太田述正コラム#14800(2025.3.4)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その2)>(2025.5.30公開)

 「岩井英一は潘漢年から国民党軍に関する軍事情報をもらって、その見返りに高額の情報提供料を支払っている。
 最も驚くべきは、潘漢年が毛沢東の指示により、岩井英一に「中共軍と日本軍の間の停戦」を申し込んでいたことだ。・・・
 毛沢東は1936年に西安事件・・・を起こして蒋介石を騙し、国民党軍が中共軍を叩けないようにしておいてから、「合作」を理由に国民党政府の禄を食み、軍服や武器を国民党政府から支給されながら、国民党軍の軍事情報を日本側諜報機関に売っていた。
 中華民族を売り、人民を裏切っていたのである。・・・
 毛沢東の密令により、潘漢年が接触したのは日本の外務省系列だけではない。
 当時の陸軍参謀<本部>にいた「影佐禎明<(コラム#10273)>大佐(のちに中将)とも密会し、汪兆銘・・・傀儡政権の特務機関「76号」とも内通している。
 すべて「中共軍との和議」を交渉するためだ。・・・
 潘漢年ら<は>(情報提供料として)岩井公館から月に1回2000香港元(当時の警察官の約5年間分の給料に相当)をもらっていた<。>・・・
 <そもそも、>日本軍の情報入手のためにのみ潘漢年と袁殊<(コラム#10273)>がスパイ活動をしていたというのなら、毛沢東は何も潘漢年らを「知り過ぎていた男」として投獄し、終身刑にする必要はなかったはずだ。
 毛沢東の戦略はあくまでも、天下を取るために政敵である蒋介石が率いる国民党軍を弱体化させることにあった。
 そのためには日本軍とだろうと、汪兆銘傀儡政権とだろうと、どことでも手を結んだということである。」(12~13、15)

⇒岩井英一をヘッドとする岩井公館の設立は1938年4月です
https://baike.baidu.com/item/%E5%B2%A9%E4%BA%95%E5%85%AC%E9%A6%86/7424350
が、影佐禎昭(注1)というのは、「1937年陸軍参謀本部第7課(支那課長)<に補職され>、大佐<に>昇進<していたが、>同年11月、日中戦争が泥沼化の様相を呈すると、参謀本部第2部(情報部)では対支特務工作専従の部署の必要性に迫られ、<1937年11月に>新たに第8課(宣伝謀略課)を設置し、影佐は初代課長に据えられ日中戦争初期の戦争指導に当たる。

 (注1)「1908年から1937年までに支那課長を務めた16人のうち,陸軍省や参謀本部の他の部・課に所属経験があるのは影佐を含む2人のみである。」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=00d247c42cdb86f3b666a1178eeddacced32894e55750d82d83b649c6bba72a7JmltdHM9MTc0MDUyODAwMA&ptn=3&ver=2&hsh=4&fclid=00cb7a4f-890f-66e8-130d-6f15880a6721&psq=%e6%a2%85%e6%a9%9f%e9%96%a2&u=a1aHR0cHM6Ly9tZWlqaS5yZXBvLm5paS5hYy5qcC9yZWNvcmQvMTczNDYvZmlsZXMvbm9ib3JpdG9rZW5reXVqb184XzEucGRm&ntb=1 ※

 その後、<陸軍省軍務局>軍務課長を歴任し民間人里見甫を指導し中国の地下組織・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と連携し、上海でのアヘン売買を行う里見機関を設立。・・・
 1939年、日本陸軍は日中戦争の戦局打開のため、蔣介石と対立した中国国民党親日派の汪兆銘に協力し汪政権樹立を計画。影佐を長とする通称「梅機関」(影佐機関)工作を進め成功。1939年2月頃、活動を休止した土肥原機関を受け継いだ。この中に晴気慶胤少佐を長とするテロ組織「ジェスフィールド76号」も含まれていた。同年少将に昇進、支那派遣軍総司令部付。翌1940年3月、南京政府樹立で「梅機関」はその役目を終え正式に解散した。4月、汪政府樹立後は汪政府の軍事最高顧問に就任。「影佐機関」は解散したが、上海と南京にそのネットワークは残り、南京政府操縦工作と重慶政府攪乱工作を続けた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E4%BD%90%E7%A6%8E%E6%98%AD
という人物です。
 1936年8月、軍務局から兵務局が独立すると、新軍務局は、旧軍事課を軍事課と軍務課に分け、2課体制になった
https://www.jacar.go.jp/glossary/term1/0090-0010-0060-0010-0040.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%8B%99%E5%B1%80
ところ、影佐は初代軍務課長になった人物でもあり、彼は、陸士も陸大も優等卒業で、東大法(政治)でも学んだ、陸軍のエリート中のエリートであり、参謀本部の課長や陸軍省の課長も務めていることからして、文字通り、陸軍の、ということは、当時の日本政府の、対支那諜報活動の大元締め、だったわけであり、そんな影佐こそが、毛や周としては、自分達にとっての日本政府の窓口であると見ていたに相違なく、そうである以上、当時の日本政府内で、対支那戦略/政策においては陸軍の補助的存在でしかなかった外務省の、しかも、ノンキャリでしかない岩井など、およそ眼中になかったと見ていいでしょう。
 要は、岩井公館は、中共系の怪しげな人物達が出入りしても余り注目されないことから、影佐、ひいては杉山元ら、が、外務省に「指示」し、資金も提供して設置させた、広義の影佐機関のフロント的受付/案内所でしかなかった、というのが私の見方なのです。(太田)

(続く)