太田述正コラム#14804(2025.3.6)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その4)>(2025.6.1公開)

 「・・・毛沢東<は、彼が入学した>・・・湘郷東山小学<(注3)>に・・・日本留学から戻ってきた教員がいて、ここでもまた明治維新と大日本帝国の革新的な精神を教わる。

 (注3)「故郷の韶山を離れて湘郷県立東山高等小学校に入学」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1

⇒このくだりにも遠藤は典拠を記しておらず、遺憾です。
 仮にこれが事実ならばですが、ここに出て来る教員の名前や経歴をぜひ知りたいところですが・・。(太田)

 このとき教えられた日露戦争勝利を讃えた歌「黄海の戦い」<(注4)>に、毛沢東は大日本帝国の強大さを感じ、何かしらふるい立つものを覚えたのである。・・・

 (注4)「1894年(明治27年)9月17日、日本海軍の連合艦隊は黄海の鴨緑江河口付近で清国の北洋艦隊を捕捉、激戦の末にこれを破った。この海戦が黄海海戦であり、・・・・・・佐佐木信綱作詞、奥好義作曲<で>1895年(明治28年)発表<された>・・・軍歌・・・「勇敢なる水兵」はその時の逸話に基づくものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%87%E6%95%A2%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%B0%B4%E5%85%B5
 また、「黄海の大捷<は、>・・・作詞者:明治天皇<、>・・・作曲者:田中穂積、で、>・・・1894年(明治27年)発表<された>・・・黄海海戦の大勝利を歌った・・・軍歌。」
https://ja.wikisource.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B5%B7%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%8D%B7

⇒「黄海の戦い」という歌はどうやら存在しないようであり、「注4」から分かるように、似たような名前の歌はあるけれど、それは日露戦争ではなく日清戦争の時の歌です。
 ここ、どうやら、遠藤の、『中国の赤い星』の中に出て来る挿話(注5)のうろ覚え勘違いミスのようですね。

 (注5)「米国人ジャーナリスト、エドガー・スノウに、戦争当時の日本の歌詞を紹介しながら、次のように告白している(なお左記に紹介する詩が、本当に日露戦争時のものかどうかには諸説がある)。
 「雀は歌い 鶯は踊る 春の緑の野は美しい ざくろの花は紅にそまり 柳は青葉にみち 新しい絵巻になる
 当時わたしは日本の美を知り、感じとり、このロシアに対する勝利の歌に日本の誇りと力を感じたのです」(『中国の赤い星』筑摩文庫<)>
https://blog.goo.ne.jp/kintaro-chance/e/2fbd7ccc54db82af61faa1e625ecda7e

 ところで、日露戦争の時の黄海海戦のウィキペディアに、「後に毛沢東は日露戦争の歌「黄海の戦い」の歌詞を紹介し、日本の誇りを賞賛したという。」と典拠抜きで書かれている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6_(%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89)
ところ、これ、遠藤のこの本が「典拠」なのではないでしょうか。
 罪作りなことです。
 ついでながら、マルクスレーニン主義シンパでトロいスノウ(スノー)を使って、口から出まかせの歌詞の日露戦争当時の日本の歌なるものを紹介し、正直に自分が日本大好き人間でかつロシア(ソ連!)大嫌い人間であること・・今にして思えば杉山構想信奉者的人間であること、少なくとも横井小楠コンセンサス信奉者であること・・を、世界中に向けて発信させた毛沢東には敬服です。(太田)

 父親から・・・今後は学費を出さない<と言われた>・・・毛沢東は学費を支払わなくてもいいという条件の湖南第四師範学校に入学する。
 第四師範は、ほどなく合併により湖南省立第一師範となるが、・・・5年制で、日本で言えば、高校2年までの学習段階だということになる。
 このことが、・・・建国後、<毛が、>知識人<の>迫害<をもたらした原因>・・・ともなる<。>・・・
 <この>第一師範<に>は・・・楊昌済<(コラム#10223、13129、13381、14770)>・・・という倫理学の教員が・・・いた<。>・・・
 楊昌済は教科書としてドイツ人哲学者、フリードリッヒ・パウルゼン<(注6)>(1846~1908年)が著した『倫理学原理』を使ったが、この本は、のちに北京大学学長(1916~1927年)となる蔡元培が日本語から中国語に訳したものだ(蔡元培もまた、日本に留学したことがある)。

 (注6)Friedrich Paulsen。「ドイツの哲学者,教育者,倫理学者。・・・1866年エアランゲンで神学を学び、さらにベルリーンやボン、キールで哲学を学び、1870年学位を取得。その後、自然科学や社会科学を修め、1875年ベルリーン大学私講師、1878年同助教授を経て、1893年ベルリーン大学哲学・教育学正教授となる。スピノーザやカント、フェヒナーの影響を受け、観念論的汎神論を形成し、目的論的活動説を倫理学の原理とする。又、学校教育の改革にも貢献し<た。>」
https://kotobank.jp/word/%E3%81%B5%E3%82%8A%E3%83%BC%E3%81%A9%E3%82%8A%E3%81%B2%E3%81%B1%E3%81%86%E3%82%8B%E3%81%9C%E3%82%93-3234941

 ドイツ語から英訳されたものを、1900年に日本人の蟹江義丸が日本語に訳して出版し、それを蔡元培が中国語に訳したという、世界を一巡したような本だ。
 この本を毛沢東はくり返しくり返し熟読し・・・のちに「現実主義」という論理を引き出している。
 毛沢東の言う現実主義とは、おおむね、「人間の一生は短いものだ。だから現実から離れて幻のような虚ろな理想や価値を追い求めることなどやってはいられない。限られた時間内に”自己実現”を果さなければならない」ということである。」(26、31~33)

⇒面白いけれど、ここも典拠が付いていないので、話半分に受け止めざるをえません。(太田)

(続く)