・グルン(anaga aisin gurun、後金国)とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B8%85%E4%BA%A4%E6%9B%BF
と、(金が支那本体の河北に王朝を樹立し宋(南宋)を朝貢国にした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B9%E8%88%88%E3%81%AE%E5%92%8C%E8%AD%B0
史実に照らし、)事実上の対明宣戦布告を行っていますが、これが「無謀な暴挙」でも「明征服などできるはずがない」ことでもなかった証拠に、明はずるずる後退を続け、その4分の3世紀後の1681年・・台湾征服までなら1683年・・に明の完全征服を成し遂げます。
(なお、朝鮮に関しては、国号を後金から清に改めた1636年に侵入し、翌1637年に制圧し、服属させています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%99%E5%AD%90%E3%81%AE%E4%B9%B1 )
しかも、1607年時点での(後の)後金は、1598年時点の日本と比較すれば、圧倒的なに小さな「国」力しかありませんでした。(典拠省略)
従って、池上らが自問すべきは、むしろ、「なぜ豊臣政権による明征服は緒についた時点で挫折するという意外な結果に終わってしまったのか」なのであり、その答えは、ここではあくまでも例えばですが、(明征服を期していた)秀吉の死によって豊臣政権が事実上(明征服に全く関心がなかった)徳川政権に変わってしまったから、でなければならないのです。(太田)
そこでその理由を考えると、国内に問題をかかえていたからそうせざるをえなかったという視点から理由さぐることになる。
たとえば朝尾直弘氏は統一戦の過程で秀吉はたびたび「唐国までも」を口にしては以下の大名を統制し、惣無事令を強制してきたとし、服属した大名らの不満のはけ口として「唐国」への領土欲をもたせたことが背景にあると指摘している。
また小牧・長久手の戦いでの敗戦によるコンプレックス、外の世界に対する知識不足などの要因もあげている。
藤木久志はかつて、全国統一による中央集権の強化と、大名権(地方分権)の強化という矛盾の克服として大陸侵略を位置づけた。
それは、フロイスが出兵の目的を秀吉に反旗をひるがえす可能性のある者を朝鮮に送るためだといったことに通じる。
しかし藤木氏は近年、全国平定で国内の戦場が閉鎖されたため、掠奪を生きる手段としてきた雑兵たちの戦場のエネルギーを強引に朝鮮の線上に放出した。
それによって国内の平和が安定したと、出兵を位置づけている。
以上のような見方は、結局のところ国内統一の過程と結果に問題があったから、その解決のために出兵は避けられなかった、あるいは必然だという考えである。・・・
⇒ですから朝尾説や藤木説なんぞは、およそありえない暴論・・愚論? 笑論?・・である、と、断定していいでしょう。(太田)
しかしすでに天正13年から大陸侵略を唱えていることを考えると、国内問題の打開策という面以上に、まずは対外関係そのものを視野において構想されたのではなかったかと思える。・・・
私は・・・秀吉の政策を重商(主義的)政策ととらえた。
これもまた石高制に基づく知行制の編成と同程度に重視すべきだと考える。
両方が秀吉にとっては統一政権たりうるための基盤であった。」(296~297)
⇒池上が擦り切れたレコードをまたもやかけていますね。(太田)
(続く)