太田述正コラム#14790(2025.2.27)
<橋爪大三郎・峯村健司『あぶない中国共産党』を読む(その15)>(2025.5.25公開)


[後発劣位論]

 「・・・楊小凱によれば、・・・制度革新を行うことは従来の社会に対する変革を意味し、大規模な利害調整が必要になるため、常に大きな苦痛と高いリスクが伴う。従って、技術模倣の余地が大きいほど、制度改革が速まるどころか、むしろ改革が遅れてしまう恐れすらある。しかし、制度革新の代わりに技術ばかりを模倣することは、短期的には効果的であっても、長期的に見ると、コストがきわめて高く、最終的には失敗してしまうことになる。
 日本の明治維新とほぼ同時期に行われた清朝の「洋務運動」が対照的な結果をもたらしたことは一つの好例である。日本政府は真剣に資本主義制度を模倣した。日本政府は初期には企業の本質を知らず、少数の「模範工場」を作ったが、それ以外は基本的に国営企業を作らなかった。しかも、その後まもなく「模範工場」を売却し、国営企業を一切作らなかった。そして、政治制度も西側の模倣をし、天皇制を維持しながらも、政党の自由や議会政治を行った。
 これに対して、「洋務運動」に挑んだ清朝は、基本的に政治制度を変えないという条件の中で、国営制(政府が経営)、合資企業(政府と民間の合弁)、請負制(政府が監督し、民間が経営)を通じて、技術の模倣だけを頼りに、工業化の達成を図っていた。それまでの中国経済と比較すれば、「洋務運動」はそれなりの経済効果を上げたが、政府の都合を優先するあまり国民の利益を犠牲にしてしまう「国家の機会主義」を制度化させ、政府と民間との利益の奪い合いを招いた。つまり政府はゲームのルールの制定者でありながら、ゲームに直接に参加し、しかも裁判まで担当していたのである。そのため、民間経済の発展が妨げられることになった。さらに、「洋務運動」の中で、政府は一貫して国営企業の主導的な地位を維持し、資源に対する独占を試みたため、多くの民営企業は国営企業に並ぶほどの競争力を持たなくなっていた。
 今日、政府によって企業を興すという制度が全く役に立たないことは一目瞭然である。

⇒フォルクスワーゲンはヒトラーによって設立された、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3
という一例だけでも、こんな命題が成り立ちえないことは明白だろう。(太田)

 しかし、80年代以降の中国では、国営制、合資企業、請負制の下で、香港や台湾のように、労働集約輸出型から新しい工業化への転換を行い、さらに西側の新しい技術を模倣することで、工業化を実現させるという政策が成功を収めた。これは「制度革新」の成果であると多くの人が指摘している。しかし、このような短期間の成功は、同時に「後発者に対する呪い」を意味するかもしれないのである。

⇒制度革新ではなかったのか、それとも制度革新だったが後発者に対する呪いが成就してしまったのか、一体どちらなのか今一つ判然としない。(太田)

 制度革新の代わりに、技術模倣を採用することは長期的にみれば、後に非常に高いコストを支払うことを意味するものである。
 80年代の中国電気製品の発展は基本的に国有企業(当時は国営企業と呼ばれていた)の主導の下で行われた。この発展のプロセスは制度改革の代わりに技術改革を行うという典型的なプロセスを踏襲していた。プラント輸入そのものは技術模倣であるし、私有化を採用しないことも、基本的に制度改革の代わりに技術改革を採用する方策そのものである。政府の銀行、保険、自動車製造や通信などの業界における独占や、制度改革の代わりに新しい技術や資本主義的な管理方法を選択したことも、中国の後発性の劣位に当る。このような後発性の劣位がもたらす最大の弊害は決して国有企業の低効率ではなく、むしろ「国家の機会主義」を制度化し、政府がルールの制定者でありながら、同時にプレイヤーともなることにある。このような制度の下では、国有企業の効率が高ければ高いほど、長期の経済発展に不利である。

⇒「中国政府は2001年のWTO(世界貿易機関)加盟や2013年の第18期三中全会に際して中国経済の市場経済化、規制緩和による自由競争の促進を目指すと説明してきたが、実際にはほとんど進展が見られていない<といっ>た批判を日本、米国、欧州諸国でよく耳にするが、その見方には賛成できない。」
https://cigs.canon/article/20200924_5367.html
と、キャノングローバル戦略研究所瀬口清之研究主幹は2020年9月の論稿で主張しているが、これは具体的なデータ群に基づく指摘であり、楊小凱の予言的指摘は誤りであることが既に検証されている、と言ってよかろう。(太田)

(続く)