太田述正コラム#15005(2025.6.14)
<皆さんとディスカッション(続x6285)/日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から(メモ4)>

<TSY>

 太田さんが、「いい子」に<日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から(メモ4)の>原稿<(「原稿」)>を早めにあげてくださっていたのに、そんなこととは露知らず、水曜の夜にチェックしたので、「早めに」の恩恵を生かすことができませんでした。残念。
 人-間主義を物差しにする。奥さんに注目する。秘匿戦略の家系継承。いつもの太田さんの知の技法が古代中国に適用された感じで、安心して読めました。
 教育(誰が誰の先生(弟子)関係)が日本のときより大きな要素になっていた印象です。
 ヘーゲルがアジア的停滞で指摘しているような、中国の王朝のループ感覚。Boxer Rebellionを調べていたときに、それが White Lotus Rebellionそっくりな点をいろいろ見つけて、うんざりもし、同情もしたことがありました。
 いっつも同じ事、同じ失敗をしてる国。
 政治史でみると、なるほど、類似の皇帝の支配が反復する。いっつも宦官がいて、いっつも姻戚がいて、ドタバタドタバタ。
 今回の論文では、反復の元、範例がどのように生まれたのか、どんな性質を持っているのか、びっくりするほどはっきりと見通すことができました。ありがたかったです。
 古代エジプトが古王国から新王国まで1300年程度続きましたから、中国の停滞も、中国史の一時代なのかもしれませんが、それなりに、悪い癖を長いこと反復して身につけた感が中国にはあります。
 ずっと中国の平均的国民の価値観が等身大に描かれた小説を探してきました。最近やっとやっとやっと紫金陳(ズージンチェン)という作家をみつけ、まずまずの探り針を中国に入れることに成功しました。登場人物のモラルを人-間主義基準で調べて見ました。みんな個人主義、個人の欲望優先。党や警察の偉いさんは、必ず権力を悪用してます。権力側も庶民側も正義に期待してない程度は同じです。
 魯迅があこがれ、Xi Jinpingが育成しようとしている人-間主義的な文明。これを悪い癖があり、個人主義欲望優先社会の中国で育むのは、難事業だろうなあ、と改めて思いました。・・・
 <感想ですが、>中国の癌が支配者周辺にあるなら、中国共産党の指導部を修正できたら、それは癌を切除するのと同じ効果が、中国文明にあるかもしれません。毛沢東の着眼は、この点でも、正しかったのかも}

● 発展的追求1

 <下掲>の<「原稿」中の>論の論拠は、『史記』だと思う。手元に史記(有朋堂 1927年)があるので、wikipediaの記述と史記の記述の差を調べてみます。
 「負芻3年(紀元前225年)、秦の李信と蒙恬が20万の大軍を率いて楚に進攻してきたので項燕はこれを迎え撃った。李信と蒙恬が城父で合流したところを三日三晩休むことなく追撃し、李信軍を大破した。さらに2つの拠点を攻め落とし、7人の都尉を殺して秦軍を覆没させた。
 負芻4年(紀元前224年)、秦の王翦が60万の大軍を率いて再び楚を攻めた。王翦は堅守して楚軍と交戦しないよう命じ、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、奇襲して楚軍を大破、楚王負芻は捕虜となったが、
 項燕は淮南で・・・楚王負芻<[(ふすう。?~?年。在位:BC228~BC223年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A0%E8%8A%BB ]>・・・の異母兄弟であり、かつて秦の丞相であった楚の公子昌平君<[(BC271~BC223)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%90%9B ]を楚王として擁立して反抗した。負芻5年(紀元前223年)、王翦と蒙武は楚軍を破り、昌平君は戦死、項燕も戦死(もしくは自害)し、ついに楚は滅亡した。」

●● 史記の該当箇所

 まず、始皇帝本紀の楚の滅亡箇所はこれ、<↓省略(太田)>
 楚世家の記述はこれ。<↓省略(太田)>

●● wikipedia???

 wikipediaの城父の戦いの項目には次の記述が。
 「紀元前225年、秦は魏を滅ぼし、次の標的を楚とした。秦王政は楚の攻略に必要な兵数を尋ねると李信は20万人、王翦は60万人と答えた。秦王政は李信の案を採用し、李信・蒙恬に10万人ずつの兵を託し楚の討伐に向かわせた。
 李信は平輿から、蒙恬は寝丘から攻め入り、楚軍を破り、寝丘の北の城父で合流した。しかし、秦の昌平君が郢陳で反乱を起こし、退路を断たれた秦軍は楚の項燕の奇襲により2つの城壁が破られ、7人の都尉を失う。秦軍は全軍覆没し、敗走した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E7%88%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

1. 『史記』楚世家

 wikipediaは、典拠を、史記の楚世家としているが、僕のもっている史記の楚世家には・・・、wikipediaの記述はない。
 この記述はどっからきたのだろうか。
 一般に、史記には、作戦の細目、部隊の人数などの記載はまれ、このwikipediaの記述は、史記の標準からすると詳しすぎる。
 新史料だとしたら、それを注に書かないのは、ちょっと困っちゃう。

● 発展的追求2

 僕の自慢の死蔵本に、 Science and Civilisation in China(19冊あるけど未完、Needham編(死後も続く))<↓省略(太田)>
 太田さんの引用されたニーダムのwikipediaの記述は、ニーダムの意図と離れている感じがします。
 ニーダムは、文化人類学(とくにKarl Polanyiの経済人類学。市場経済は人類史の王道でない)と同じように、科学史において、西洋中心主義をやめようとする、精神風潮(あのアホな二つの大戦を経た反省にたって)の担い手の1人だと思います。
 「なぜ近代科学が、すなわち自然にかんする仮説を数学化するということが、(中略)ガリレオの時代に西欧においてのみ流星のように出現したのか。これは多くの人びとが問いかけを行ってきたにもかかわらず、ほとんど答が与えられていない(中略)。これと全く同じくらい重要なもう一つの問題がある。なぜ紀元前2世紀から後16世紀までは、自然について人間がもつ知識を有益な目的に応用するときに、東アジアの文化のほうが西欧の文化よりも有効であったのか。」
 これがニーダムの問題意識で、彼にとって中国文明は、科学的技術的叡智の宝庫でした。
 「中国の数学的思考はいつもきわめて代数学的であって幾何学的ではなかった。宋・元時代、中国学派は方程式の解法で世界をリードしていた。パスカルの名で呼ばれる三角形は、紀元1300年の昔にすでに中国に存在していたほどである。カルダンの懸垂として知られている輪環と尖軸の連鎖系は、カルダンの時代よりも1千年も前に中国においては一般に使用されていた。
 天文学にいたっては、中国人はルネサンス期以前のどこよりも永続的かつ精密に天体現象を観測していた。
 (中略)かれらは明確な宇宙論を構想し、現在用いられている座標系を使用して天文図を描き、たとえば電波天文学者にとって今日でも有益な、日月食、彗星、新星、流星の記録を続行した。」
 「光学・音響学・磁気学のような物理学の分野は、古代中世の中国において特によく発達した。これは力学と動力学は比較的進んだのに、磁気的現象はほとんど知られなかった西洋と顕著な対照をなしていた。」(『文明の滴定』 法政大学出版局 p.6)
 磁場という概念がなければ、磁石はなにか目に見えない小さいボールのようなものにぶつかられて、北をさすよう向きを変えなければいけなくなる(ニュートン力学では説明不可能)。中国は場には固有の性質があるという考えは、わりと一般的にあり、磁「場」の理解では有利。
 ユークリッド幾何学が切り開いた、定義、仮説(=命題)、証明で考える、仮説を基本的な仮説から初めて、より応用的な仮説に広げていく知のまとめ方(公理演繹的知)は、非常に力があるし、個人的には魅力的だと考えています。なのでニーダムが止めても、不賛成でも、王道の数学物理を僕は勉強します。
こっそり言うと、日本人は理系も文系もほとんどこの公理演繹的知の理解(自分のものとして産みだし、応用できる)ができていないというのが僕の観察です。英の哲学者、仏、独、英、露、伊の数学者物理学者には大丈夫な人がけっこういる。
さて、現代科学に目を転じると、物理は計測不能のエネルギー概念まできているし、生物学は意味不明の遺伝子情報、中立的な進化(意味のない変化の持続)、あまりに多い体内高分子分子の相互作用に、道を失ってます。
 「(自然を)科学的に調べてみると、不安定な素粒子というものが出てきてしまった。物質世界が(人間の主観とは)独立して存在するはずだという大前提がくつがえされてしまったのですから、自然科学は救いようがない破局に当面している。」(『数学する人生』 岡潔(森田真生編))というのが現在地でしょう。
 実験のできない、実験が極めて難しくなった科学の時代。 科学とオカルトの区別が、真面目に考えると、もはや不可能に近い(優秀な科学者を集めて同じ課題をだせば、共通の計算結果がでるという意味で、オカルトとは区別できる。でも結果があたっているかどうかは、しばしば怪しい)。
直面する問題を分類して、科学本質論的な問題は、公理演繹的な数学も使っての思弁的なチャレンジをすすめ、科学応用的な問題は、これまで通り、地道に仮説、実験、観察のサイクルを廻す、というのが、現代な感じです。科学をモデルにした啓蒙主義・合理主義には引退してもらって、いろいろわからんけど、暫定仮説はこれ、みたいなのが、正直な現代の知な気がします。

<太田>

 ニーダムに関しては、私が引用したことも彼は言っているのであろうという理解で、そのままにしておきます。
 (なお、上掲中からは落としましたが、誤字脱字や分かりにくい表現のご指摘群は、「相邦」→「相国」、というご指摘・・劉邦の「邦」を忌避して漢の時に「国」へと名称変更をした(典拠省略)・・を除き、全て採用させていただきました。)

<太田>

 安倍問題/防衛費増。↓

 なし。

ウクライナ問題/ガザ戦争。↓

 <イワンのバカは治らない。↓>
 Russia says it’s winning. The data says otherwise.–Russia has paid an extraordinary price in blood and equipment for marginal gains in Ukraine.・・・
https://www.washingtonpost.com/opinions/interactive/2025/russia-losing-casualties-ukraine-war/?itid=sf_opinions_featured_p004_f003
 <そうそう。↓>
 「仏マクロン大統領、イスラエル自衛権支持 イラン「核エンジン製造近かった」・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E4%BB%8F%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98-%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E8%87%AA%E8%A1%9B%E6%A8%A9%E6%94%AF%E6%8C%81-%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3-%E6%A0%B8%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3%E8%A3%BD%E9%80%A0%E8%BF%91%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F/ar-AA1GGhYS?ocid=BingNewsSerp
 <スゴイねえ。↓>
 「イラン要人はなぜ殺害されたか イスラエル特務機関モサドが浸透、数年かけて居場所特定・・・」
https://www.sankei.com/article/20250614-FX7ADIAX2NPKLGF7DOTJDZIKZM/
 <でも入り口と通路をぶっ壊しただけでも結構なダメージだろ。それに、まだ、終わったわけでもないし・・。↓>
Iran’s nuclear facilities damaged but not destroyed, experts say
The deeply buried uranium enrichment sites at Natanz and Fordow have escaped significant damage, according to reports and satellite imagery.
https://www.washingtonpost.com/national-security/2025/06/13/iran-nuclear-damage-natanz-fordow/
 <無駄遣い。↓>
 「イランがイスラエルにミサイル数百発発射 報復攻撃を本格化か・・・」
https://mainichi.jp/articles/20250614/k00/00m/030/006000c
 <どうでもいいから、早く、神制政府をぶっ壊せっての。↓>
 In Iran, grief for civilian casualties but little pity for commanders・・・
https://www.bbc.com/news/articles/czr85lpd7kyo

 妄想瘋癲老人米国。↓

 <・・・。↓>
 「日鉄のUSスチール完全子会社化をトランプ氏承認 米政府には黄金株・・・」
https://digital.asahi.com/articles/AST6F7RD2T6FULFA008M.html?iref=comtop_7_01

 それでは、その他の国内記事の紹介です。↓

 日・文カルト問題。↓

 <悪い冗談ヤメテー!↓>
 「李在明大統領と石破茂首相 「非主流」を自認する両首脳のシナジー効果に期待・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2025/06/14/2025061480002.html
 <思想の自由を存分にご享受ください。↓>
 「<韓国新政府外交に望む>国民49.6%「日本と未来協力推進」…31.5%は「歴史問題解決」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/334986
 <報道価値なし。↓>
 「韓日の国家安保担当高官が電話協議 「今後も緊密疎通」・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20250613002200882?section=politics/index

 どうでもいいけど、今回も娘連れてんのかあ。奥さんはどうしたー?↓

 North Korea claims warship launch successful on second try・・・
https://www.bbc.com/news/articles/c1mgd0252kpo

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <どこが話題になるのさ。陳腐なことしか言ってないじゃん。↓>
 「石破茂氏が過去に中国メディアのインタビューで語った内容が話題に・・・」

https://www.recordchina.co.jp/b954767-s25-c10-d0052.html

 一人題名のない音楽会です。
 引き続き、ピアノ交響曲のピアノソロ編曲の演奏です。
 今回は、モーツァルトとリストです。

Mozart Piano Concerto No. 23, II. Adagio 編曲・ピアノ:Kassia 7.13分
https://www.youtube.com/watch?v=Md6c6aEP4Cs
Mozart Andante from Piano Concerto No. 21 KV 467 “Elvira Madigan” 編曲:Helmut Alsdorf ピアノ:Markus 4.30分
https://www.youtube.com/watch?v=mUDf9t5mhUc

Liszt Piano Concerto No. 1 in E♭ major for Piano solo 編曲:Felix Gerdts? ピアノ:Felix Gerdts? 21.16分

https://www.youtube.com/watch?v=BHFBgvNaCF4

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      –日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から(メモ4)–


1 始めに
 (1)墨家の思想と天下統一
 (2)天下統一と楚ファクター
 (3)秦墨–重要な手がかり
 (4)参考:江南人・楚人・弥生人
  ア 私の「江南人≒楚人≒日本史上の弥生人」仮説
  イ 渡来時の弥生人は父系制か母系制か

2 私の楚秦ステルス連衡仮説
 (1)序
 (2)春秋の覇者達
 (3)楚秦ステルス連衡の締結
 (4)楚秦ステルス連衡時代
 (5)楚秦ステルス連衡破綻欺騙期兼両公室合体化期
  ア 楚秦ステルス連衡破綻欺騙
  イ 楚秦両公室合体化
 (6)暗転
 (7)秦単独での天下統一

3 漢人文明論
 (1)序
 (2)範例化a:独裁者たる皇帝
 (3)範例化b:義の統一者たる皇帝
 (4)非範例化:人格欠陥者たる皇帝
 (5)範例化c:軍事軽視・緩治者たる皇帝
 (6)漢における微修正付皇帝諸範例継受
  ア 微修正点
  イ 皇帝諸範例継受経緯

4 漢人の探検精神・科学的精神・慈善精神の欠如
 (1)序
 (2)漢人の探検精神の欠如
 (3)漢人の科学的精神の欠如
 (4)漢人の慈善精神の欠如

5 まとめ

  参考:秦君・楚君一覧表

6 終わりに

1 始めに

 (1)墨家の思想と天下統一

 吉永慎二郎氏・・阪大卒、同大修士、秋田大助教授、教授、名誉教授・・
https://researchmap.jp/read0169015
https://research-er.jp/researchers/view/137182
の論稿を踏まえ、「始皇帝による支那統一をもたらしたイデオロギーは一体何なのでしょうか。それは、墨子(支那戦国時代(BC403~BC221年)の人。生没年は不詳)に始まる墨家の思想ではないか、と私は考えています。」(コラム#1640)とし、「墨家の思想は、生活必需品の増産を至上命題とする唯物論であり、かかる墨家の思想、すなわち義の解釈権を君主が独占し、その義を全家臣及び民衆が信じ、生活必需品の増産に勤しまなければならない、という、マルクスレーニン主義に極めて類似した全体主義思想でした。」(上掲)と18年以上前の2007年1月終わりに記した時、墨家の思想の強烈な平和主義には、話が発散してしまうと思い、あえて言及しなかった。
 2014年の中頃に、この点に真正面から向き合わないまま、「支那文明の起源」(コラム#6961、6963、6965、6967、6969、6971)を書いたが、心中、忸怩たるものがあった。
 その後も、墨家の強烈な平和主義が支那の軍事軽視をもたらしたと考えられる以上、墨家の平和主義に目を瞑るわけにはいかない、という強迫観念に苛まれつつも、この点も含めて墨家の思想を始皇帝が抱懐していたとすれば、そもそも、彼が支那統一「戦争」など行えなかった筈だ、というアポリアを解決できないまま、いたずらに時間が経過した。

 (2)天下統一と楚ファクター

 それから随分時間が経ってからだが、Amazon Prime Videoで、2023年初から中共製の『始皇帝 天下統一』TVシリーズを鑑賞し、「秦の昭襄王(BC325~BC251年)、孝文王(BC302~BC250年)、荘襄王(BC281~BC247年)の三代・・荘襄王は始皇帝の父・・が、いずれも、実態は弥生人的ないし普通人的な人物達である<・・と、当時私は考えていた・・>にもかかわらず、縄文的弥生人的に描かれているの・・・に対し、始皇帝についてだけは、幼少期から弥生人的に描いていること」(コラム#13954)、始皇帝の運命に大きな影響を及ぼした華陽太后が楚の公女であること、彼女の舅の昭襄王の母親の宣太后もやはり楚の公女であること(コラム#13956)、始皇帝の秦王時代に家臣トップの右丞相を務めていた昌平君もまた楚の公子であって、秦が楚を滅ぼす過程で楚王に就任していること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%90%9B
を知り、更に、2024年初からは同じく中共製の『孫子兵法』TVシリーズを鑑賞し、楚の昭王(?~BC489年)が呉の侵攻を受け、滅亡に瀕した時に、母親の伯嬴の父親の秦の哀公の援軍派遣によって救われた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
ことを知り、次第に、秦による天下統一は、実は、昔から緊密だった楚と秦が協力して成し遂げたのではないか、そして、天下統一直前で秦が楚と袂を分かって単独で統一をしたけれど、楚側の反発により、楚であるところの漢が取って代わったのではないか、と、いう仮説が今度は閃いた
 しかし、仮にこの仮説が正しいとすると、日本史上の弥生人は、楚と同じ江南文化出身であることから、どうして、日本人と漢人がこれほども違ってしまい、日本史と支那史もまた全く異なったものになってしまったのか、を説明しなければならなくなる。
 そこで思ったのは、秦の始皇帝が支那の天下統一を果たしたことが、日支を分岐させたのではないか、すなわち、『始皇帝 天下統一』において、昭襄王、孝文王、荘襄王、と、始皇帝、との人格が異なる描き方がなされていたところ、それは史実に近いのではないのか、楚を切り捨てなかったと考えられる前三者のいずれかではなく、楚を切り捨てた始皇帝によって支那が統一されたのが支那にとって悲劇だったのではないか、ということだ。

 (3)秦墨–重要な手がかり

 こういうわけで、墨家の平和主義と始皇帝によるところの楚ファクターを勘案した天下統一の全体をうまく説明する必要性が一層高まった。
 (ちなみに、私は、墨子楚人説を採っている。(コラム#13780))
 そんな時に出会ったのが、池田知久(1942年~)・・東大文(中国哲学)卒、同大院博士課程中退、高知大、岐阜大を経て東大助教授、教授、同大博士(文学)、同大名誉教授、大東文化大教授・・による下掲の一文だった。↓
 「後期墨家・・秦墨・・(前300~前206)<は>、兼愛・非攻を実現するために現実に妥協して中央集権を理論化・・・し、その根拠づけのために宗教的な天・鬼神の存在を認める<に至り、>・・・末期墨家(前206~)<になると、>・・・この路線変更<を踏まえ、積極的に>秦・漢帝国の体制作りに貢献した」
 つまり、秦王政の時に李斯によって誅殺された「韓非子<が、>・・・、<支那の>当時の「顕学」(勢力が顕著だった学派)は、「儒」(儒家)と「墨」(墨家)の二学派であ<る>」としているところ、この墨家は、楚で栄えた後、秦に拠点を移していたこの秦墨であり、この秦墨は、天下統一、維持の範囲の軍事重視は認めたというわけであり、これにより、私の中で上述の折り合いをつけることがついにできた。(コラム#14988)

 (4)参考:江南人・楚人・弥生人

  ア 私の「江南人≒楚人≒日本史上の弥生人」仮説

 この際「日本史上の弥生人は、楚と同じ江南文化出身であること」について補足しておこう。
 「<私は、>「日本列島でのプロト日本文明/日本文明の担い手も、支那での漢人文明の担い手も、主体は水田稲作文化を生んだ江南人で同じであって、漢人と日本人は一卵性双生児的な間柄だというのに全く異なった文明を形成した」「概ね弥生的縄文人であった江南人」と述べ(コラム#14918)、また、この「日本人(≒歴史上の弥生人)江南人説は、説と言うより、両者の、DNA/水田稲作文化、の共有という事実、の、確認、に過ぎない」(コラム#14937)と述べ<てき>た<けれど、実は、>「残念ながら弥生時代の草創期や早期のゲノムというのは、現時点ではほぼとれていない状況で<あり、>・・・これは典型的な弥生人、つまり渡来系弥生人だといえるものは、早くても弥生時代中期、大部分は、後期から<のものしかまだ見つかっていない>」
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/19/042300056/051400006/
ということから、縄文時代晩期や弥生時代の草創期や早期の日本列島に水田稲作文化をもたらした人々が江南人であったことの直接的な証拠はない。
 しかし、「5000年から4000年前の竜山文化に属する山東省膠州市趙家荘遺跡で・・・水田跡が発見されており、現在では小麦地帯に入る山東半島で稲作が行われていた<ことが判明している>他、・・・紀元前3000年以降にはさらに北方の遼東半島、同2000年以降には朝鮮半島まで伝播した<ことが>明らかになってい<て、>・・・<その朝鮮半島の慶尚南道と慶尚南道の東端境に位置する>蔚山市<
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%A1%8C%E6%94%BF%E5%8C%BA%E7%94%BB >
にあるオクキョン遺跡(紀元前1000年頃)<が>、日韓合わせて最古の水田遺跡である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C
ところ、日本列島で「現在、確認されている最古の水田跡は今から約2500~2600年前・・紀元前930年頃・・の縄文時代晩期中頃の佐賀県の菜畑遺跡<だが、その>・・・遺跡からは、韓国慶尚南道<の>・・・大坪里遺跡出土土器の系統から影響を受けた「朝鮮無文土器系甕」や、朝鮮式の石包丁、鍬などが出土している<一方で、>朝鮮半島の無文土器文化の担い手は、<江南文化>の流れを汲んだY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)<の人々・・つまり、江南人(太田)・・>であり、朝鮮半島に水稲農耕をもたらしたのも同集団であると考えられている」(上掲)ことから、日本列島に水田稲作文化をもたらした人々もまた江南人であった可能性が極めて高いと言えよう。
 いずれにせよ、「ゲノムから見た弥生時代の特徴は、遺伝的に非常に多様だったこと」とか、「縄文時代、弥生時代、古墳時代の人骨から得たゲノムを比較して、古墳人には、弥生人にはない別の渡来要素がある」とか
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/19/042300056/051400006/ 前掲
は、「プロト日本文明/日本文明の担い手」の「主体」が、(仮に私の指摘のように弥生時代を創始/形成したのが江南人であったとして、その)江南人であることを否定することにはならないのであって、それは、私が、漢人文明の担い手の主体が江南人である、と、主張していることの意味を想起していただければ、自ずから明らかだろう。」(コラム#14944)

  イ 渡来時の弥生人は父系制か母系制か

 ところで、江南人≒弥生人≒楚人、であるとすると、新たに気になることが出てきた。
 それは、「日本に限らず、現在は世界的に父系制をメインとした父系社会の国が多い・・・。ただ、かつては母系社会が一般的だったと言われてい<る>。・・・
 先史時代の人間は、狩猟採取生活を営んでい・・・た。このころは「家」というよりも、血縁関係のある集団生活という色が濃かった・・・。そうなると「誰が父親か」というのは、割合どうでもいい話だった・・・。母親が妊娠して子どもを出産するわけなので「生まれた子の母親は誰か」というのは、誰が見ても明らか<だ>。一方で、集団生活をしている以上、父親が誰かなんていうのは正直わか<らない>。当時の集団においては、働き手となる人間を確保することが最優先。その働き手を産む母親こそが、最大の功労者であり集団の中心だった・・・。
 日本では、稲作が伝来し農耕文化が定着し始めた弥生時代においても、似たような状況だったよう<だ>。」
https://himekuri-nippon.hatenablog.com/entry/2020/01/12/170000
という前提の下、日本史上の弥生人が、日本列島に渡来して、日本史上の縄文人の言語を採用したのと同様に、元々は父系制だったのが縄文人の母系制を採用した、と、私は考えてきたのだが、支那で、現在もなお母系制を維持していることで知られるモン族の場合、大昔から江南人の西ないし南西の「僻地」にいたので、
https://www.blog.crn.or.jp/report/02/303.html
日本史上の弥生人とは関わりがなさそうだけれど、「山東省広饒県の傅家(ふか)遺跡で、今から4750年以上前<の>・・・母系社会組織の存在<が>確認<された>」(コラム#14991)ということを知り、日本史上の弥生人の最初の(山東半島から朝鮮半島経由と思われる)日本列島到来時期である3000年前の少なくとも「わずか」1700年余前まで、間違いなく山東半島が母系制だったとすれば、山東半島に稲作を持ち込んだと考えられる江南人がそこで母系制に変わり、日本列島にもやってきた時には、そのかなり前から母系制だった可能性が出てきた、と、言えるのではなかろうか。

2 私の楚秦ステルス連衡仮説

 (1)序

 以下、今回の本題である、私の楚秦ステルス連衡仮説を説明する。
 私の知る限り、こういった説を唱えた人は今までいないようだが、そのことが不思議でならない。

 (2)春秋の覇者達

 BC770年に周が東遷し、春秋時代が始まるが、その後も周の力はどんどん弱体化していき、周の権威を積極的に認める諸国の公達の中から、日本で天皇の下で幕府を開いた征夷大将軍とも言うべき、拡大中原(華夏)の覇者、を目指す者が出てきて、最初の覇者にBC651年に就いたのが、中原外ながら、周建国の功臣太公望呂尚を始祖とする斉の桓公だったが、その後の失政や桓公死後の後継争いで斉は幕府もどきの座から転落する。
 その後、領土を拡大していた、やはり中原外ながら、周公室に繋がる姫姓の晋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
で、秦の穆公の助力の下、晋の文公(在位:BC685~BC643年)となった重耳が、BC632年に覇者となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3
 爾後の覇者については、時代をずっと下った清の全祖望・・黄宗羲に信服していた1705~1755年の儒学者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E7%A5%96%E6%9C%9B
・・が「春秋五覇失実論」で展開した説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E4%BA%94%E8%A6%87
に従い、事実上、晋公が代々継承していった、というのが私の見方であり、(文公の子で次に即位した)晋の襄公(在位:BC628~BC621年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%84%E5%85%AC_(%E6%99%8B)
そして、その3代後の景公(在位:BC600~BC581年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%85%AC_(%E6%99%8B)
更に、その2代後で襄公の曾孫の悼公(在位:BC586~BC558)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%BC%E5%85%AC_(%E6%99%8B)
が名実ともの覇者達だった。
 ちなみに、晋の文公の父の献公(在位:BC676~BC651年)は、「西虢・虞・魏等の国を攻め滅ぼし、「十七の国を併呑し、三十八の国を服属させた」<ものの、>・・・晩年は愛妾の驪姫(りき)(異民族の驪戎の娘)の讒言を信じ、太子・・・を殺し、公子重耳(ちょうじ)・・・公子夷吾・・・などを遠ざけたために、晋は大きく混乱した。これを『驪姫の乱』と呼び、これ以後、晋は太子以外の公子を国外に出す伝統を守り、<やがて、>このため公族の力が非常に弱くなってい<くことになる>。・・・<献公の>子女<に、>申生(共太子)<、>文公 重耳(第24代晋公)<、>恵公 夷吾(第22代晋公)<、>奚斉(第20代晋公)<、>卓子(第21代晋公)<、>穆姫(秦の穆公の夫人)<、らがいる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AE%E5%85%AC_(%E6%99%8B)

 (3)楚秦ステルス連衡の締結
 
 さて、上出の晋の景公とほぼ同時代人であったところの、楚の荘王(そうおう)(在位:BC614~BC591年)は、南蛮(江南)出身の楚・・すなわち、私見ではその住民の大部分が弥生的縄文人である楚・・には、中原(狭義)内外の、周の邑制の下で封じられたことに始まる諸国・・私見では縄文的弥生人が普通人を率いている諸国・・、や、楚自身のようなそれ以外の諸国、とが、拡大中原(拡大華夏)を舞台に相互に、ありとあらゆる組み合わせで繰り返してきた諸戦争を、これら諸国を統一することでもって廃絶させる使命がある、と、いかにも弥生的縄文人らしい決意をした、と、私は想像するに至っている。
 周によって封じられた諸国中の特定の一国にそれをやらせるわけにいかなかったのは、縄文的弥生人が指導層では、国と国の間の戦争だけではなく、国内における紛争も頻発することから、統一まで無限に近い時間がかかりかねない上、仮に統一されたとしても、内紛によってすぐに分解してしまうことを危惧したからである、とも。
 (ちなみに、楚に関しては、BC11世紀から記録が残っているのに対し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
同じく南蛮(江南)出身の越に関しては、記録が残っているのはBC600年頃からに過ぎず、しかも、中原の夏の流れを汲むと自称していたらしいし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A
また、やはり南蛮(江南)出身の呉に関しては、記録が残っているのはBC585年頃からに過ぎず、しかも、中原の「周王朝の祖の古公亶父の長男の太伯(泰伯)が、太伯の次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国である」と自称していたらしいことから、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
楚は越と呉のどちらも、新参者で、しかも中原人(華夏人)に媚びている、と、見下していたに違いない。)
 また、この関連で、「楚<が、>鬻熊(媸酓)の代に興った国であり、・・・その後、鬻熊の曾孫の熊繹が周の成王から子爵に封じられた。周の昭王の討伐を受けるが、これを撃退し、昭王を戦死、あるいは行方不明にさせたとされる。その後、熊繹から数えて6代目の玄孫の熊渠の時代に「我は蛮夷であるから<支那>の爵位にあずからない」とし、自ら王号を称するようになった。しかし<BC877年に>周に暴虐な厲王が立つと、恐れて王号を廃止した。18代目の11世の孫の熊徹の時代に侯爵国であった随を滅ぼし、それを理由に周に陞爵を願い出たが、周に断られたために再び王を名乗るようになった。熊徹が楚の初代王の武王となる。文王の時代に漢江・淮河の流域に在った息・蔡・陳などの小国十数国を併合或は従属させ強大化を果たす。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
という、周によって封じられた諸国など何するものぞ、という気概の国であったことを想起すべきだろう。」(コラム#14962)

 「この楚の「<22代目の君主である>文王・・・の子・・・<で24代目の>成王<(在位:BC672~BC626年)は、>・・・徳をしき、恵みを施し、諸侯と旧交を結び、人をつかわして周王に朝貢した。それにより周王から「南方を鎮定せよ」という言葉を賜り、それ以降積極的に周辺諸国を併呑して千里を拓いた。楚が急速に力をつけるのを危ぶんだ斉の宰相管仲は桓公に進言してこれを討つことにした。さすがの成王も覇者・桓公の軍には敵わず、和睦して斉の主宰する会盟に加わった。・・・その後、・・・<BC638年の>泓水(おうすい)の戦い<で、晋の桓公の死後、次の覇者になろうとした>・・・宋の襄公<を>・・・打ち破<り、>・・・<また、>・・・楚に放浪中の晋の公子重耳(のちの文公)がやってくると、その大器を一目で見抜き、自分と対等の諸侯の礼を持ってもてなすよう家臣に命じて饗応し<、>・・・重耳に手厚い贈物をして晋に帰らせるために秦に送った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
という具合に、晋と秦に気を遣っていた様子がうかがえる、
 その背景には、以下のような事情があった。
 「穆公(ぼくこう)は、・・・春秋時代の秦の第9代公。・・・徳公(第6代)の子で成公(第8代)の弟。兄弟相続により秦公となる。隣国晋の献公の娘を娶り、その時に侍臣として百里奚が付いてきた。穆公は百里奚を召抱え、以後は百里奚に国政を任せるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%86%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
 「夷吾<は、>・・・紀元前652年、驪姫によって<父>献公暗殺の疑いをかけられると(驪姫の乱)、・・・梁に亡命し、・・・翌紀元前651年、里克ら晋国内の大夫たちによって奚斉やその後を継いだ卓子が相次いで殺害されると、秦の穆公の後援を得て帰国し、紀元前650年に晋公となる。君主となった夷吾こと恵公は盛名のある<、兄の>重耳の帰国を恐れて刺客を放ち、自分に従わなかったり、奚斉と卓子を殺害し恵公を迎え入れた里克ら大夫たちを厳しく弾圧した。また晋では連年凶作が続いたので、紀元前647年、即位の際に後援してくれた隣国の秦に支援を求めた。恵公<が>即位時の約束である領土割譲を反故にしていたにもかかわらず、秦の穆公は快くこれに応じ、大量の食料を河に流して晋に届けた。翌紀元前646年は秦が凶作になったので穆公はその年は豊作だった晋に支援を求めた。これを聞いた恵公は、あろうことか秦を叩きのめすのは今だと喜び、翌紀元前645年、秦に出兵した。穆公は怒り、秦と晋は韓原(現在の陝西省韓城市)で激突することになった。戦いは秦の圧勝に終わり、恵公は捕虜となった。穆公は恵公を秦につれて帰り祖先の霊に犠牲として奉げようとしたが、穆公の妃の穆姫は晋の献公の娘で恵公の姉であったため、穆公に身を挺して命乞いをした<ので、>・・・穆公は恵公を助けた。しかし、太子圉<(ぎょ)>を人質としてとり、・・・晋は秦に従属する形をとることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E5%85%AC_(%E6%99%8B)
 恵公の妃は、彼が梁・・秦の穆公がBC641年に併合する・・に亡命中に迎えた梁の公女梁嬴だが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
太子圉は、恵公とこの梁嬴との間に生まれ、秦の人質になってから秦の穆公に<その公女>懐嬴を正夫人としてめあわされた<・・「後にその叔父文公の第9夫人になった。・・・<すなわち、>紀元前638年、太子圉は晋に逃げ帰ろうとして、懐嬴に同行を誘った。懐嬴は父の命にそむくことになるので同行はできないが、計画を漏らすようなことはしないと約束した。そこで太子圉は晋に逃げ帰った。紀元前638年、晋の公子重耳(後の文公)が秦にやってくると、秦の穆公は公女5人を重耳に妻として与えたが、懐嬴もその中に含まれていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E5%AC%B4
・・>紀元前638年、太子圉は秦から逃げ出して晋に帰国した。翌年に恵公が死去すると、晋侯として即位した。懐公が勝手に逃げ出した事に怒った秦の穆公は、当時楚の成王のもとにいた晋の公子重耳(のちの文公で懐公の伯父)を迎え・・・紀元前636年1月、秦軍は重耳の帰国を送った。重耳が曲沃に入ると、懐公は高梁で殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E5%85%AC_(%E6%99%8B)
 「<どの戦い時か不明だが、穆公が>晋軍に包囲されて,野人(在野の民衆)300人に救われた<ことがあるが、それは、>彼らが以前に穆公の善馬を食しても,家畜のために人間を害さずとして救われた恩に報いた<ものだ>。・・
 <また、>晩年,西北に軍を出して西戎(せいじゅう)の覇者とな<った。>」
https://kotobank.jp/word/%E7%A9%86%E5%85%AC-132687
 以上、少し先走ったが、秦は隣国たる大国の晋への接近を試みており、秦と晋が盟友関係になって、かつ、晋公が覇者になって、この盟友関係を軸に中原(華夏)内外諸国に号令するようになった場合、楚の立場は著しく不利になってしまうが、そうなってしまうことを回避するためには、秦と晋のどちらとも隣国である楚・・但し、後述するところを参照・・が、秦と晋のどちらとも敵対せず、両国が同盟して反楚になりならないようにすることが至上命題だったわけだ。
 そう見れば、「文公<(BC697~BC628年。在位:BC636~BC628年)となった重耳が、>・・・文公5年(紀元前632年)、楚に攻められた宋を救援するため軍を発<し、楚の>成王と対陣したが<、>成王は分が悪いと見て軍を引き上げた<けれど、楚軍の中でも子玉だけは退かず晋軍と決戦した<ところ、>戦いが開始され、文公は約束通りまず全軍を三舎退かせた。その後一旦撤退し、城濮<(じょうぼく)>の地で子玉と対決しこれを打ち破った。これを城濮の戦いと呼び、これにより文公の覇者としての地位が決定付けられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%85%AC_(%E6%99%8B)
という「史実」における、成王の、かつての公子時代と今回の晋文公時代における重耳への配慮、の説明がつくというものだろう。
 かかる、楚の成王の画策もそれなりに功を奏し、下掲のような具合に、秦と晋の関係は、もつれあいつつも、団結に向かうどころか、軋轢が次第に増していくことになるわけだ。↓

 「<秦の穆公が晋の文公に娶らせた5人のいずれの公女の子でもないけれど、正室の文嬴が嫡母であったところの、晋の>襄公 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%84%E5%85%AC_(%E6%99%8B)
「が即位すると、秦の穆公が晋に攻め入ってきたのでこれを迎撃し、秦の三人の将軍を捕虜とした(殽の戦い)<ので、>襄公は三将軍を斬ろうとしたが、嫡母の文嬴<が>将帥を釈放してほしいと要請し、「穆公は三人を恨むこと骨髄に徹しています。どうか三人を秦に帰し、秦の君に思う存分に煮殺させてください」<と述べたところ、>襄公は<こ>の言葉に従い、三将軍を秦に帰した<のだが、>・・・三人が帰ると穆公は郊外に出迎え、「老臣たちの忠言を聴かずに出兵したわたしが悪かった」と泣いて謝り、三人を許した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AC%B4 」(コラム#14964)

 「その後、楚に登場するのが成王の孫で、父の成王を殺して即位したところの暴君だった穆王の嫡子の荘王(BC614~BC591年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
だ。
 「荘王は、・・・楚の歴代君主の中でも最高の名君とされ、・・・周に対する尊王の志は薄いが、その権威は天下を覆ったと言えるので、『荀子』「王覇篇」をはじめとして、荘王を「春秋五覇」に挙げる漢籍は多い。・・・「鳴かず飛ばず」・・・「鼎の軽重を問う」<の故事でも有名。>・・・
 <後者に関しては、>周辺諸国を圧迫し、領土を広げて、覇者としての頭角を顕わしはじめた。荘王8年(紀元前606年)には兵を周の都・洛邑の郊外にまで進めそこに駐屯した。周から使者が来ると、荘王は使者に九鼎の重さを問いただした。九鼎とは殷の時代から受け継がれた伝国の宝器で、当時は王権の象徴とみなされていたものである。その重さを問うということは、すなわちそれを持ち帰ることを示唆したものに他ならず、周の王位を奪うこともありえることを言外にほのめかした一種の恫喝である。周の使者・・・は、これにひるむ事なく言った。問題は鼎の軽重ではなく、徳の有無である。周の国力は衰えたとはいえ、鼎がまだ周室のもとにあるということは、その徳が失われていないことの証に他ならない、と。これには荘王も返す言葉がなく、その場は兵を引かざるを得なかった。この故事から、「面と向かって皇位をうかがうこと」、ひいては「面前の相手の権威や価値を公然と疑うこと」を、「鼎の軽重を問う」(かなえの けいちょうを とう)、また略して「問鼎」(もんてい)と言うようになった<ものだ>。・・・
 <少し前まで、その>「楚<は、>秦に苦しめられ<ていた。
 百里奚等の異邦の異才を登用して国力を増強させ、晋や西戎を討った穆公(在位BC659~BC621年)が亡くなり、「主立った家臣たちが数多く殉死したことにより、秦の国力は大きく低下し、一時期、表舞台から遠ざか」った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%86%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
という絶好の機会を捉え、楚の荘王は、自分の死後400年余り後の秦始皇帝による支那統一を経て、清末までの支那史を悲喜劇的に規定することになる、支那統一国家樹立構想を策定した、と、私は考えるに至っているのだ。
 まず理念だ。
 「荘王はさらに陳の内乱に乗じて一時併合し、鄭を攻めて陳と共に属国化した。荘王17年(紀元前597年)、鄭の援軍に来た晋軍を邲で撃破した(邲の戦い)。・・・<そ>の後、臣下から京観(討ち取った敵兵士の遺体を使ってつくる戦勝のモニュメント)を作る事を進められたが荘王は却下する。「武」という字は「戈」を「止」めると書き、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安じ、衆を和し、財を豊かにするためのものである。自分がしたことはこの武徳にはあてはまらず、その上忠誠を尽くした晋兵の遺体を使って京観を作る事はできない、と言う理由からである。
 実際は「武」の字は「戈」と「止(あし)」から成り「戈を進める」が原義であり、この逸話は後世の創作といわれる。「戈を止める」の逸話は孔子の弟子が編纂した「春秋左氏伝」のみに見え、「春秋公羊伝」や「春秋穀梁伝」には無い。
 晋を退けて覇業を成した荘王は、その総仕上げとして、今なお晋に従う宋を標的に定め・・・、宋は楚の盟下に入り、<その間、>・・・魯も楚の盟下に入るなど、・・・荘王の覇業は完成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 余計なことまで触れたが、「武」に係る挿話は、それなりの根拠があると見るべきであって、荘王が、弥生的縄文人として、縄文的弥生人が作った言葉(漢字)である武(軍事/戦争)の意味を換骨奪胎し、軍事/戦争は軍事/戦争を廃止するためのものであると訴えた、「史実」、が、この挿話の背景にある、と、私は見ている。
 次に統一を達成する方法論だ。
 上述のような理念に到達したのは、荘王が江南文化出身の楚の大方の人々同様、弥生的縄文人であったからこそであるところ、この荘王は、この理念を楚自身が実現することは不可能だと考えたのではなかろうか。
 その理由の第一は、楚の人々の大部分にこの理念を共有させるのは困難だと思った筈だからだ。
 仮に、弥生的縄文人達に対し、平和を実現するためには戦争を行わなければならず、しかも、その戦争は、長く、凄惨なものになる、と訴えたとしても、その大方の理解は得られないだろう、ということだ。
 墨子(墨翟。BC470頃~BC390年頃)は、「出身地に関しても、魯・宋・楚など諸説あり」と言うが、恐らくは楚の出身であり、楚の人々の弥生的縄文性の考え方を整理し理論化した人物である、と、私は想像するに至っており、彼が時の楚王に宋攻略を断念させたとの逸話
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%AD%90 ←「事実」関係 
は、楚王が具体的にどの楚王であるかをあえて伏せていることを含め、示唆的だ。
 その理由の第二は、戦争の間は、総司令官たる王が独裁的権力を振るわなければならないが、弥生的縄文人は和を貴ぶので、独裁に対して拒否反応があるということだ。
 私が、楚人の大方同様、江南出身者の考え方がその基調を形成したところの、日本の支配階層、もまた、弥生的縄文人であった、と見ているところ、7世紀初頭における彼らのリーダーであった厩戸皇子が起草したとされる十七条憲法の第一条に言う、「上の者も和やかに、下の者も睦まじく、物事を議論して内容を整えていけば、自然と物事の道理に適うようになるし、何事も成し遂げられるようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95
から、その1200年前の楚人の考え方を類推できるのであって、このような人々に対して、戦時においては、迅速かつ秘密裡での意思決定が求められるので、「上の者」が厳格に上意下達で物事を進めなければならないので、そのように心得よ、と言っても反発されるだけだということだ。
 その理由の第三は、江南文化(南蛮)出身の人々がその大方であるころの、楚、が前面に出る限り、覇者体制の下ではもとより、覇者がいなくなったとしても、いよいよとなれば、秦を含め、反江南(反南蛮)の拡大中原(華夏)連合が形成され、楚を叩き潰しにかかり、これに楚が対抗するのは困難であると考えた筈だからだ。」(コラム#14966)

 「では、楚が全面的に協力するという大前提の下、一体、どの国を正面に立てて、かかる理念を実現させるべきか。
 荘王が目を付けたのが秦であった、と、私は見るに至っている。
 どうして秦なのか?
 理由の第一は、秦が半分西戎・・周時代に西夷から改名
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%B7
・・であり、そういう目で、それ以外の拡大中原(華夏)諸国から見られていたし、秦自身もそう自覚していた。
(そもそも、「孟子は『孟子』において、「<殷末の周の>文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ」としているし、「山西省で発見された周代倗国遺跡の人骨からは、ハプログループQ (Y染色体)が約59%の高頻度で観測された。なお、現代漢民族の晋語話者にも約14%程度のパプログループQが観測されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8
「倗国,先秦西周时期的诸侯国。在今山西省运城市绛县,其范围在晋国附近」
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%80%97%E5%9C%8B
といったことから、周や周の公室ないし重臣を祖とする諸国もまた、支配層は西戎出身であったと考えられ、目糞鼻糞を笑う類のことながら、秦は中原(華夏)化の時期が周に比して大幅に遅かったために差別された、ということだろう。)
 そのことが窺えるのが、「懐嬴(かいえい、生没年不詳)は、秦の穆公の娘<だが、>・・・紀元前645年、晋の恵公が韓原で秦軍に敗れて捕らえられると、太子圉<(ぎょ)>(後の<晋の>懐公)を人質とする条件で解放された<ところ、>秦の穆公は懐嬴を太子圉の妃としてめあわせた。紀元前638年、太子圉は晋に逃げ帰ろうとして、懐嬴に同行を誘った。懐嬴は父の命にそむくことになるので同行はできないが、計画を漏らすようなことはしないと約束した。そこで太子圉は晋に逃げ帰った。紀元前638年、晋の公子重耳(後の文公)が秦にやってくると、秦の穆公は公女5人を重耳に妻として与えたが、懐嬴もその中に含まれていた。あるとき懐嬴は水差しを捧げもって重耳に手を洗わせたが、重耳は手を振るって水を切り、水滴が懐嬴にかかってしまった。懐嬴は「秦と晋は対等の国であるのに、なぜ私をいやしめるのか」と怒った。重耳は衣服を換えて謝罪した。・・・<彼女>は文公の妃の中で9番目の地位にあり、公子楽を生んだ。紀元前621年、晋の襄公が死去すると、狐射姑は公子楽を晋君に立てようとしたが、趙盾は公子楽の母は2代の国君と結婚したことがあり、しかも文公の第9夫人にすぎず、地位が低いという理由で、断った。後に公子楽は趙盾に殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E5%AC%B4
という、懐嬴の生涯から透けて見える秦晋の歪な関係を示す挿話だ。 
 だから、荘王としては、秦には蚊帳の外的な者同士の与し易さがある、と、踏んだとしても不思議ではない。
 理由の第二は、そんな秦が、楚の殆ど隣国だったことだ。
 遠隔であればあるほど、楚と秦の間で重要な調整を行おうとする時に漏れる危険性が大きくなる。
 だからこそ、楚と秦は、荘王(在位:BC614~BC591年)の時に、両国のかかる調整がうまくいった後、間髪を入れず、殆ど隣国ではなく、文字通りの隣国同士になるための行動を行った、と、見るわけだ。
 すなわち、その頃に、「現在の陝西省・湖北省にまたがる小国<の>・・・庸<を>、秦・巴<(は)>と共同した楚の荘王の攻撃により、紀元前611年に滅亡<させ>」ている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B8_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
わざわざ小国の巴を噛ませたのは、目的を韜晦するためだった、と考えられる。
 これら関係諸国の位置関係を下掲の春秋時代の地図
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E6%98%A5%E7%A7%8B%E5%9C%B0%E5%9B%BE.jpg
で確かめて見よ。
 この地図を見ると、鄖(うん)も滅亡させなければ、楚と秦は隣接しないではないか、と、言われそうだが、鄖については、荘王の時の記録が残っていない・・B.C.701<に>鄖は、随・絞・州・蓼と連合して楚を討ったが、破られる。B.C.528<に>楚平王、闘辛を鄖の地に居住させる。
https://chinahistory.web.fc2.com/timei1u.html 
という具合に、BC701年とBC528年の間の記録がない!・・けれど、「<(前700年)>年,楚征伐羅國(先在今房縣,後在今宜城市,滅國後遷往沿江地區)。楚莊王熊旅(楚第十九代第二十五位君主熊侶,一名熊旅,春秋五霸之一,前613年—前591年秋季在位)及其父親楚穆王伐糜絞和庸,到達今鄖縣境。這也是楚國北上東進之前,穩定西北西南方向的一段關鍵時期。<を、Google英訳したコレ。→>In the following year<(前700年)>, Chu<(楚)> conquered the Luo<(羅)> Kingdom (first in present-day Fang County, then in present-day Yicheng, and moved to the area along the river after the destruction of the country). King Xiong<(荘王)> Brigade of Chuzhuang (the twenty-fifth monarch of the nineteenth generation of Chu, a bear brigade, one of the five tyrants of the Spring and Autumn Period, reigned in the autumn of 613 BC – 591 BC) and his father King Chu Mu<(穆王)> cut Mi and Yong<(庸)>, and arrived at the border of present-day Yun<(鄖)> County. This was also a critical period for the Chu State to stabilize the northwest and southwest directions before it moved north and east.
https://www.newton.com.tw/wiki/%E9%84%96%E5%9C%8B
から、荘王が、庸を討伐してその鄖との国境までを併合していて、併合したのは上述のように、秦と巴との共同作戦の結果だったのだから、楚だけではなく秦も巴も領土を拡張した筈であり、旧庸の西方は秦の領土になって楚と秦は地続きになった、と見るのが自然だろう。
 (ちなみに、巴は、その後、「(前477年),巴人伐楚,敗於鄾。・・・前316年,巴國與蜀國交戰,秦惠王應巴國的請求,使張儀、司馬錯率大軍南下滅了蜀國。但緊接著順道向東滅了巴國,在江州設立巴縣,成為秦始皇36郡之一。」
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%B7%B4%E5%9B%BD
という経過を辿り秦に征服される。)」(コラム#14968)

 「理由の第三は、前述したように、かつて西戎であった周ですら、そして、半分西戎であるはずの秦はもちろん、西戎が遊牧民系であるにもかかわらず、民主的要素が皆無の独裁国家であったことから、秦が、楚に比較して、より長期にわたる総力戦を遂行が可能であると目されたからである、と想像される。
 一体全体、どうして、社会法則に反するようなそんな奇妙なことになっていたのだろうか。
 こういうことではなかろうか。
 周の時代において、西戎には、「かつては周の文王の討伐を受けたことがあ<り、>後に文王の太子である武王と盟約を結んで共に商を滅ぼした諸侯国の一つである羌、ほかには葷粥(くんいく)や氐(てい)、密須(みつしゅ)などが<あり、>・・・民族や種族としては、南北で分かれる傾向があるもの北はテュルク系、南はチベット族やチベット人の祖とされる彝<(イ)>族とみられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%88%8E
ところ、「雲南北西部と四川に住むイ族の多くは複雑な奴隷制度・・・をもっており、人は黒イ(貴族は四川省西部から雲南省の山岳地帯に南進した騎馬牧畜民族)と白イ(白番の祖先はタイ系の稲作耕作民であったと推定され、早くから雲南省のいくつかの盆地に定住した)に分けられて<いて、>白イと他民族(奴隷略奪の抗争や戦争を積極的に行った結果、タイ系の民族やミャオ族や漢族なども含まれることになった)は奴隷として扱われたが、白イは自分の土地を耕すことを許され、自分の奴隷を所有し、時には自由を買い取ることもあ<って、>・・・現在でも族長(家支)が一族の強固な結束力としてあることを特徴としている<ところ、>家支は血統を意味し、始祖から父子連名制によってつながる父系親族集団である(父子連名制)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E6%97%8F
という、騎馬遊牧民系の支配層が農耕民系の被支配層を支配する社会構造を持っているのが通例であって、そういうグループと、上出の「羌<のように、>その字形に「羊」の字を含むことから、牧羊する遊牧民族という説が古くからある<ものの>、殷墟の生贄の骨の分析結果からは、遊牧民族ではなく農耕民族であることを示唆するデータが得られている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8C
グループとが混在しているのが西戎地域だったということになりそうなのだ。
 そして、以上から、西戎地域における騎馬遊牧民系の支配層は、農耕民で奴隷たる被支配層、と、地域内の彼らの支配下にない農耕民達、更には、周のような先進農耕民諸国、との間で恒常的な緊張関係にあったので、有事即応体制を維持しなければならず、民主的にリーダーを選出したり民主的にグループ運営を行ったりする余裕がなかった、と考えられるのだ。
 (ちなみに、殷の時代における(周を含む)西戎にあっても、かかる事情は基本的に同じだったと思われるが、(周の時代の周とは違って、)殷自体は商人出身者が支配層であり、弥生的縄文人であったので、民主的要素があった。
 例えば、「殷は氏族共同体の連合体であり、殷王室は少なくとも二つ以上の王族(氏族)からなっていたと現在では考えられている」ところだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7 
 こんなことが可能だったのは、殷の当時には、殷に対するところの、構成諸邑という内からの、そして、夷狄(四夷)という外からの、周の当時に比して、脅威がさほど大きなものでなかった、ということなのだろう。)
 理由の第四は、これが一番重要とも言えるのだが、秦の当時の国力とその国力の将来における発展可能性の大きさだ。
 楚の荘王は、生年が不明だが、BC614年に即位した時、直ちに施政を開始しているので既に成人であったはずであり、その7年前に亡くなった、穆公の秦の盛時を熟知していたと思われ、「177名の家臣たちが<穆公に>殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6
とはいえ、早晩、秦は再び盛時を迎えるだろうし、夷狄への領土拡張可能性がある、楚(や越)を除く、燕、晋、秦のうち、前2国の正面の北夷に比べて秦の正面の西戎は脆弱であるので、秦が一番領土拡張可能性が高い、と、考えた可能性が大だ。」(コラム#14970)

 「補足すれば、領土拡張したところで、北夷は騎馬遊牧民なので、戦争の時に騎馬部隊用に徴用できるだけなのに対し、西戎には、農耕民もいることから兵士としての徴用に加えて食糧も供出させることができる、というメリットがある。
 なお、奥地であるところの、揚子江の上流に巴、その更に上流の四川盆地に蜀、の2国があった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E6%98%A5%E7%A7%8B%E5%9C%B0%E5%9B%BE.jpg 前掲
が、楚にしても秦にしても、互いの妨害さえなければ、その気になれば、この2国は孤立していることから、征服することが可能であると判断していたと思われるところ、恐らく、楚側は、北方の中原諸国を楚と秦がそれぞれ削っていくことは当然ながら、それ以外では自身はもっぱら東方へと領土拡張をしていくことにするので、この2国は秦にまかせる、的な了解を秦側との間で交わしたのではなかろうか。
 で、かかる、楚、秦両国の合意を踏まえて、荘王(在位:BC614~BC591年)は、秦の(穆公の子の)康公(在位:BC620~BC609年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
またはその子の共公(在位:BC608~BC604年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
もしくはその子の桓公(在位:BC603~BC577年)、のいずれかと楚秦ステルス連衡を結び、このうちの最後の秦の桓公の時の「桓公10年(前594年)、楚の荘王は鄭を従え、・・・黄河のほとり<の>・・・<邲(ひつ)の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%B2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
で>北の晋軍<・・当時の晋公は景公(在位:BC600~BC581年)・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%85%AC_(%E6%99%8B) >
を・・・破った。この時、<荘王>は覇者<的存在>・・・となった。桓公15年(前589年)11月、魯・楚・秦・宋・陳・衛・鄭・斉・曹・邾・薛・鄫の12カ国が蜀の地(現在の四川省)で会合し、秦からは右大夫の説がこれに出席した。桓公22年(前582年)11月、秦は白狄とともに晋を攻撃した。桓公24年(前580年)冬、晋の厲公が立ち、桓公と黄河をはさんで互いに盟を結んだが、帰国するなり桓公はこれを反古にした。桓公26年(前578年)5月、晋が諸侯を率いて秦を攻撃し、秦は敗走した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
という諸事蹟に照らすと、(念のためもう一度繰り返すが、楚の荘王は、)この中の最後の秦の桓公相手に、BC594年に自分が覇者的存在となった直後に話をもちかけ、楚秦ステルス連衡を成立させた可能性が高く、その証として、秦の(恐らくは、桓公自身の)公女を自分の嫡男の正室にもらいうけた、と、見たい。
 但し、はっきりしているのは、「荘王の子<の>・・・共王<(在位:BC591~BC560年)の>・・・妃<は>秦<出身であることだけだが・・。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 理由の第五は、補足的なものだが、穆公の事績からも窺えるところの、秦における仁政的要素だ。
 その起源についての取り敢えずの私見は、秦君の祖先の方が、周君の祖先よりも、殷・・仁政的志向が周より強い(典拠省略)・・のインナーサークル度が高かったから、というものだ。
 (「嬴(えい)姓<の者達>は殷に<その初期から>仕え諸侯とな<っていた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E8%A9%B1)
 「周は、殷の外地に位置する方国の一つとして位置付けられ、時には殷による征伐の対象となった<が、その>一方で、・・・周は殷に服属していた<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8 )

 (4)楚秦ステルス連衡時代

 この荘王がBC591年に亡くなると、その子である楚の共王は、秦と結んだばかりのステルス連衡を、目立たない姿にとどめながらも形あるものにすべく、BC589年に、魯・楚・秦・宋・陳・衛・鄭・斉・曹・邾・薛・鄫の12カ国の会合を秦と共同開催したのではなかろうか。
 当然ながら、楚の共王には、秦と戦ったり対立したりした形跡は全くない。(上掲)
 この「共王の子<の>・・・<楚の>康王<(在位:BC559~BC545年)>」についても同様だ。
 なお、共王の妃<の詳細>は不明だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 そして、その「康王の子<の>・・・郟敖(こうごう)<(在位:BC544~BC541年)>」についても、妃<の詳細>が不明であることを含め、同様だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%9F%E6%95%96 
 この「共王の次男<の>・・・霊王<(在位:BC541~BC529年)は、>・・・郟敖を殺害して自ら王として即位した」人物であるところ、その妃については、秦ではなく晋の公女と思われる者がいるけれど、秦と戦ったり対立したりした形跡は、やはりない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 「<今度は、霊王の更に弟である>訾敖(しごう)<(在位:BC529)が、>「郟敖が・・・殺害されると・・・晋に亡命し<ていたのだが、>霊王12年(紀元前529年)4月、晋から帰国し・・・兄の霊王を討つべく、国都の郢を攻撃した。<実は、>熊比<が>楚王を称し・・・<たのを受け、>5月、霊王<は>自殺<してい>た<というのに、この>新王訾敖・・・は霊王の死の知らせを聞いて<いなかったことから、霊王の>・・・殺害<を>勧め<られても、>「酷いことはできない」と言って聞き入れな<いままであったところ、>ほどなく国都で「王入矣(王が入城なさった)」という流言があり、・・・霊王の帰還と国人の離反を信じ込んだ訾敖・・・は自殺した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%BE%E6%95%96
 この訾敖の「妃」は不明ながら、そもそもそんな暇などなかっただろうが、訾敖が関わった対外的な対立も戦争も記録されていない。(上掲)

⇒荘王がおぜん立てしたと私が見るに至っているところの、第一次楚秦ステルス連衡、は、当初の一回切りの秦公女の楚への受け入れくらいの連衡象徴行為しか伴っていないにもかかわらず、しかも、その後、上述のように楚で王位継承を巡る混乱が続いたにもかかわらず、そういったことに秦が付け入ることなどなく、この時あたりまで、60年超にわたる、楚秦間の平和が、楚秦以外の中原諸国や呉越の疑惑、懸念を招かない形で維持された、ということに、注意を喚起しておきたい。(太田)」(コラム#14972)

 「 さて、この「<訾敖の弟は、巧妙に>訾敖・・・を自害へと追い込み、・・・自らが・・・平王<(在位:BC529~BC516年)>・・・として即位する。
 平王6年(紀元前523年)、・・・平王は太子建の妃を秦から迎えるため、少傅の費無忌を秦に遣わした。

⇒共王の子の3兄弟の間の、より大きくとらえれば、共王の子の4兄弟間の、王位継承を巡る混乱を受け、平王が、秦とのステルス連衡を改めて確認する形で固めたいと考え、同じ思いの秦も、それに積極的に応じた、ということだろう。(太田)

 しかし費無忌は秦の公女伯嬴の美しさを見て、この公女を平王自身が娶るよう進言した。平王も公女の美しさを気に入り、自らの側室としてしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 「昭王<は、>・・・平王と<この>伯嬴のあいだの子として生まれた。平王6年(紀元前523年)、太子建が宋に亡命すると、太子に立てられた。平王13年(紀元前516年)、平王が薨去すると、楚王として即位した。昭王元年(紀元前515年)、楚人に憎まれていた費無忌を粛清して人気を取ったが、東方の呉による連年の侵攻に悩まされるようになった。
 昭王10年(紀元前506年)、柏挙の戦いで楚軍は呉軍に大敗し、呉軍が都の郢に攻め入ったので、昭王は郢を脱出して随に逃れた。楚の使臣申包胥は秦を訪れ、哀公に救援を求めたが、哀公は当初これに応じなかった。そのため、申包胥は秦の宮廷の庭で7日7晩にわたって泣き続けた。哀公はその忠誠心に感じ入り、ついに楚に援軍を出した。これにより楚は呉軍の撃退に成功し、昭王は郢に戻ることができた。・・・
 <その後、>楚の復興に務めた。同時に呉と対立していた越王の勾践と同盟し、勾践の娘を<二番目の>妻に迎えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A) 
 ちなみに、「柏挙<の>戦い<の後、>・・・呉王闔閭は郢の後宮にいた女性たちを手籠めにした。順番が伯嬴に回ってくると、伯嬴は刃を持って自殺の覚悟を示し、君王の節義を説いたので、闔閭は恥じ入って退出した。伯嬴はその乳母とともに宮中の門を閉ざし、衛兵にも武装解除させなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E5%AC%B4

⇒楚の平王の無軌道ぶりは、どうやら多くの楚人に共通の性向であった可能性がある。
 他方、伯嬴の毅然たる姿勢もまた秦人共通のものだったのではなかろうか。
 もとより、闔閭が伯嬴の凌辱を思いとどまったのは、秦を敵に回してしまうことを恐れたが故だろう。
 この伯嬴とその父たる秦の哀公の連携プレイが楚を救ったわけであり、楚越の同盟も、昭王と母伯嬴というか秦との連携プレイであると想像され、楚秦ステルス連衡の再確認・強化は、大きな成果を挙げたわけだ。(太田)

 「昭王の子<の>・・・恵王<(在位:BC489~BC432年)>・・母<は>越姫<だが、その即位の経緯は下掲参照。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%A7%AB >
・・<は、>恵王10年(紀元前479年)、白公勝<(太子建の子)
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%85%AC%E8%83%9C >
<に>反乱を起こ<され>た。白公勝は子西<(公子申。昭王の異母兄)
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E8%A5%BF_(%E4%BB%A4%E5%B0%B9) >
と子期<(公子結。昭王の兄弟)
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AD%90%E7%BB%93_(%E6%A5%9A%E5%9B%BD)
を殺し、恵王を拉致して<軟禁したが、>恵王の従者・・・が王を背負って昭王夫人宮に脱出した。<やがて、恵王の側が反撃を始め>ると、白公勝は山に逃れて自ら縊死した。・・・

⇒私は、この時点で伯嬴が存命であったのではないかと推測している。
 彼女も昭王夫人宮に住んでいたか、そこに居を移し、自分の孫である楚の平王の命を救うことで、楚秦ステルス連衡の瓦解を防いだのではないか、と。
 白公勝は、かつての闔閭同様、伯嬴の背後の秦を恐れ、彼女の庇護下の平王に手出しができなかったのではないか、と。(太田)」(コラム#14974)

 「恵王16年(紀元前473年)、越王勾践が呉を滅ぼすと、楚の東方進出の障害が取り除かれ・・・恵王42年(紀元前447年)、・・・蔡を滅ぼし<、>恵王44年(紀元前445年)、・・・杞を滅ぼし、秦と和平を結んだ。恵王時代の楚は東方に領土を広げて、泗水のほとりにまで達した。・・・
 恵王<は、>・・恵王57年(前432年)<に>・・・没<する。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 この間、BC455~453年の趙氏の本拠の晋陽の戦いで、晋の六卿は韓氏・魏氏・趙氏の三家となり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B%E9%99%BD%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
「紀元前434年<の晋の>哀公<の>死に<伴い、>3氏は晋領を分割し」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%B6%E5%88%86%E6%99%8B
たのを、恵王は見届け、楚・秦ステルス連衡による天下統一の環境整備がなったと満足して亡くなったことだろう。
 (ちなみに、「晋は曲沃・絳などの小国となった。その後、紀元前403年に周の威烈王により3氏は正式に諸侯となった。そして紀元前349年に、晋の僅かな領土も趙・韓の連合軍が分割、静公は庶民となって、晋は完全に滅亡<することになる>。」(上掲)

⇒BC445年の楚の恵王と秦の厲共公(在位:BC476~BC443年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%B2%E5%85%B1%E5%85%AC
との間で結ばれた「和平」において、楚秦ステルス連衡が、部分的に非ステルス化するに至った、ということになろう。(太田)

 「恵王の子<の>・・・簡王<の妃は不明。晋との戦いに明け暮れた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B0%A1%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 「簡王の子<の>・・・声王<の妃は>・・・曾姫无恤<(?!)。事蹟不詳。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E7%8E%8B
 「声王の子<の>・・・悼王<(在位:BC402~BC381年)は、>・・・悼王2年(紀元前400年)<から>・・・悼王11年(紀元前391年)<に至るまで、>趙・魏・韓の軍の侵攻を受け、楚軍は<苦戦を続けたが、>悼王は秦に厚く賄賂を贈って仲介を頼み、趙・魏・韓と講和することができた。

⇒まだ三晋が対外的共同行動をとっていたことが分かる。
 いずれにせよ、楚と秦のステルス連衡が機能していたことは明らかでは?(太田)

 この頃、・・・悼王は・・・魏<から>・・・出奔してきた・・・呉起を宰相に任用した。呉起は国政や軍制の改革をおこない、軍の強化を図った・・・。
 悼王21年(紀元前381年)、薨去した。王の死後まもなく、呉起は反対派の貴族ら70余家の軍に襲われ、<あえて>悼王の遺体の前で・・・王の遺体にも矢が突き刺さ<る形で>・・・射殺された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%BC%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 「楚の令尹<として、呉起(BC440頃~BC381年)は、>・・・法家的な思想を元とした国政改革に乗り出す。元々楚は宗族の数が他の国と比べてもかなり多かったため、王権はあまり強くなかった。また、国土は広かったが人の居ない地が多く、仕事の割に官職の数が多かった。これに呉起は、法遵守の徹底・不要な官職の廃止などを行い、これにより浮いた国費で兵を養った。さらに、領主の権利を三代で王に返上する法を定め、民衆、特に農民層を重視した政策を取った。これらにより富国強兵・王権強化を成し遂げ、楚を南は百越を平らげ、北は陳・蔡の二国を併合して三晋を撃破、西は秦を攻めるほどの強盛国家にした。この事から呉起は法家の元祖と見なされる事もある(ただし管仲や伝説の太公望も、その政治手法は法家的とされ、時代的には古い)。しかしその裏では権限を削られた貴族たちの強い恨みが呉起に向けられ<た。>・・・
 父の後を継いだ粛王は、反呉起派の放った矢が亡父の悼王にも刺さった事を見逃さず、巧みに「王の遺体に触れた者は死罪」という楚の法律(かつて伍子胥が平王の死体に鞭打ったために、このような法律があった)を持ち出し、悼王の遺体を射抜いた改革反対派である者たちを大逆の罪で一族に至るまで全て処刑した。死の間際において呉起は、自分を殺す者たちへの復讐を目論み、かつ改革反対派の粛清を企てたのである。
 しかしこの機転にもかかわらず、呉起の死により改革は不徹底に終わり、楚は元の門閥政治へと戻ってしまった。この半世紀後、呉起と並び称される法家商鞅<(BC390~BC338年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85 >
が秦にて法治主義を確立。結局、商鞅も恨みを持つ者たちにより処刑されたが、秦はその後も法は残した。そして王と法の元に一体となった秦は着実に覇業を成し遂げていき、楚も滅ぼしたのとは対照的な結果となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%B5%B7

⇒秦の商鞅と楚の呉起とを、法家、と、一括りするのはいかがなものか。
 秦は最初から君主独裁制だったが楚はそうでなかったのを、悼王が、楚も、そろそろ常在戦場の君主独裁制にしなければならないと考え、呉起を使ってそれを試みたものの、楚の江南文化性の壁にぶつかってやはり失敗してしまった、ということだろう。(太田)」(コラム#14976)

 「この間の、楚の各王の姻戚関係が殆ど明らかではないが、楚秦の概ね非ステルス連衡が機能し続けていたことが見て取れる。(太田)

 「悼王の子<の>・・・粛王<(在位:BC380~BC370年)>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9B%E7%8E%8B
「<その弟の>宣王<(在位:BC370~BC340年)>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
「<その子の>威王<(在位:BC339~BC329年)>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A8%81%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A) (太田)

⇒この間↑についてもまた同様だ。
 それが打って変わって、秦の恵文王(BC356~BC311年。在位:BC337~BC311年)・・但し、恵文君14年(紀元前324年)までは恵文公・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%96%87%E7%8E%8B_(%E7%A7%A6)
の正室で恵文王の次の武王の母は『史記集解』によると楚の出身で魏姓・・但し、一説に姫姓魏氏・・であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%96%87%E5%90%8E_(%E7%A7%A6)
また、恵文王の側室で武王の次の昭襄王の母は楚の公女の羋八子であり、「昭襄王の治世において執政した相国の魏冄は<彼女の>異父同母弟で、左丞相の華陽君羋戎は<彼女の>同父母弟である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%A4%AA%E5%90%8E
ことが「明らか」にされるに至る。
 私見は、楚の宣王(在位:BC369~BC340年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A) 
が、秦の孝公(在位:BC361~BC338年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
と調整した上で、まず、楚出身の魏姓の、従って羋姓である公族にはあたらない、才色兼備の女性を、太子たる、後の<秦の>恵文王、の夫人に送り込んだ上で、その他の諸国の警戒心が高まっていないことが見極められた時点で、今度は、楚の王とは遠縁だが羋姓の公族であるところのやはり才色兼備の女性を側室として、そのお付き名目の他のやはり遠縁の公族達と共に、秦に送り込むことによって、楚秦半公然ステルス連衡の紐帯強化を図るように、楚の宣王と秦の孝公が約束を取り交わしていた可能性が大である、というものだ。
 そもそも、大昔における私の言うところの楚の荘王と秦の桓公との間のステルス連衡「締結」には、天下統一直前までに両公室の融合合体を図る含意があった可能性が高いと思っている。
 だから、早晩、更に次のステップとして、楚からその公女を秦の太子に正室として送り込むことも予定されていたのではなかろうか。
 また、考公の太子(後の恵文公)が王号を唱えることにも楚の宣王は了解していたと想像しているが、こういった秦と楚の動きに対する警戒感が一挙に高まって、その他の全諸国による恒常的な反秦楚合従体制が構築されることを回避すべく、太子の代以降のしかるべき時期から、秦と楚が間歇的戦争状態を演じる必要があることについても相互に了解された、とも。(太田)

 上出の約束に基づき、「<楚の、>威王<の子の、従って宣王の孫の>・・・懐王<(?~BC296年。在位:BC328~BC299年)、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%8E%8B
「が即位すると、・・・<恐らく、威王の遺言に従って、>このとき16歳だった・・・楚・・・の<懐王は、自分とは遠縁だが羋姓の公女の羋八子を楚から>秦に嫁<がせ>、秦<の>惠文王嬴驷・・・の妃<、但し側室、にし>た。彼女は一女三男をもうけ<ることとなり、>17歳(紀元前328年)のときに長女の嬴氏を産み、後に嬴氏は燕昭王の后となり<、>20歳(紀元前325年)<のとき>長男の嬴稷を出産し、彼は後に<予定に反して>秦昭襄王となり<、更に、>次男の嬴悝は高陵君に、末子の嬴市は泾陽君に封じられ<ることになる>。」
https://note.com/oversea_u/n/n896ac4803cb1
 「秦<の方>は<、>商鞅の改革により、大幅に国力を増強しており、周辺諸国はこれを恐れ、[恵文王四年(紀元前334年)に恵文王に対して]本来なら主筋であるはずの周から贈り物が贈られるほどであ[り、恵文王は、同年、]新たな官職として相邦(のちの相国)を設立し、樛斿[(きょうゆう)]をその地位に就けた。
 恵文王は、次に、「張儀を登用して樛斿の次の相国(相邦)に任じ、度々魏・斉・楚などを討ち(岸門の役、龍賈の役)、 恵文君14年(紀元前324年)に王号を唱えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%96%87%E7%8E%8B_(%E7%A7%A6)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%9B%E6%96%BF ([]内)

⇒このように、楚宣王と秦孝公の合意は着実に履行されていった、と見るわけだ。
 (なお、上掲引用中の「魏・斉・楚などを討ち」のうち、「楚」は誤りだ。
 BC338年の岸門の役にも、[BC332~330年の]龍賈の役にも、楚は一切関わっていない
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%A5%BF%E4%B9%8B%E6%88%98_(%E6%88%98%E5%9B%BD)
からだ。
 ちなみに、岸門は現在の山西省河津県南の地名であり(上掲)、龍賈は魏の将軍の名前だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E8%B3%88 ([]内も)←龍賈(りゅうか))(太田)」(コラム#14978)

 「「恵文王3年(紀元前322年)、張儀は秦と魏で連衡して韓を共に攻めるため、魏の恵王に遊説し魏で宰相の地位に就いた。
 恵文王6年(紀元前319年)、張儀が罷免され魏を追放されたのち、恵文王8年(紀元前317年)に秦に戻り相国の地位に再度就くまでは中山国の楽池が秦の相国を務めた。
 秦を畏れた諸国は恵文王7年(紀元前318年)に韓・趙・魏・燕・楚の五カ国で連合軍を作り、秦に攻め込んできたが、[<その>合従軍の総大将<を>楚の懐王が努めた<ことになってはいるものの、>・・・合従軍の五国はそれぞれの利害のため足並みが揃わず、実際に出兵したのは魏・趙・韓の三国のみであっ<て、>合従軍は函谷関を攻撃したが、秦軍によって撃破された<挙句、>紀元前317年、・・・秦軍が函谷関から打って出て、韓趙魏の軍に反撃し<て>・・・大敗させ、・・・合従軍の8万2千人<を>斬首<して終わっ>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BD%E8%B0%B7%E9%96%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D318%E5%B9%B4)]
(函谷関の戦い)。

⇒楚の懐王が恰好だけつけただけでサボタージュをすることによって、楚は、事実上秦と戦わなかったばかりか、韓趙魏を扇動して秦と戦わせ、三晋に大ダメージを与えることができたわけだ。
 これぞ、楚秦ステルス連衡の真骨頂である、と、言いたいところだ。(太田)

 恵文王9年(紀元前316年)、<秦は、>秦の領域である関中の後ろに大きく広がる古蜀(巴蜀)を併合する(秦滅巴蜀の戦い)。この地域には三星堆文化を元とした独自の文化を持った国が栄えており、周に対して服属していた。<恵文王が>征蜀の前に張儀と司馬錯<(しばさく)>に対して蜀を取るべきかどうかを諮問したところ、張儀はこれに反対して国の中央である周を取るべきと主張し、司馬錯は蜀を取って後背地を得るべきだと主張した。恵文王は司馬錯の意見を採用して蜀を取り、この事で、秦は大きな穀倉地帯を得、更に長江下流にある楚に対して河を使った進軍・輸送が可能になり、圧倒的に有利な立場に立った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%96%87%E7%8E%8B_(%E7%A7%A6) 前掲

⇒この時に、楚が何等妨害行動を採っていないことが楚秦ステルス連衡存在の裏付け材料の一つだ。
 なお、張儀が反対したのは当然であり、雇われ相邦の彼は恐らく楚秦ステルス連衡のことを全く聞かされておらず、巴蜀併合を行おうとすれば楚が介入してきて楚秦間の全面戦争になるのは必至と見て、まだそんな全面戦争はできないと思ったのだろう。
 他方、司馬錯は司馬遷の八世の祖にあたる秦人たる将軍であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%8C%AF
うすうす楚秦ステルス連衡の存在に感づいていた可能性がある。
 いずれにせよ、この時、周を打倒するオプションが議論されたことは、秦が、かつての周に取って代わる形での天下統一の意思を表明したに等しく、どんなかん口令を敷いても諸国が知るところになったであろうことから、秦と楚の一体性を積極的に隠蔽する必要性がこの時点で一挙に高まったと言えよう。(太田)

 (5)楚秦ステルス連衡破綻欺騙期兼両公室合体化期

  ア 楚秦ステルス連衡破綻欺騙

 秦がまだ恵文王であった「紀元前313年、秦の張儀が楚の懐王と面会し、秦が商於の地方600里を割譲することを条件に、楚に斉と断交するよう要請した。懐王はこの条件を受け入れ、斉との同盟を破棄した。しかし懐王が一将軍を派遣して土地を受け取りに行かせると、張儀は商於6里を割譲するのが条件だったと言い張った。懐王は秦を攻撃する軍を発した。
 紀元前312年春、魏章率いる秦軍と屈匄率いる楚軍が丹陽で戦い、秦軍は楚軍を撃破した。楚の武装した兵士80000人が斬られ、楚の大将軍の屈匄や裨将軍の逢侯丑ら70人あまりが捕らえられ、漢中郡が奪取された。懐王は激怒して、国中の兵を動員して再び秦を襲ったが、藍田で敗れた。韓と魏が楚の敗戦を聞いて、楚を攻撃し、鄧にまで達した。楚軍はこれを聞くと、兵を退いて帰還した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E9%99%BD%E3%83%BB%E8%97%8D%E7%94%B0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
という成り行きとなる。
 「その後、秦から楚に土地を割譲する事で和睦しようという交渉が持ちかけられたが、懐王は「土地など要らぬ。張儀の命が欲しい」と言い、これに答えて張儀は楚に行った。張儀には生還する策があった。懐王の寵姫である鄭袖に人を使って「秦は張儀の命を救うために懐王に財宝と美女を贈るつもりです。もしそうなったらあなたへの寵愛はどうなるでしょうな」と言わせ、不安に思った鄭袖は懐王に張儀を釈放する事を願ったので懐王は張儀を釈放した。こうして張儀は強国である斉と楚の同盟を崩した上で楚を叩き、和睦にも成功することで合従を崩した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%84%80
というものであるところ、上出の楚の懐王の「秦との戦い」の最後のものは、「恵文王14年(紀元前311年)<に秦の>恵文王が没すると<、>太子であった太子蕩が<武王として>即位した<が、彼は、>恵文王の臣をそのまま用い、司馬錯が楚を討ち、商・於の地(かつて商鞅が封ぜられた土地)を奪<いかえし>て黔中郡を設置する成果を挙げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%8E%8B_(%E7%A7%A6)

⇒張儀(~BC309年)は、魏出身の、楚に恨みのある縦横家で連衡策を追求した人物であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%84%80
秦の恵文王は、張儀に責任転嫁できる形で、(楚秦ステルス連衡の存在について完全に無知である)張儀をわざわざ登用して、その彼に楚を弄び痛めつける政策を追求させることによって、まかり間違えても楚以外の諸国が一致団結して秦(と楚)を叩き潰しに来るようなことがないようにした、というのが私の見方だ。
 秦の恵文王が楚の懐王にだけは密かに真意を伝達していた可能性すら私は排除しない。
 とにかく、当時の秦と楚の国力を併せても、その他の諸国全てと戦うようなことになればまだ勝ち目がないため、何が何でも、楚秦ステルス連衡の存在を、一旦は強く隠蔽する必要があると考えた、と、私は言いたいのだ。」(コラム#14980)

 「例えば、丹陽(たんよう)は、現在の湖北省の西部に位置する宜昌市内の南東部に位置する県級一の枝江市であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9C%E6%98%8C%E5%B8%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%9D%E6%B1%9F%E5%B8%82
また、藍田(らんでん)は現在の陝西省西安市内の東部に位置する県であるところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%8D%E7%94%B0%E7%9C%8C
当時の楚と秦の領内で行われた丹陽・藍田の戦いは、秦の恵文王と楚の懐王の事前の調整の下、小競り合い程度の両軍の戦闘を二度にわたって行い、その結果を誇張して記録に残し、そのようなものとして、秦楚以外の諸国に伝わるように仕組んだ、というのが私の見方なのだ。
 ところで、秦の恵文王が相邦という現在の君主制/大統領制下の首相に相当する職位を設け、その子の武王が一旦丞相(但し左右2名制)という名称に変えつつ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%9E%E7%9B%B8
爾後、秦の王は独裁できるというのに、この相邦/丞相なる職位を、支那史上初めて設けて維持し続け、かつ、その職位に多くは他国出身者を就けたのは、きれいごとで言えば、広く人材を求めた、ということになるけれど、その最大の所以は、自分自身や秦出身の重臣が起案してしまうと、楚秦ステルス連衡を前提にした案になりがちでこの連衡の存在が露見しかねないので、白紙の状態で雇われ重臣に責任を持って起案してもらい、ステルス連衡とどうしても相容れない場合に限ってその案を却下することができるようにするためだ、と、私は考えている。
 なお、相邦/丞相が雇われ重臣である限りは、秦内に基盤を持たないため、王位がその人物によって乗っ取られる恐れ(上掲)がないことも顧慮されたに違いない。(太田)

 「恵文王14年(紀元前311年)、恵文王が没すると太子であった太子蕩<(武王)>が即位した。・・・武王は太子の頃より謀略家である張儀と不仲だったため・・・張儀は・・・<出身の>魏に赴<き、>・・・秦に帰る事無く、そのまま魏で没した。・・・
 <この武王は、>武王3年(紀元前308年)・・・秦に初めて丞相を設置し、<どちらも秦人であるところの、>樗里疾(恵文王の弟、樗里子とも)と甘茂をそれぞれ左右の丞相とした。・・・
 武王4年(紀元前307年)8月、洛陽を訪れた武王は孟賁という大力の持ち主と鼎の挙げ比べを行い、脛骨を折って死去した。・・・
 子がないままの急逝だったために後継者争いが起こったが、燕にいた異母弟の公子稷が即位した。これが昭襄王である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E8%8C%82

⇒昭襄王(在位:BC306~BC251年)は、「公子稷は当時燕にいたが、趙の武霊王の計らいで、・・・燕から趙に迎え入れ秦に送り届けられた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E8%A5%84%E7%8E%8B
ところ、武王は、恵文王と楚出身ながら公族ではない魏夫人との間での子であったところ、武王には男の子がおらず、急逝した武王の庶長兄として、恵文王と楚とは縁もゆかりもない女性との間に生まれた公子壮がおり、群臣のほとんどが公子壮推しだったので、このままでは楚秦ステルス連衡について完全に蚊帳の外であったこの公子が秦王に即位すれば、楚秦ステルス連衡が崩壊しかねないことを危惧し、宣太后らは趙の武霊王の助けも借りて強引に公子稷を秦王にしたのだろう。
https://historicalfact.net/keibunkou/ ←事実関係
 しかし、「昭襄王元年(紀元前306年)から昭襄王2年(紀元前305年)にかけて、先の後継者争いで敗れた庶長の公子壮(季君)が・・・公子雍ら反対勢力を結集して叛乱した。魏冄により叛乱は鎮圧され、昭襄王の兄弟で叛いた者は皆処刑され、恵文后もこの叛乱に加担した罪で処刑され、武王后は故国の魏に放逐(または自ら逃亡)された(季君の乱、または庶長壮の反乱)。・・・<但し、武王后は、>『史記』「穣侯列伝」では武王より先に亡くなったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%96%87%E5%90%8E_(%E7%A7%A6)
 (ところで、どうして武霊王はこんな便宜を図ったのだろうか?
 趙の趙氏は姓が嬴であり秦の公室と同祖とされ、「周の穆王に仕えた名御者の造父が趙城に封ぜられたのが趙氏の始まりと言われている<ところ、>その後、趙氏は晋に仕え」、更にその後、晋から「独立」したわけだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99_(%E6%88%A6%E5%9B%BD)
が、この点では、周の穆王の3代後の孝王から秦の地に封じられたところの、同じ姓は嬴、氏は趙の秦の公室
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6 前掲
の先輩にあたることから、武霊王が西方の秦と干戈を何度も交えつつも、秦に親近感を覚えていたとしても不思議ではないし、いずれにせよ、そもそも、彼は、どちらかというと、秦よりも東方の斉を征服したいと思っており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E9%9C%8A%E7%8E%8B
秦との関係改善を欲していた、と思われる。
 では、どうして、公子壮ではなく、公子稷に肩入れしたのだろうか?
 それは、趙の礎を築く趙盾の父親である祖先の趙衰(ちょうさい。?~BC622)が、「紀元前653年、驪姫の乱の策謀を避けて出奔した重耳<(晋の後の文公)>に従い、その後19年にわたって諸国を放浪した<際、>・・・紀元前637年、重耳が楚の成王に招かれたとき、成王は重耳の器量を認めて、自分と対等の者に対する礼をもってもてなし<、>・・・同年、秦の穆公が、重耳を迎え入れ<、>・・・紀元前636年、ようやく・・・重耳<と一緒に>帰国し<、>・・・重耳は晋君として即位し、文公とな<り、>・・・紀元前635年、晋が周の襄王より原の地を賜った際には、その伯に任じられた。紀元前629年、上軍の佐である狐毛が没すると、後任に任じられ<、>紀元前625年には、中軍の佐に任じられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E8%A1%B0
という史実から、楚と秦の両国どちらにも、武霊王は恩義を感じていて、秦における楚出身の有力者達と彼らが推している公子稷に対して便宜を図ったのだろう。
 このように、歴史が、武霊王に限らず、当時の拡大中原の人々の意識や行動を規定していたと思われる、ということを指摘したいがために、少々立ち入った追究をしてみた。)(太田)」(コラム#14982)

  イ 楚秦両公室合体化

 「しかし、楚秦両国は、ステルス連衡破綻欺騙を行いつつ、両公室合体化を推進していた。★★★
 ここで、この時期の秦における楚の公族一覧を掲げるが、ご覧になれば、説明を要しないだろう。(⁂が楚の公族を示す。)

秦恵文王
  |——————————–|
|-⁂宣太后(父母不詳)        | |
|-⁂魏冄(異父同母弟)(秦相国)   |
|-⁂華陽君羋戎(同父母弟)(秦左丞相)|
|
|
↓———————————-
↓ ⁂昌文君(楚考烈王同様、楚頃襄王の子。生誕秦。秦左丞相)
昭襄王
↓-娘(後の楚考烈王の妃)-⁂昌平君(生誕秦。華陽太后が養育。秦右丞相、後楚王)
↓-考文王-荘襄王-始皇帝
   ||
 |-⁂華陽太后(宣太后らの親族。後の荘襄王の養母)
|-⁂陽泉君(宣太后らの親族。呂不韋の要請で華陽太后の養子縁組を仲介した)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%A4%AA%E5%90%8E

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%A4%AA%E5%90%8E
https://baike.baidu.com/item/%E9%98%B3%E6%B3%89%E5%90%9B/8408632
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%90%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E6%96%87%E5%90%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E7%83%88%E7%8E%8B

⇒宣太后(?~BC311年)は、「楚<が>韓を攻め、韓<が>秦に救援を請う<た際、>・・・秦にとってメリットが<ないとして、>これを拒否」している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%A4%AA%E5%90%8E
が、このことは、まさに、当時の楚秦のステルス連衡破綻が欺騙であったことを示唆している。(太田)

 ちなみに、上掲一覧中に出てくる楚の「頃襄王(けいじょうおう)は、・・・在位:紀元前298年 – 紀元前263年<であり、>姓は羋、氏は熊<、>諱は横<で、>懐王の子<だ>。
 [<付記すれば、それまで、秦では、昭襄王の>母である宣太后が摂政し、宣太后の弟であった魏冄と華陽君(羋戎)の2人が実権を握<っていたところ、・・・この>昭襄王<が、昭襄王>3年(紀元前304年)<に>冠礼(成人の礼)を行<うと、その>同<じ>年<に>、・・・楚の懐王は秦に盟約を求め<、>昭襄王は黄棘の地で盟約し、その際に楚に上庸の地を与えた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E8%A5%84%E7%8E%8B ]
 懐王26年(紀元前303年)、楚が斉・韓・魏の攻撃を受けると、懐王は秦に救援を求めるため人質として太子横を秦に送った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%83%E8%A5%84%E7%8E%8B

⇒ここからも、少なくとも秦で昭襄王が独り立ちした時点までは、楚秦ステルス同盟が顕在であったことが分かろうというものだ。(太田)」(コラム#14984)

 (6)天下統一の前倒し的開始

 「昭襄王(BC325~BC251年。在位:BC306~BC251年)は、「年少で即位したため、母である宣太后が摂政し、宣太后の弟であった魏冄と華陽君(羋戎)の2人が実権を握・・・った」ところ、「昭襄王3年(紀元前304年)、冠礼(成人の礼)<が>行<われ>た」ものの、「魏冄・涇陽君・高陵君・華陽君らを秦の国内であった函谷関の外に追放し<、>[魏出身の]范雎<[(はんしょ。?~BC255年?)]を>宰相<にした>・・・昭襄王42年(紀元前265年)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E8%A5%84%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E9%9B%8E ([]内)
まで、楚秦ステルス連衡を抱懐する楚出身勢力が秦を牛耳っていたのはもちろんだが、実際には、それ以降も、いや、昭襄王逝去後も、この時・・BC306~304年の間・・に確立された戦略に基づいて秦は行動して行くことになった、と、私は見ている。
 それは、武王の不慮の死と昭襄王の就位により、楚出身勢力が秦を牛耳っていることが明白な状況が予定していたよりも前倒しで到来してしまったことから、リスクはあるけれど、秦による天下統一にも前倒して着手することとすると共に、楚秦両公室の一体化を盤石なものにすべく、(昭襄王の子でBC267年に魏への人質時代に病死してしまう悼太子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%BC%E5%A4%AA%E5%AD%90
にも楚の公室の女性を送り込んであった可能性があるが、)「楚の公女<(後の華陽夫人)を<、お付きの楚男性公子群を伴う形で、>昭襄王の次男の嬴柱(後の孝文王)<の継室に迎え>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%A4%AA%E5%90%8E
、それと同時に、楚秦両公室の一体化の顕在化が残りの全諸国の合従をもたらさないよう、秦は楚と「ガチンコ戦争」を間歇的に続け、何らかの時点で楚を「軍事的に打倒」し楚を「併合」する。
 そして、かかる戦略の一環として、まず、「昭襄王42年(紀元前265年)、<その>2年前・・・の悼太子<の>病死<を受け>・・・、昭襄王<に>嬴柱を安国君として太子に指名<し、>この時、安国君の正室として華陽の号を<贈らせた。>」(上掲)
 この戦略は結果的に成功を収め、80年超後のBC221年に、昭襄王のひ孫の政によって天下統一がなるわけだ。
 しかし、華陽夫人には(後の孝文王との間に)男の子ができず、その養子となった子楚(後の荘襄王)に楚公女の妃はおらず、また、子楚の子の政は、楚の血が薄く、かつ、母親から楚人的な訓育を受けることがなかったため、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D ←政に係る事実関係
楚秦両公室の一体化は最後まで盤石なものにはならず、このことが、後で述べるように、致命的な悪影響を爾後の支那史に与えることになる、と、見るわけだ。
 以下、果たして、このような見地から、爾後の天下統一の進捗や秦楚関係の推移を本当に説明することができるかどうかを検証してみよう。↓

 「昭襄王4年(紀元前303年)、昭襄王は魏を討ち、魏の蒲阪・晋陽・封陵の地を取った。しかし翌昭襄王5年(紀元前302年)に魏の襄王が秦に来朝したため、蒲阪の地を還した。・・・

⇒侵攻目的が天下統一への着手ではないと装うため、魏の首都を目指さず、中途で侵攻を切り上げ、しかも、奪取地域の一部を返還したわけだ。(太田)

 昭襄王10年(紀元前297年)、楚の懐王が秦に入朝したが、昭襄王は懐王を信じず、秦に拘留した。
 昭襄王11年(紀元前296年)に懐王は趙に逃げたが、趙が受け入れなかったため再び捕らえられ最後は秦で死んだ。・・・

⇒ここは、秦楚一体視がなされないように、両王が協力して大田舎芝居をやってのけた、ということでは?(太田)

 昭襄王11年(紀元前296年)、斉の宰相となっていた孟嘗君は<、秦に対する個人的恨みもあり>、斉・韓・魏を主力とし、趙(に併合されていた中山<を含む>)・宋の軍と合わせて秦に攻め込んで来た。秦は函谷関で敗れ・・・(塩氏の戦いまたは五国攻秦の戦とも)<、>昭襄王は・・・河北および封陵の地を与えて和睦した。・・・

⇒楚が合従軍からイチ抜けの状態ながら、そのことが余り問題になった形跡がないのは、上出の芝居の効果ということでは?(太田)

 昭襄王13年(紀元前294年)、・・・韓を討ち、武始の地を取った。・・・昭襄王14年(紀元前293年)、・・・韓・魏を討<っ>た。伊闕の地で首を斬ること24万を数え、5城を抜くことに成功した(伊闕の戦い)。秦が魏を伊闕で破ると聞くと、東周は秦に攻められることを恐れて、使者を派遣して和議を講じるようになった。・・・引き続き魏を討<っ>た。黄河を渡って魏の安邑以東、乾河にいたる地を取った。翌年・・・垣の地を取り、大小61もの城を落とし・・・た。
 昭襄王15年(紀元前292年)、・・・魏を討<ち>、魏の軹と鄧の地を取った。・・・
 昭襄王17年(紀元前290年)も引き続き魏を討った。魏は河東の地、方四百里を献じて講和を求めたが受け入れず、・・・60余りの城を陥れることに成功した。
 昭襄王18年(紀元前289年)も引き続き魏を討った。・・・垣・河雍・決橋を攻めてこれらを取った。

⇒対魏から始めたサラミ戦術を対韓、対魏にも適用したということ。(太田)

 増強する国力を背景に紀元前288年に昭襄王は西帝を称した。・・・<そして、>斉の湣王に東帝の帝号を贈ったが、斉がすぐに帝号を捨てたので、昭襄王もとりやめた。・・・」(コラム#14986)

 「 この「斉秦互帝(せいしんごてい・・・)は、紀元前288年に・・・秦の昭襄王が西帝を自称し<、>斉の湣王へ魏冄を派遣し秦と斉が盟を結び、<斉は>東帝を称し、共同で趙を攻めるように要請した・・・事件」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E7%A7%A6%E4%BA%92%E5%B8%9D
だが、その結果、斉において、「「周冣」が「親弗」&「呂礼」ら(<親>秦派)に斉国を追放され、「呂礼」が宰相に任じられるという事件が起こり<、>それに危機を感じた(反秦派)<で>・・・合従で有名な・・・「蘇秦」が<自分の>・・・兄<の>・・・「蘇代」を使って、「孟嘗君」<(反秦派)>に「呂礼」を失脚するよう工作を<行い、>「蘇代」の助言に従った「孟嘗君」は、「斉王」に「呂礼」を追放するように助言し、結果、「呂礼」は斉国を追放されてしま<う>。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1320102598
という政争を惹起、恒常化させ、この斉において、自国さえ首肯すれば、いつでも秦は斉秦同盟を締結し、天下を斉と秦で分割することを飲む、という思い込みを醸成することに秦は成功した、というのが私の見方だ。
 なお、「蘇秦・・・は・・・共同で趙へ侵攻するより、暴虐ぶりで『宋の桀』と知られる康王の宋へ侵攻することが有利です」と説<き、それに>斉王は同意し、帝号から王号に戻し<たことを受け、>12月、・・・<秦の>昭襄王<も>帝号を廃し、秦王<に戻>した。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E7%A7%A6%E4%BA%92%E5%B8%9D
 そして、「宋<は、その2年後の>・・・紀元前286年、斉・魏・楚の連合軍にあっけなく敗れ、宋王偃は殺され、宋は滅亡し<、その>領地はこの戦勝国により3分された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%8E%8B_(%E5%AE%8B)
が、こうして西進を果した斉との直通回廊の構築を後に秦は目指すことになる。
 (父、恵文王が、恵文君14年(BC324年)に秦として初めて王号を唱えたばかりだというのに、兄武王を経て就位した、昭襄王、が、BC288年に帝号を唱えたことには、対斉謀略の目的だけではなく、墨家の思想により、誰にも隷属しない王となって義の統一を行わなければならない(コラム#1640)と恵文君が思い、昭襄王は、殷王も周王も義の統一を行わなかったことから、更に一歩を進め、王号に代わる君主号を模索していたからだ、というのが私の見方だ。
 ちなみに、秦王政の時に李斯によって誅殺された「韓非子<は、>・・・、<支那の>当時の「顕学」(勢力が顕著だった学派)は、「儒」(儒家)と「墨」(墨家)の二学派であ<る>」としているが、墨家は、楚で栄えた「後、秦に拠点を移し」ていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%AE%B6
ところ、池田知久は、この「後期墨家・・秦墨・・(前300~前206)<は>、兼愛・非攻を実現するために現実に妥協して中央集権を理論化・・・し、その根拠づけのために宗教的な天・鬼神の存在を認める<に至り、>・・・末期墨家(前206~)<になると、>・・・この路線変更<を踏まえ、積極的に>秦・漢帝国の体制作りに貢献した」と指摘している。
https://kotobank.jp/word/%E5%A2%A8%E5%AE%B6-132676 
 なお、池田知久(1942年~)は、東大文(中国哲学)卒、同大院博士課程中退、高知大、岐阜大を経て東大助教授、教授、同大博士(文学)、同大名誉教授、大東文化大教授、という人物だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E7%9F%A5%E4%B9%85 )(太田)

 昭襄王21年(紀元前286年)、・・・魏の河内を攻めた。魏は安邑を秦に献じた・・・。
 昭襄王22年(紀元前285年)、・・・斉を討<っ>た。・・・

⇒非接壌国を秦単独で攻撃できるわけがないのでミスプリか?(太田)

 同年、昭襄王は・・・三晋(韓・魏・趙)および[斉への復讐のために謀略を行い音頭をとった]燕と共に斉・・[斉は(前述したように)宋を攻撃、滅亡させ、諸国の憤激を買っていた]
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E8%A5%BF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 []内>
・・を討ち、済水の西で斉を破った(済西の戦い)。・・・

⇒秦(・楚)が最大の脅威だというのに、斉の愚行に気を取られ、対秦(・楚)合従どころか、諸国は、秦(・楚)の脅威から眼をそらせていたわけだ。(太田)

 昭襄王24年(紀元前283年)、魏を攻めて魏の安城を取り、大梁に赴いたが、燕と趙が魏を援けたので、秦軍は兵を引き上げた。・・・
 昭襄王25年(紀元前282年)、昭襄王は趙の2城を陥れた。・・・

⇒秦はついに趙にもサラミ戦術を発動したわけだ。(太田)

 昭襄王27年(紀元前280年)、・・・隴西から兵を出して蜀に出て、楚を討った(黔中の戦い)。・・・

⇒そして、最終的に、楚にもサラミ戦術を発動したように装った。
 バレないように、両国は、相当本格的に戦ったのではなかろうか。(太田)

 同年、・・・趙を討ち、代と光狼城を取った。・・・その後昭襄王は<またも>趙を討<った。>・・・
 昭襄王28年(紀元前279年)、昭襄王は・・・楚を討った(鄢・郢の戦い)。・・・秦軍は楚の内地に進撃し、劣勢な兵力にもかかわらず、水攻めを利用して鄢と鄧の地を取・・・った。
 昭襄王29年(紀元前278年)、・・・楚の首都郢を占領し、楚の先王の陵墓がある夷陵を焼き払った後、竟陵まで至った。鄢・郢の地には南郡が設置され、秦の版図とした。楚の頃襄王は秦軍の攻勢を避けて陳へ逃亡した。・・・
 また、昭襄王30年(紀元前277年)には・・・楚を討ち、巫郡および江南を取り、秦の版図として黔中郡とした。・・・

⇒秦が楚に赫赫たる戦果を挙げたように見えるが、楚は、その前の済西の戦いの結果、東北方の淮北
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%AE%E5%8C%97%E5%B8%82
を獲得していたので、その領土の広さに殆ど変化をきたしていないことを忘れてはなるまい。(太田)

 昭襄王31年(紀元前276年)、・・・魏の討伐に命じ<、>魏の2城を取るなど・・・した。
 昭襄王32年(紀元前275年)、・・・魏の討伐を命じ、魏の首都大梁まで迫り、魏将暴鳶の軍を破って遁走させた。
 余勢を駆って、翌昭襄王33年(紀元前274年)・・・にも魏の討伐を命じ、魏の巻・蔡陽・長社の地を取った。
 昭襄王34年(紀元前273年)、魏・・・軍を破り、首級13万を挙げた(華陽の戦い)。
 この年、秦に従わない趙を・・・討<ち>、その士卒2万人を河中に沈めることに成功した。続いて昭襄王は討伐した魏を臣事させ<た。>・・・

⇒秦があえて魏を消滅させなかったことも韜晦ってやつだ。(太田)

 <そして、>本格的な楚討伐に乗り出そうとした。
 秦に使いに来ていた楚の春申君はこれを聞き昭襄王に上書した。春申君は、「今、天下には秦と楚より強い国はありません。王は楚を討とうとされますが、これはちょうど二匹の虎が互いに戦うようなもので、ともに傷ついてしまい、良策とはいえません。また大王は天下の地を領有し、威力はここに極まったと言うべきです。この威力を保守し、仁義の道を厚くすれば、いにしえの三王(三皇)や五覇(春秋五覇)と肩を並べられましょう。ここは、逆に楚と和親されるのがよろしいかと存じます」と言った。
 昭襄王はそれに従い、出兵を取りやめて楚と和親した。その後楚は、人質として太子完(後の考烈王)と春申君を差し出し、秦と楚の大国二国はしばらく争うことがなかった。

⇒秦楚が調整し、そういうストーリーにしたということだろう。
 とにかく、絶対にそれ以外の(魏が抜けた)全諸国の合従が成立しないように、細心の注意を払って、「両国」は着実に天下統一を進めていったというわけだ。(太田)

 昭襄王36年(紀元前271年)、昭襄王は・・・斉を討った。・・・

⇒魏を属国化していたので、斉は事実上秦の接壌国になっていたから、こんなことができるようになったわけだ。(太田)

 昭襄王38年(紀元前269年)、秦に従わない趙を・・・討った(閼与の戦い)。・・・
 昭襄王42年(紀元前265年)、・・・宣太后を廃し、魏冄の宰相職を免じた。また、魏冄・涇陽君・高陵君・華陽君らを秦の国内であった函谷関の外に追放した。・・・

⇒昭襄王は、慎重の上にも慎重に、楚秦の一体性を気取られないように、宣太后以下と示し合わせた上でそうしたのだろう。(太田)

 昭襄王43年(紀元前264年)、秦に従わない韓を・・・討った(陘城の戦い)。
 同年、楚の頃襄王が病で倒れたため人質として秦にいた楚の太子完は帰国を願い出た。・・・春申君は一計を案じ、・・・太子完<を>・・・ひそかに出国<させたが、>・・・<最終的には>春申君の帰国<も>許した。・・・

⇒春申君は芝居の名人、で決まりだろう。(太田)

 昭襄王47年(紀元前260年)、昭襄王は左庶長王齕に命じて韓を討ち、韓の上党の地を取った。しかし、上党の民は秦ではなく趙に降った<。>・・・<しかし、結局、>趙軍40万<が>降服し・・・<その全員を>穴埋めにして殺した。・・・
 昭襄王48年(紀元前259年)10月、昭襄王は・・・再び上党を平定<し、>・・・韓の垣雍と趙の六城を取って講和した。・・・
 昭襄王50年(紀元前257年)、昭襄王は援軍を送ったが勝てず、・・・白起の爵位を剥奪し、白起に剣を与えて自害を命じた。白起は自刎し果てた。・・・秦の統一への道は、常勝将軍白起を失い大きく頓挫することとなった。

⇒これは、天下統一のスピードを緩めることで諸国を欺くために、わざと昭襄王がやったことではなかろうか。(太田)

 昭襄王51年(紀元前256年)、昭襄王は・・・鄭を討ち、国都を落とした。

⇒まだ鄭が存続していたとは驚きだが、小国ゆえ、大した波風は立たないと判断し、珍しく、一挙に滅亡させたのだろう。(太田)

 同年12月、趙<を>・・・攻略<し>、趙の寧新中の地を抜くことに成功した。同じころ・・・韓を討ち、韓の陽城・負黍の地を取った。
 この年に、周の赧王と王室の分家の西周の文公(当時の周は、分家である周公家が東西に分裂していた)が秦と敵対し、諸侯と結んで秦を討った。昭襄王は・・・西周を討った。西周の文公は降伏して秦に投じ頓首して罪を謝し、領地の邑と人民を秦に献じ、そのすぐ後に赧王は崩じた。邑と人民を失った周は実質的に滅んだ。
 翌昭襄王52年(紀元前255年)、西周の民は残っていた東周君の領地に逃げ、周に伝わった九鼎は秦に接収された。ここに800年続いた周は滅亡した。残った東周君も、荘襄王元年(紀元前249年)に呂不韋によって攻め滅ぼされ<ることになる>。

⇒周を首の皮一枚残して完全滅亡させなかったのも、そこまですると、楚と魏以外の全ての諸国の合従が成立する恐れが皆無ではなかったからだろう。(太田)

 昭襄王53年(紀元前254年)、天下の諸侯が秦に入朝したが、魏が入朝しなかったため、・・・魏を討<ち、>呉城の地を取った。
 昭襄王56年(紀元前251年)閏9月、昭襄王は75歳で薨去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E8%A5%84%E7%8E%8B 」(コラム#14988)

 (6)暗転

 「⇒これから、予期せぬ出来事が続き、次第に楚秦ステルス連衡が瓦解して行くことになる。
 その1は、華陽夫人に子供ができなかったことであり、かつまた、「昭襄王56年(紀元前251年)閏9月、・・・昭襄王が薨去し、安国君が孝文王となり、華陽夫人が華陽后、子楚が太子とな<り、>また母親の唐八子に唐太后<が>諡号<され、>孝文王元年(紀元前250年)10月己亥、父の喪が明けて正式に即位したが、3日後に<その孝文王が>53歳で薨去し<てしまっ>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%96%87%E7%8E%8B
ことに伴い、楚公室の血が薄まった、つまりは楚人的養育を殆ど受けなかったところの、子楚、が「予定」よりも大幅に前倒しで秦王(荘襄王)として即位したことだ。
 その2は、今度はこの荘襄王(BC281~BC247年)が、「35歳で・・・在位・・・わずか3年で・・・薨去<してしまった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E8%A5%84%E7%8E%8B
ことだった。
 その3は、「その跡・・・<、更に楚公室の血が薄まった、つまりは、楚人的養育を全く受けなかった>嬴政が秦王に即位<することとなったが、幸か不幸か、>年齢は僅か13歳であり成人の儀も終えておらず、政治は太后と大臣に委ねればならず22歳で成人するまでは親政を行うことはできない状態であ<り、>秦の法における執政権の継承順位として一位が華陽太后、二位が夏太后、生母の趙姫は末位であった<ところ、>・・・嬴政即位時の外戚勢力は<、下掲の>「楚系」「韓系」「趙系」の三つ<、>・・・
楚系 華陽太后、昌平君、昌文君
韓系 夏太后、成蟜
趙系 趙姫、呂不韋、嫪毐
・・・に分けられると、歴史学者の李開元<・・北京大歴史学科卒、東大博士(文学)、日大教授を経て現在北京大人文社会学研究所客員研究員・・
http://www.ihss.pku.edu.cn/templates/yf_xz/index.aspx?nodeid=220&page=ContentPage&contentid=2830
が指摘し>てい<て、楚系が一定の、しかも相対的に抜きんでた、影響力を及ぼすことはできたとはいえ、>・・・これまでの慣例から秦王嬴政の婚姻には華陽太后が大きく影響力を持っていたと考えられ、<例えば、私は異論があるけれど、嬴政の長子扶蘇の母親となった女性は華陽太后や昌平君・昌文君らが自らの祖国である、楚の公族から選んだ者であったのではないかと日本の考古学者で愛媛大学名誉教授の藤田勝久は主張している<ところ、政務に関しては、>・・・華陽太后が秦王政17年(紀元前230年)に薨去した事と、<その年に>30歳を迎えた秦王嬴政の親政に伴い、外戚勢力の影響力は影を潜めていく」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%A4%AA%E5%90%8E
までの間は、楚勢力、すなわち、楚秦ステルス連衡推進勢力の秦における力が甚だしく低下する事態となってしまったことだ。
 そもそも、即位時に13歳の政に対して、それまでに、父荘襄王が、楚秦ステルス連衡についてきちんと伝達していたかどうかすら怪しいものだし、その後、この連衡について華陽太后が政に伝達する機会はあっただろうが、政は、30歳になるまでは、(楚秦ステルス連衡のことなど全く知らない)自分の「仲父(ちゅうほ)たる(荘襄王の時からの)相邦たる呂不韋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E4%B8%8D%E9%9F%8B
に異論を唱えられる立場にはなかったと考えられることも指摘しておこう。
 その4は、この政が、春秋戦国時代の国主となった者達の中でもとりわけ過酷な青少年時代を送った・・「政の父・異人は呂不韋の活動の結果、華陽夫人の養子として安国君の次の太子に推される約定を得た・・・が、曾祖父の昭襄王は未だ趙に残る孫の異人に一切配慮せず趙を攻め、昭襄王49年(紀元前258年)<と>・・・昭襄王50年(紀元前257年)に・・・邯鄲を包囲した・・・ため、趙側に処刑されかけ・・・、番人を買収して秦への脱出に成功した<ものの、>妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされ<、>趙は残された二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった」し、荘襄王の死後、「呂不韋<が>・・・太后となった趙姫とまた関係を持<ち、更に、>・・・嫪毐<を、その>・・・あごひげと眉を抜き、宦官に成りすま<させ>て後宮に入<れた結果、>・・・やがて太后・・・<と>の間に・・・二人の男児が生まれた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
・・ことから、私の言葉を用いれば、楚の公室の弥生的縄文性と秦の公室の弥生性が両公室の事実上の一体化によって縄文的弥生性を帯びるようになっていたというのに、弥生性こそ帯びているが、(広義の中原諸国の被治者達同様の人間不信の利己的)普通人になってしまった、秦王政の下で天下統一がなってしまったことだった。
 (「陳舜臣は、敵地のまっただ中で追われる身となった・・・幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している」(上掲)とだけ言っているようだが、幼少時や青年時の体験のプラス面だけでなく、マイナス面も見ないとは!)
 この結果、一体どういうことになったのかを後述する。(太田)

 「荘襄王元年(紀元前249年)、東周が諸侯と謀って秦を裏切ろうとすると、呂不韋を派遣してこれを討伐し、東周を滅ぼした。・・・

⇒昭襄王がやってきたことを完結させたわけだ。(太田)

 一方、蒙驁(蒙恬の祖父)は韓を攻めて成皋と鞏を取る。この頃、秦の国境は魏の都である大梁まで至り、三川郡を設置する。
 荘襄王2年(紀元前248年)、蒙驁が趙を攻めて太原を平定させる。
 荘襄王3年(紀元前247年)、魏の高都と汲を取り、趙の37もの城を奪い、長平の戦いの舞台となった上党の地も完全制圧する。初めて太原郡を設置する。・・・魏の信陵君が5国をまとめ上げて反撃に出て、蒙驁の率いる秦軍を破り、函谷関まで追撃して秦を追い詰めた(河外の戦い)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E8%A5%84%E7%8E%8B

⇒その他の諸国に対してはサラミ戦術を継続したが、大きな成果を挙げたとは言い難い。 なお、河外の戦いにおける5国とは、魏・趙・韓・燕・楚であり、斉が加わらなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%A4%96%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
のは楚が形の上で派兵したことの「成果」であると考えられ、楚秦ステルス連衡が荘襄王の時にも機能していたことが推察できよう。(太田)」(コラム#14990)

 「「蒙驁<(もうごう。?~BC240年)>は、・・・斉の出身<で>・・・蒙武の父<、>蒙恬・蒙毅の祖父<だが、>荘襄王<の時から秦で活躍し、>秦王政3年(紀元前244年)、韓を攻めて13城を取る。秦王政5年(紀元前242年)、魏を攻めて、酸棗など20城を奪い平定し、はじめて東郡を置いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E9%A9%81 

⇒これで、秦と斉は東郡回廊を通じて接壌国になり、三晋の韓魏と趙は南北に分断されてしまったわけだ。
 (下掲中の「函谷関の戦いが起きる前」中の2枚目の地図参照。↓
https://rekishi-shizitsu.jp/kankokukannotatakai/ )
 しかし、斉は、魏、趙両国との接壌国であったというのに、秦を「信頼」し、この際にも、そして、その後においても、三晋と合従して秦に対抗しようとはしなかった。
 昭襄王の斉秦互帝策は見事なまでに功を奏したと言えよう。
 いずれにせよ、ここまでは、昭襄王の時から予定されていたことであると考えられ、当時の、秦内の楚韓趙勢力のいずれも異議を挟む余地はなかった筈だ。
 なお、私は、蒙驁は斉がスパイとして秦に送り込んだと考えており、呂不韋は、それを承知の上で、蒙驁をこの任務に起用することによって、斉に疑心暗鬼を生じさせないようにした、と、見ているところだ。
 ちなみに、呂不韋はスパイを逆利用する達人だ。
 秦王政元年(紀元前246年)に、自分と同郷の韓から送り込まれた鄭国に「涇水を鑿って中山の西から瓠口まで渠(水路)をつくり、北山にそい、東のかた洛水に注<がせる>」
https://ai-you.work/2024/07/10/%e5%a4%a9%e4%b8%8b%e3%81%ab%e3%81%8b%e3%81%91%e3%81%9f%e6%b8%a0%e3%80%80%e9%96%a2%e4%b8%ad%e3%81%ab%e9%95%b7%e5%a4%a7%e3%81%aa%e7%81%8c%e6%bc%91%e6%b0%b4%e8%b7%af%e3%82%92%e5%ae%8c%e6%88%90%e3%81%95/
工事に着手させ、鄭国の素性が完全に露見した後も工事を続行させ、10数年かけて完成させ、「『史記』河渠書<が>「関中(渭水盆地)・・・は沃野となり、凶年はなくな<り、>秦は富強となり、<おかげで>諸侯を併せ<ることができ>た」と記」す大成果を上げている。(太田)

 「秦王政6年(紀元前241年)、楚・趙・魏・韓・燕の五国合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した(函谷関の戦い)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
 「趙・楚・魏・韓・燕は、秦を共同で攻撃するために、総大将を楚の考烈王、総司令を春申君として合従軍を組んだ。しかし、実際の合従軍の盟主は趙だとも考えられている。その理由として、まず楚はこの年に郢から寿春に遷都したことが挙げられる。そのため、楚は合従軍に大軍を送ることが不可能であったと考えられている。また、趙は長平の戦いや邯鄲の戦いなど、何度も秦に対して敗戦を重ねていて、秦への恨みが深かったからである。・・・
 合従軍は秦の寿陵を取り、函谷関を攻撃した。
 合従軍に対して、秦軍は函谷関で迎え撃った。・・・
 ・・・今回の合従軍・・・は以前(函谷関の戦い(紀元前318年)・函谷関の戦い(紀元前298年)・河外の戦い)とは異なり、函谷関を攻める軍以外の、別働隊を用意していた。趙の龐煖が総大将として、趙・楚・魏・燕の四国の精鋭部隊を率いて蕞(現在の始皇帝陵の付近)を攻めたが、落とせなかった。蕞は秦王都咸陽にかなり近く、秦は滅亡の危機に陥っていた。
 函谷関でも秦軍が攻撃すると、合従軍は敗北した。合従軍は、秦の味方である斉を攻撃し、饒安(現在の河北省滄州市塩山県の南西)を占領して解散した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BD%E8%B0%B7%E9%96%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D241%E5%B9%B4)

⇒この最後の函谷関の戦いの時、楚は総大将と総司令を引き受けつつも、形だけの楚部隊しか提供しなかったことによって、秦に薄氷の勝利をもたらすことができ、楚秦ステルス連衡は、当時の秦の実質最高権力者であった呂不韋の与り知らない形でだが、引き続き機能していた、というわけだが、考えても見よ、この時点において、楚秦ステルス連衡が非ステルス化していたとすれば、さすがの斉も目が覚めて反楚秦合従に加わっていた可能性が高く、その場合、趙・魏・韓・燕・斉軍が、趙・魏・韓・燕の対斉控置兵力も動員する形で秦・楚に指向することができるようになり、単純化するために戦車数や騎兵数を捨象して戦国時代末期の兵力数だけで比較すると、秦100万+楚100万=200万、対、韓30万+魏70万+趙100万+斉70万+70万=340万、となり、
https://articles.mapple.net/bk/24035/?pg=2
秦楚連衡軍は合従軍に敗れ去り、秦も楚も滅亡していたことだろう。(太田)」(コラム#14992)

 (7)秦単独での天下統一

 「「秦王政9年(前238年)、政・・・よる親政が始ま<り>・・・呂不韋を除<去し、>・・・<かつて>荀子に学<んだ>・・・李斯<を重用した。>・・・

⇒李斯の出身の「楚の北部にある上蔡(現在の河南省駐馬店市上蔡県)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%AF
は、春秋時代においても既に楚領であった場所であるところ、荀子の下で学んだ彼は、華陽太后(~秦王政17年(前230年))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%A4%AA%E5%90%8E 前掲
の意向を汲んで、秦王政9年(前238年)に、政に対して、本人が趙から秦に到着した時以降において、楚人教育を施し続けさせるべく、呂不韋がリクルートした人物であった、というのが私の見方だ。
 だからこそ、親政を開始してからの政も李斯を重用することになり、華陽太后が亡くなってからも重用を続けたのではないか、
 私は、この李斯は、すぐ下に出てくる韓非に比べれば、若干なりとも荀子のより忠実な弟子だったとも見ている。
 その荀子(BC313/298~BC238年)なのだが、斉の稷下の学士の祭酒(学長)であったことが良く知られているけれど、趙出身で、「讒言のため斉を去り、楚の宰相春申君に用いられて、蘭陵の令となり、任を辞した後もその地に滞まった」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90
人物であり、私見では、それは、秦の「孝公<(BC382~BC338年)によるところの、>仁政に努め<て>孤児や寡婦を救済し、戦士を優遇し、また論功行賞を公平にするとともに・・・秦の外征<を>開始<し、>・・・[儒家の述べる徳治のような信賞の基準が為政者の恣意であるような統治ではなく、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという立場<のいわゆる>・・・法家<の>]商鞅を起用し<た>抜本的な国政の改革(商鞅の変法)を断行<した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%AE%B6
統治を、宰相が范雎時代の昭襄王の秦を訪ねて実際に確認した後、理想化した上で理論化したものである(コラム#15004)ところ、それはまさに、楚の人々が理想とした統治であったのであって、だからこそ、楚の春申君は荀子を楚に招き、荀子は楚に骨を埋めることになった、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90 前掲
のである、と、私は考えるに至っている。
 すなわち、荀子は、「人間の性を「悪」すなわち利己的存在・・人間は本来普通人!(太田)・・と認め、君子は本性を「偽」(人為的なもの)、すなわち後天的努力(すなわち学問を修めること)によって修正して善へと向かい、良い統治者・・縄文的弥生人!(太田)・・となるべきことを勧めたのだ。
 そして普通人だけだと「各人が社会の秩序なしに無限の欲望を満たそうと<して>、奪い合い・殺し合いが生じて社会は混乱して窮乏する・・・ゆえに人間はあえて<統治者>の権力に服従してその規範(すなわち「礼」<と「法」>)に従うことによって<初めて>生命を安全<に>し<、かつ>窮乏から脱出<できる、>と説いた。」
 その上で、正当防衛以外の暴力行使・・これは私が補った(太田)・・、や、非生産活動たる統治に携わる者達の存在、や、人間の基本的ニーズを超える欲望充足欲求、を、否定的に見る墨家は間違っているとした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90
 他方、同じく荀子の下で学んだところの、法家の代表格の韓非子は、私に言わせれば、人間は普通人でしかありえないという前提の下、特定の普通人が為政者として天下を統一しかかる統一状態を維持す<るしかない>とし、そのためには、この為政者が、「儒家の述べる徳治のような信賞の基準が<この>者の恣意で<しかない>ような統治ではなく、厳格な法という定まった基準によって国家を・・・中央集権的<に>・・・治めるべ<き>」であり、その上で、この「法<のほか、>術(いわば臣下のコントロール術)を用いた・・・結果主義・能力主義、信賞必罰主義、職分厳守・・・国家運営<を行うべきである、と>・・・説いた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%AE%B6
ところの、いわば荀子の思想をつまみ食いした上極端化したところの、荀子の不肖の弟子なのだ。
 政が、この韓非子の「『韓非子』に感嘆し<、>著者の韓非は韓の公子であったため、事があれば使者になると見越した秦王政は韓に攻撃を仕掛けた<ところ、>果たして秦王政14年(前233年)に使者の命を受けた韓非は謁見した<のだが、>韓非はすでに故国を見限っており、自らを覇権に必要と売り込んだ<のだけれど>、これに危機を感じた李斯<ら>の謀略にかかり死に追いやられた。
 <ちなみに、>秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分と、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書(詩経・書経)ではなく法が教えである。師は先王ではなく官吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)であるという箇所にも共感を得た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
とされている。
 で、私見なのだが、李斯が韓非子を排除したのは個人的な理由ではなく、政が、李斯が取り入れようと考えるようになったところの、墨家の言う義、に関心のない韓非子の思想に傾倒し、より弥生人的になっていったり、より無軌道な統治を行ったり、するのを阻止したいがためだったのではないか。
 なお、この関連だが、趙高(?~BC207年)は、趙の遠縁の公族として生まれ、恐らくは宦官ではなかった人物で、「始皇帝の末子の胡亥のお守役を拝命した<ところ、やがて、>・・・始皇帝の身辺の雑務を全てこな<すことになっ>た」人物だが、彼が、「法律に詳し<かった>」とされるところから、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E9%AB%98
恐らくは法家信奉者であって、政/始皇帝が、互いに姓だけでなく氏も共有する公室の公子あがりで、かつ、趙は一貫して、また秦はかつて、弥生人が普通人を統治する国であったことから、そして、政/始皇帝が弥生人返りしていたことから、両者が意気投合し、政/始皇帝が趙高をどんどん引き立てていき、政/始皇帝にとって煙たい李斯の方は次第に相対的に力を失っていったのだと思うのだ。
 結局、李斯は、韓非の劣化バージョン的な趙高を排除することに失敗した上、政/始皇帝逝去後、この趙高に殺害されることになるわけだ。
 しかし、更に俯瞰的に見て、より重大だったのは、秦による天下統一が、法家的墨家的統治思想の下で行われてしまって、荀子の儒家的統治思想の下で行われなかったことだったのだ。
 その結果、秦による天下統一及び天下統一後の統治は、全く民主的要素なき国王による独裁制が国王が皇帝に変わっても維持されたのはやむなしとしても、その皇帝に、仁者的な存在となることが求められない、また、仁的統治も求められない、かつ、軍事軽視が奨励され、よって総動員体制も解除された、従って緩治が当然視された形で行われたところ、それが、支那の爾後の歴代諸王朝のデフォルト化することになり、支那史の悲劇性が決定付けられたのだ。
 (もとより、騎馬遊牧民やゲルマン人の統治においてはつきものだった民主的要素を支那歴代王朝は欠いていたことが、そのリーダーたる皇帝の後継の座を巡っての殺人や戦争の頻度や規模を高めたことも忘れてはならないが・・。)(太田)」(コラム#14994)

 「秦王政17年(前230年)、・・・韓は陽翟が陥落して韓王安が捕縛されて滅んだ(韓の滅亡)。
 秦王政18年(前229年)、・・・次の標的になった趙には、幽繆王の臣である郭開への買収工作がすでに完了していた。・・・趙王が讒言で<名将>李牧を誅殺<する等を>してしまい、簡単に敗れた。
 秦王政19年(前228年)、趙王は捕虜となり、国は秦に併合された(趙の滅亡)。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った。

⇒嫪毐がらみで裏切られた母に対してそれほどの思いがあったとは考えにくく、単に、自分の幼少期の恨みつらみを晴らしただけではなかろうか。
 こんなことを許す秦の法があったとも思えず、政の弥生性丸出しの感がある。(太田)

 趙王は捕らえられたが、その兄の公子嘉は代郡(河北省)に逃れ、亡命政権である代を建てた。・・・
 両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった。・・・秦王政20年(前227年)、・・・<燕>は・・・荊軻という刺客<を送り込んだが、政暗殺に失敗した。>・・・
 政はこれに激怒し、同年には燕への総攻撃を仕掛け、燕・代の連合軍を易水の西で破った。
 そして、・・・翌・・・秦王政19年(前226年)、・・・首都薊を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も殺害された。

⇒これも同様だ。(太田)

 その後・・・遼東に逃れた燕王喜は・・・5年後には捕らえられた(燕の滅亡)。・・・
 秦王政22年(前225年)、秦王政は・・・魏を攻め・・・、その首都・大梁を包囲した。魏は黄河と梁溝を堰き止めて大梁を水攻めされても3か月耐えたが、ついに降伏し、魏も滅んだ(魏の滅亡)。
 同年、秦と並ぶ強国・楚との戦いに入った。秦王政は若い李信と蒙恬に20万の兵を与え指揮を執らせた。緒戦こそ優勢だった秦軍だが、前年に民の安撫のため楚の公子である元右丞相の昌平君を配した楚の旧都郢陳で起きた反乱 と楚軍の猛追に遭い大敗した。秦王政は将軍の王翦に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした(楚の滅亡)。
 最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった<が、>・・・秦に攻められても斉は戦わず、・・・無抵抗のまま降伏し滅んだ(斉の滅亡)。秦が戦国時代に幕を引いたのは、秦王政26年(前221年)のことであり、政は39歳であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D

⇒このうちの楚攻めについて、時間を巻き戻して、既述したことも併せ、もう少し詳しく見てみよう。↓(太田)

 「<楚の公族ではない>黄歇<(こうあつ)>が<楚の>国政に最初に登場したのが頃襄王25年(紀元前274年)、頃襄王の命を受けて秦に使いに行った時である。この頃、秦は韓・魏を従えて、楚を攻めようとしていた。黄歇は秦の昭襄王に上書し「強国である秦と楚が争っても互いに傷つき、弱い韓・魏を利するだけ」と説いた。昭襄王はこの理を認め楚と和平することにした。翌年、楚は和平の証として太子完(後の考烈王)を秦に人質として入れることになり、黄歇はその侍従として秦に入った。
 頃襄王35年(紀元前264年)、楚の国元で頃襄王が病に倒れた。このままでは国外にいる太子完を押しのけて他の公子のうちの誰かが王となってしまう可能性が強いと、黄歇は秦の宰相の范雎に説いて太子完を帰国させるように願った。范雎からこれを聞いた昭襄王はまず黄歇を見舞いに返して様子を見ることにした。ここで黄歇は太子完を密かに楚へと帰国させ、自らは残ることにした。事が露見した後、昭襄王は怒って黄歇を誅殺しようとしたが、范雎のとりなしもあり、代わりに太子完の弟である公子顛(昌文君)を代わりに人質に要求したことで話はまとまり、黄歇は楚へと帰国することができた。その3カ月後に太子完が即位して楚王<(考烈王)>となった。
 黄歇は考烈王よりその功績を認められて、令尹に任じられ、淮北(淮河の北)の12県を与えられ、春申君と号し<し、後に、>・・・戦国四君の一人<と称されるようになる>・・・。春申君はその元に食客を3千人集めて、上客は全て珠で飾った履を履いていたという。客の中には荀子もおり、春申君は荀子を蘭陵県の令(長官)とした。
 考烈王5年(紀元前258年)、・・・首都邯鄲が秦によって包囲され<た>・・・趙<に、楚が>・・・兵を出<すと>、秦は邯鄲の包囲を解いて撤退した。
 考烈王15年(紀元前248年)、斉に接する重要な土地である淮北を直轄の郡にすることを考烈王に言上し、淮北の代わりに江東を貰い、かつての呉の城を自らの居城とした。・・・これは趙の上卿(上級大臣)虞卿の献策を一部受け入れて、王族からの妬みや政治的影響を逸らすために、首都から遠い地に封地を遷したものと伝わる。その後、軍勢を動員して、魯を滅ぼした。
 考烈王22年(紀元前241年)、楚・趙・魏・韓・燕の合従軍を率いて、秦を攻めたが、函谷関で敗退した(函谷関の戦い)。この失敗により、考烈王は春申君を責めて疎んじるようになる。
 同年、春申君の提言により、楚は寿春へと遷都した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%94%B3%E5%90%9B
 「昌平君<(BC271~BC223年)>は、・・・昭襄王36年(紀元前271年)、前年に<上出の>春申君と共に人質として秦に入っていた楚の太子完(後の考烈王)と昭襄王の庶出の娘の間に生まれた<が、上述したように、>昭襄王44年(紀元前263年)、太子完<が>妻子を捨て、春申君とともに密かに秦を脱出すると、残された昌平君は華陽夫人(秦の孝文王正室、楚の公女)に養育され<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%90%9B 

⇒楚の頃襄王や考烈王、そして秦の昭襄王は、ステルス連衡について何も知らない黄歇(春申君)をうまく使うことによって、楚と秦の間での対立ごっこや戦いごっこを、第三国からみて迫真性を帯びた形で続けることができた、というのが私の見方なのだ。
 例えば、「<楚の>考烈王4年(紀元前259年)、秦が趙に攻め寄せてきたとき、同盟を求める趙の公子の平原君(趙勝)と対談したが、考烈王は前に秦に侵攻を受けたこともあり、渋って盟約がまとまらなかった。これに業を煮やした平原君の食客の毛遂は剣を帯びて、考烈王の目前に向かい「秦の白起は楚の首都を蹂躙して楚の父祖を辱めました。今回の合従は趙のためではなく、楚のためであります」と述べ<、>この働きかけによって<考烈王は>楚と・・・の盟約<に応じ>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A%E6%94%BB%E7%95%A5
というように、楚・秦以外の諸国は楚秦ステルス同盟の存在など夢にも信じたくないので決して信じようとはしなかったと考えられるところ、考烈王はあえて趙のかかる「誤解」を解かないどころか、深めるような対応をやってのけた、と見るわけだ。(太田)」(コラム#14996)

 「「考烈王25年(紀元前238年)、考烈王は側室の兄の李園(かつての春申君の食客)に後事を託して薨去した。この後、李園は春申君を殺害し<た。そして、>公子悍<が>幽王として即位<すると>、自らは宰相の地位に就き権力を握った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E7%83%88%E7%8E%8B
 「幽王10年(紀元前228年)、幽王が亡くなり、同母弟の公子猶が哀王として即位したものの、2ヶ月ほどで哀王の庶兄の負芻を擁する者らに殺害され、その際に<李園は>妹の李太后(李環)共々殺害され、李園の一族は全滅した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%9C%92

⇒時あたかも、秦が趙を征服した時点だったが、楚の負芻らは楚秦ステルス連衡の存在を知らなかった可能性が高く、これを奇貨として、秦は、BC226年にほぼ燕を滅ぼし、BC225年に魏を滅ぼすと、残った斉と楚のうち、楚の征服に、直ちに、しかもガチで取り掛かることになる。(太田)
 
 「紀元前225年、秦王政は、楚を征服<する場合>・・・どれだけの部隊が必要かを諮問した。李信は、「20万」で充分だと語った。一方で王翦は、「60万」が必要だと語った。秦王政は、王翦が耄碌したものと捉え、若く勇ましい李信の案を採用して侵攻を命じた。王翦はこれを不満に思い、病気を理由に軍職を辞し故郷の頻陽へ帰った。

⇒「<この>際に、秦王政を諌めたため怒りを買って昌平君も丞相を罷免された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%90%9B 前掲
とされているが、これは、昌平君が、かねてより、政の統治思想や政の人格を正そうと努力してきたけれど、それが不可能であることに気付いていて、養親の華陽太后の死(BC230年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%A4%AA%E5%90%8E 前掲
以来辞任の機会を探っていた、という背景の下、この時点でついに自ら身を引くことができたのである、と、私は見ている。(後述するところを参照。)
 (他方、昌平君の「同志」の李斯は、一、故華陽太后によって直接起用された昌平君と違って、食客出身の自分が辞意を表明した場合の政の対応に不安があったこと、二、自分までいなくなった場合に政の言動や人格の更なる劣化が生じかねないとの懸念があったこと・・その傍証が、李斯が、二世皇帝に対して、「阿房宮の造営などの政策を止めるよう諫言したがかえりみられ<なかったことに懲りず、>諫言を重ねた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%AF
ことだ。・・、そしてこれは私の仮説なのだが、三、秦政王/秦始皇帝に、自分が荀子の儒学と秦墨とを弁証法的に止揚した思想を吹き込み、この思想に基づく統治を実践させ、支那における統治の理念型を樹立するという野望を抱いていたこと、から、ついに身を引くことがなかった、とも。)(太田)

 李信は総兵数20万を二つの部隊に分け、李信は平輿(現在の河南省駐馬店市平輿県)で、蒙恬は寝丘(現在の安徽省阜陽市臨泉県)で楚軍を破った。
 さらに、李信と蒙恬は、楚の首都郢(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)周辺を攻め、再び楚軍を破る。
 しかし、城父で李信と蒙恬が合流した所を項燕が指揮を執る楚軍が急襲、楚軍は三日三晩一切休まずに攻め続け、李信軍を大いに打ち破った。秦軍は2つの城壁を破られ、7人の都尉を失う大敗を喫し、潰走した(城父の戦い)。

⇒この時、斉が秦を攻撃しておれば、秦は打倒され、支那には斉と楚の南北時代が到来していたかもしれない。
 荀子が斉を去らねばならなかったということは、楚秦ステルス連衡の存在を見抜いたり、いずれにせよ適時適切にそういった提言を行ったり、するような稷下の学士を始めとする人材が払底してしまっていた、ということも与ってのことだろうが、その後の支那のことを考えると、まことにもって残念なことだった。(太田)

 秦王政は敗戦の報を聞いて激怒した。自ら頻陽へ急行して王翦に謝罪し、「私が将軍の策を用いなかったばかりに、李信が秦軍を辱めた。日々、楚軍は西へ進軍している。あなたほどの者が私を見捨てようというのか」と、再び将軍として軍を率いてくれるよう懇願した。これに王翦は「大王がどうしてもこの老臣をお用いになるというならば、60万の兵を与えてくだされ」と返した。秦王政はこれに従い、王翦に60万の兵を与え、蒙武を裨将軍(副将)とした。
 紀元前224年、秦将王翦と蒙武が60万の大軍を率いて楚に侵攻、強固な防衛を攻めで超えるのは困難と判断し王翦は堅守・不出の戦術を採用、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、項燕の軍を奇襲して楚軍を大破、楚王負芻は捕虜となり、項燕は淮水で負芻の異母兄弟である楚の公子昌平君を楚王として擁立して反抗した。
 紀元前223年、王翦と蒙武は楚軍を追撃、昌平君・項燕ともども戦死(もしくは自害)し、ついに楚は滅亡し・・・た。
 紀元前222年、・・・王翦と蒙武はついに楚の江南<地域も>平定する。また、東越の<滅亡させ、更に、>翌年、秦は斉を滅亡させ、天下を統一する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A%E6%94%BB%E7%95%A5

⇒秦王政元年(紀元前246年)から呂不韋の下で御史大夫(副丞相)を務め、呂不韋が罷免された秦王政10年(紀元前237年)からは秦王政21年(紀元前226年)まで右丞相を務めた昌平君(~BC224年)・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%90%9B 前掲
これはまず間違いなく、その育ての親である華陽太后(~BC230年)の意向を受けた任命であり、彼はもちろん楚秦ステルス連衡については熟知していた筈だ。この時、楚の頃襄王の公子の昌文君(~BD224年)が左丞相になった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E6%96%87%E5%90%9B
のも、その育ての親でこそなかったけれど、同様だろう。(「秦漢<当時>は右が上」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%9E%E7%9B%B8 )
・・が、この期に及んで楚が滅亡を免れると思って寝返って楚王を引き受けたわけがないのであって、これは、後述するように、秦王政の思想、人格に深刻な問題があることから、自分が一身を犠牲にすることによって、楚を中心とする支那の人々に対して、天下統一後の秦に対し、できうれば抵抗を続け、それができなくても機会を窺って蹶起することを促そうとしたのだろう。
 まさにそれを、やったのが、上出の項燕の、末子である項梁、と、(項梁が養育した)孫の項羽、だ。
(もっとも、項梁は早く死に、項羽は出来が悪かった。楚の公子の子孫達には人材がいなかった。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E6%A2%81
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%BE%BD 
 蛇足ながら、反秦派(親斉派)として憤死した屈原(BC343~BC278年)「伝説」・・「屈原の伝記や、楚辞を屈原が作ったとする伝承には疑問が提出されている。」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%88%E5%8E%9F
は、昌平君らの思いにも呼応する形で楚の人々の間で形成されていったものだろう。
 屈原は、楚秦ステルス連衡について全く知らされていなかったかったと想像されることから、彼が反秦感情を抱いたのには無理からぬものがあったわけだが・・。(太田)」(コラム#14998)

3 漢人文明論

 (1)序

 「さて、いよいよ漢人文明論だ。
 それは、皇帝論に帰する。
 漢人文明を始めたのは始皇帝であり、同文明は始皇帝と分かちがたく結びついているからだ。

 (2)範例化a:独裁者たる皇帝

 中原文化(華夏文化)には、従って拡大中原諸国にも、殷由来で儒家が受け継いでいる民主的要素が、そして、江南文化にも、従って同文化出身の楚等にも、その縄文性に由来する民主的要素があったけれど、どちらの文化にも、確立された民主制度はなかったところ、天下統一のためには総動員体制が支える恒常的戦争状態の確立、維持が求められてそれには君主独裁制が不可欠である一方、民主的要素が強く君主独裁制の確立がほぼ不可能であった楚が、君主独裁性が既に確立しているか容易に確立できる、拡大中原諸国、の中から秦を選んで連携し、この君主独裁制の秦を前面に出して天下統一を実現しようとしたわけだが、最終段階で秦単独で成し遂げられた天下統一後、総動員体制の解除は、始皇帝の公私の大土木工事や大行事実施のために<、実質的にはともかく、形式的には>進まなかったことに加え、義の統一のためにも、君主独裁制、改め皇帝独裁制、の維持は当然視された。
 そして、この皇帝独裁制は、楚による秦への復讐とも言うべき漢の成立後、総動員体制は解除されていったにもかかわらず、義の統一維持のため、そして、楚には民主的要素こそあったけれど、その楚を含め、支那のそれまでの歴史の中に確立された民主的制度が存在しなかったため、継受されることになる。
 爾後の歴代漢人諸王朝・・元は含まれない・・の中には、民主的制度を有した騎馬遊牧民系のものがいくつもあったが、いずれも、その都度、急速に漢人文明化してしまい、民主的制度は消えてしまうことになる。
 (一番最近の例を挙げよう。後金が清に国号を変えたのは初代目の女真人のヌルハチを継いだ2代目のホンタイジだが、中共は、3代目の順治帝・・廟号が世祖・・を清の初代皇帝としているところ、彼は有力部族長の合議で、つまりは民主的制度で、選出された(コラム#14981)唯一の漢人王朝皇帝ではなかろうか。
 但し、そんな順治帝(1638~1661年。在位:1643~1661年)も、形の上ではまだ騎馬遊牧民らしく「狩猟を好み、年に2、3度、張家口、独石口へ狩猟に行った」というが、「漢文化に心酔していて非常な読書家であり、臣下にも積極的に漢文化の習俗を取り入れさせ<ると共に、>四書五経や『資治通鑑』『貞観政要』を精読して歴史を研究し<、>書道、山水画を趣味とした文化人でもあった。」という具合に中身は漢人になり切ってしまい、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E6%B2%BB%E5%B8%9D
第三子である後の康熙帝を、当然のように自分一人で後継指名して亡くなっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%86%99%E5%B8%9D )

 (3)範例化b:義の統一者たる皇帝

 始皇帝による焚書から始めるが、「博士の一人であった淳于越が意見を述べた。その内容は、・・・先王尊重の思想<に基づき、>・・・古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった。始皇帝はこれを群臣の諮問にかけたが、郡県制を推進した李斯が再反論し、始皇帝もそれを認可した。その内容は、農学・医学・占星学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を、博士官にあるものを除き焼き捨て、従わぬ者は顔面に刺青を入れ、労役に出す。政権への不満を論じる者は族誅するという建策を行い、認められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
というのは、単一基準、制度に基づく天下統一という(墨家の言うところの)義に異議を唱える者は排除したということだ。
 但し、「<支那>を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西(甘粛省東南・旧隴西郡)と北地(甘粛省慶陽市寧県・旧北地郡)はいずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる。しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央には松の木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された。」(上掲)というのだから、先王尊重の思想自体を政秦王/始皇帝が排斥していたとまでは言えまい。
 次に坑儒についてだが、「方士<の>・・・盧生と侯生は始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。・・・始皇帝は方士たちが巨額の予算を引き出しながら成果を挙げず、姦利を以って争い、あまつさえ怨言を吐いて逃亡したことを以って監察に命じて方士らを尋問にかけた。彼らは他者の告発を繰り返し、法を犯した者約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し、これがいわゆる坑儒であり、前掲の焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれる。『史記』には「儒」とは一字も述べられておらず「諸生」と表記しているが、この行為を諌めた長子の扶蘇の言「諸生皆誦法孔子」から、儒家の比率は高かったものと推定される。」(上掲)
というのだから、坑儒は焚書の延長線上の措置であると言えよう。
 なお、そもそも、儒家は仁を義としているところ、そのこと自体を政秦王/始皇帝嫌っていた、と見ることもできる。
 この、政秦王/始皇帝なる国家機関の義の統治者的側面の補佐をしたのが李斯だった、ということではなかろうか。

 (4)非範例化:人格欠陥者たる皇帝

 秦の四大工程の万里長城・始皇帝陵・秦直道・阿房宮の中で基本的に軍事目的である万里長城と秦直道を除く始皇帝陵と阿房宮、及び、永久の生への執念、から、政秦王/始皇帝が、儒家の仁とも墨家の兼愛とも無縁どころか、君主としてあるまじき、単なる普通人・・エゴイスト。漢人文明における阿Q・・だったことが分かる。↓
 「秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しいことではないが、陵墓は規模が格段に大きかった。」(上掲)
 また、「滅ぼした国々から娼妓や美人などが集められ、六国の珍宝は尽く咸陽に運ばれた。その度に宮殿は増築を繰り返し、宮殿の装飾に莫大な貴金属・宝石が使用された。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった。」(上掲)
 そして、「始皇帝は死後の世界を信じていた。だからこそ死後の魂を守護する兵馬俑を作らせたのだ。・・・
 活人俑が始皇帝陵の兵馬俑には多数含まれている・・・
 活人俑は外見は陶器であるが中には死体が入っている。この死体は誰かを殺して調達したものなのだ。つまり活人俑を作ることは実質的には殺殉と同じことなのである。
 しかも活人俑を作ることによって殉葬の事実を隠蔽することができる。
 始皇帝の時代にはすでに殉葬の習慣は廃れつつあった。しかし始皇帝が大規模な殉葬を命じれば再び殉葬の習慣が広がる可能性があった。
 そうなると多数の殉死者によって守られる自分自身の優位性が崩壊する。そこで始皇帝は実際には殉葬を行いつつ、その事実を隠蔽したのだ。」
https://chkai.info/huorenyong
 しかし、「始皇帝<は、念には念を入れて、万一、死後の世界がない場合に備え、皇帝就任後、>国内各地で不死の薬を探すよう命じた・・・
 <この関連で、>斉の出身である徐巿は、東の海に伝説の蓬萊山など仙人が住む山(三神山)があり、それを探り1000歳と言われる仙人の安期生を伴って帰還する<と宣言したので、>・・・数千人の童子・童女を連れた探査を指示した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
 そして、始皇帝は、「人並みな寿命とは無縁で、死は遠い先のこと、なにより今を生きることに強く傾斜することで、彼なりの心の平安を得ていた。だからこそ、自身の死が前提となる後継者の指名は、先送りにされ・・・<、>生前に後継ぎを決めなかった<。>・・・<その>結果、彼の死後に愚鈍な末子が二世皇帝となってしまった<。>」(コラム#14955)
https://news.yahoo.co.jp/articles/d4745566edcdad45a9f3d82d4ab3bc95f26d424d
 また、「始皇帝の后妃については、・・・不明<で>、『史記』秦始皇本紀に、「始皇帝が崩御したときに後宮で子のないものがすべて殉死させられ、その数がはなはだ多かった」と<あり>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
これは始皇帝が病的なミソジニストであったことを示すと同時に、皇后等に他国の公室を含む有力氏族出身者を迎えることで、自分のエゴに基づく独裁権力の恣意的行使に掣肘が加えられることを回避したいという理由もあったのではなかろうか。
 このように、あるまじきエゴイストであること↑だけでも、政秦王/始皇帝の人格の歪みを示すものだが、彼は、その他にも、独断専決大好き、強い猜疑心、冷酷/残忍、という、人格の歪みのデパートだった。↓
 「尉繚は秦王時代に軍事顧問として重用されたが、<彼は、>・・・秦王政<は、>・・・恩を感じることなどほとんどなく、虎狼のように残忍だと言う。目的のために下手に出るが、一度成果を得れば、また他人を軽んじ食いものにすると分析する。布衣(無冠)の自分にもへりくだるが、<支那>統一の目的を達したならば、天下はすべて秦王の奴隷になってしまうだろうと予想し、最後に付き合うべきでないと断ずる。」(上掲)
 「<将軍>王翦は政の猜疑心の強さと冷酷さを良く理解していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%BF%A6
 「方士の盧生<(ろせい)>と侯生<(こうせい)は、>・・・始皇帝は生まれながらの強情者で、成り上がって天下を取ったため、歴史や伝統でさえ何でも思い通りにできると考えている。獄吏ばかりが優遇され、70人もいる博士は用いられない。大臣らは命令を受けるだけ。始皇帝の楽しみは処刑ばかりで天下は怯えまくって、うわべの忠誠を示すのみと言う。決断はすべて始皇帝が下すため、昼と夜それぞれに重さで決めた量の書類を処理し、時には休息さえ取らず向かっている。まさに権勢の権化と断じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
 「ある時、丞相の行列に随員が多いのを見て始皇帝が不快がった。後日見ると丞相が随員を減らしていた。始皇帝は側近が我が言を漏らしたと怒り、その時周囲にいた宦者らすべてを処刑したこともあった。」(上掲)
 冷酷/残忍さに関しては、個人的な恨みに起因する、趙と燕征服時における一般市民虐殺行為(前述)も思い起こされる。
 この政秦王/始皇帝の人格の歪み・・普通人性・・に基づく「個人的」言動を補佐したのが趙高だった、ということではなかろうか。
 しかしながら、さすがに、以上のような人格欠陥者たる始皇帝は批判され否定され、当然のことながら、範例化されることにはならず、漢からの歴代王朝の皇帝は私人としても人格者であることを少なくとも装うことが求められるようになった。」(コラム#15002)

 (5)範例化c:軍事軽視・緩治者たる皇帝

 銘記されるべきは、こんな秦政王/始皇帝によって、中原文化(華夏文化)地域と江南文化地域とを統合した最初の支那(拡大中原)統一王朝が作られた結果、この、秦の法家的墨家的統治思想が爾後の支那の歴代王朝の統治思想の理念型になったことだ。
 その核心だが、秦政王/始皇帝に、「史実」として軍事に関する師が(どころか商人インテリでしかなかった呂不韋を除けばいかなる師も)いなかった可能性があることも気になるが、直接的な軍事的事蹟が皆無であること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
や、天下統一の過程で重用した名将揃いの王氏一家の人々が統一後全く用いられた形跡がないこと
https://dot.asahi.com/articles/-/238082?page=1
に加え、BC221年の天下統一時の秦の丞相の王綰(おうわん。?~?年)に軍事に関する事績が皆無であること、
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%8E%8B%E7%BB%BE
BC213年に右丞相になった馮去疾(ふうきょしつ。~BC208年)についても左丞相になった李斯についても同様であること(上掲)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E5%8E%BB%E7%96%BE ←
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%8E%E6%96%AF-148671
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%AF
から、文官の武官に対する圧倒的優位とそれと裏腹の軍事軽視は明確だ。
 補足するが、この馮去疾は馮亭(ふうてい。?~BC260年)・・韓の地方官吏として一時的に上党で守を務め、後に趙に降って華陽君の地位を与えられ・・・長平の戦いにおいて・・・白起の率いる秦軍に大敗した際に戦死した・・の孫で、馮劫(ふうこう。?~BC208年)は曾孫、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E4%BA%AD
だが、この馮劫はBC221年の天下統一時の秦の御史大夫(副丞相)で、後に将軍となるが、やはり、それまで軍事に関する事績は皆無だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E5%8A%AB
 (「紀元前208年(二世2年)、馮劫は李斯や馮去疾らとともに「関東で反乱が続発しているのは、軍役や労役の負担が重く、租税が高いからであり、阿房宮の造営を中止し、辺境の軍役を減らすようにお願いしたい」と二世皇帝に上奏した。しかし二世皇帝は聞き入れず、李斯・馮去疾・馮劫の3人は獄に下され、余罪を追及された。馮去疾と馮劫は「将相は辱められず」といって自殺した。」(上掲))
 そもそも、天下統一後、秦墨思想に基づき総力戦体制が解除され、BC215年から、軍隊中の最精鋭30万は軍事に関する事績の豊富な蒙恬に率いられて北方辺境に匈奴対処目的で置かれており、「オルドス地方を奪って匈奴を北へ追いやると、<そこ>に陣して長城、秦直道(直線で結ぶ道)の築造も担当し<てい>た<ところ、>・・・「始皇帝に焚書を止める様に言って遠ざけられた長男の扶蘇が蒙恬の元にやって来て、扶蘇の指揮下で匈奴に当たるようになった<けれど、>扶蘇は始皇帝に疎まれたために蒙恬の所へ送られたとなっているが、蒙恬の監視役であったとも考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E6%81%AC
のであって、中央政府が直接軍事に関与することは殆どなくなっていたのではないか。
 だから、私がこれまで繰り返し指摘してきた(コラム#省略)ように、軍事力の整備維持のために必要なシステムが殆ど構築されないまま、ということは、(総力戦体制が解除された、仁もへったくれもない)緩治のまま、その後の支那史は展開していくことになった。
 「<支那で>は王朝交代の混乱期に人口が驚くほど減少する。そのため、王朝が成立して社会が安定すると、為政者は安民と言って税金を下げるなどの民衆を安んじる施策をとり、その結果、人口が爆発的に増加する・・・。・・・
 現在の<支那>の領土の<大>部分を占める<拡大>中原を大きく超える領土を誇った元と清を除くと、<支那>の人口は6000万人に近くなると大きく減少する傾向がある。
 これは<拡大>中原の農業生産力の限界が6000万人程度であったようで、この人口を大きく超えると、飢餓が発生するなどの社会不安に陥り、最悪の場合は王朝が滅亡してしまうからである。
 ・・・人口が急減し<た>三国時代の発端となった黄巾の乱、唐末期に起こった黄巣の乱などの農民反乱はこのような背景があったと言われている。
 ちなみに、明→清の王朝交代期にも人口が大きく減少しているが、この時期は戦乱と異民族による征服という中で様々な虐殺が行われた。」
https://chinastyle.jp/gdpjinkou/
https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/jinkou996.html ←参考になる
という、世界史において極めてユニークな支那史は、基本的に、軍事軽視/(仁なき)緩治、に起因するところの、歴代王朝の、内乱/外患の予防/対処能力の低さによって説明できよう。
 このことについては、法家的「墨家的」統治思想を形成した李斯の責任ではなく、そんな李斯の重用を続け李斯の統治思想を実行に移した始皇帝の責任だ。

 (6)漢における微修正付皇帝諸範例継受

  ア 微修正点

 非本質的なことではあるが、秦由来の法家的墨家的統治思想に対して、漢の途中以降に加えられた唯一の微修正が、この統治思想に孟子流の(絵に描いた仁とでも形容すべき)儒学的建前が纏わせられたことだ。
 それは、大部分が普通人であるところの、漢人、の仁者化(人間主義者的化)の試みなどハナから諦めた上での、極度に単純化して言えば、少なくとも皇帝自身は人格破綻者(普通人=阿Q)でないのは当然のことだが、それに加えて仁者(人間主義者)であることを装わなければならない、という注意書きが加えられた程度の代物だが・・。
 もちろん、そんな装いができなかったり、単に装わなかった皇帝は枚挙に暇がないだけでなく、人格欠陥者の皇帝すら何名かは出た。
 人格欠陥者であった始皇帝が天寿を全うすることができた・・不老不死を追求したことから、水銀入りの薬を服用していたために死期が早まったとも言われている(上掲)イタイ人格欠陥者だったが、・・こともまた「先例」となり、それに倣って、あえて人格欠陥者たることに甘んじた、暴虎馮河的な諸皇帝中、隋の煬帝、北宋の徽宗こそ天寿を全うできなかったものの、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AC%E5%B8%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%BD%E5%AE%97
明の万暦帝は、物の見事に天寿を全うする・・自分の代で王朝交代を引き起こさない・・ことに成功したところだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E6%9A%A6%E5%B8%9D 」(コラム#15004)

  イ 皇帝諸範例継受経緯

 「<何度も登場していて、改めてだが、>項燕<(?~BC223年)>は、・・・楚の大将軍[・・各将軍の最上位者を意味する官職・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D ]。・・・項氏は代々楚の将軍を務めていた。・・・項燕は周朝に分封された同宗の姫姓項国の後裔であり、春秋時代に項国が魯国によって滅ぼされた後、その国名を姓としたとされる。
 負芻3年(紀元前225年)、秦の李信と蒙恬が20万の大軍を率いて楚に進攻してきたので項燕はこれを迎え撃った。李信と蒙恬が城父で合流したところを三日三晩休むことなく追撃し、李信軍を大破した。さらに2つの拠点を攻め落とし、7人の都尉を殺して秦軍を覆没させた。
 負芻4年(紀元前224年)、秦の王翦が60万の大軍を率いて再び楚を攻めた。王翦は堅守して楚軍と交戦しないよう命じ、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、奇襲して楚軍を大破、楚王負芻は捕虜となったが、
 項燕は淮南で・・・楚王負芻<[(ふすう。?~?年。在位:BC228~BC223年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A0%E8%8A%BB ]>・・・の異母兄弟であり、かつて秦の丞相であった楚の公子昌平君<[(BC271~BC223)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%90%9B ]を楚王として擁立して反抗した。負芻5年(紀元前223年)、王翦と蒙武は楚軍を破り、昌平君は戦死、項燕も戦死(もしくは自害)し、ついに楚は滅亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%87%95

⇒楚の公室は縄文的弥生性を帯びるに至っていて、世襲制の将軍家群を擁していて、これらの将軍家群において、将校養成システムがそれなりに機能していたと推察でき、だからこそ、秦による楚征服戦争の際にも楚軍は途中までとはいえ適切な抵抗ができたのだろう。(太田)

 「項梁<(~BC208年)は、>・・・<この>項燕の末子<。>・・・
 二世元年(紀元前209年)9月、始皇帝が死に、陳勝らが挙兵して秦の支配体制が動揺すると・・・項梁は、・・・呉の地から兵を挙げて、8,000人の精鋭を得た。その上で、呉にいた豪傑を校尉・候・司馬に任じる。・・・項梁は会稽郡守を名乗り、項羽を裨將(副将)に任命し、諸県を従えた。
 二世二年(紀元前208年)12月、陳勝が秦の章邯に敗北し、逃げる途中で部下の荘賈に殺害される。・・・
 同年4月、・・・兵力は十数万人にもなった。
 <やがて、>・・・沛で挙兵していた劉邦も項梁に会いに来た。そこで、五大夫将を10人と兵士5,000人を増やして与える。・・・
 <また、>項梁は、・・・旧楚の懐王の孫(玄孫とも)で羊飼いに身を落としていた心という人物を連れて来ると、祖父と同じ名前の懐王(後の義帝)として楚の王に擁立し<た。>・・・
 紀元前208年・・・同年9月、・・・項梁は定陶において、・・・夜襲をかけてきた章邯率いる秦軍に攻められて敗死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E6%A2%81

⇒項梁は、(父の項燕もそうだっただろうが、楚秦ステルス連衡のことを知らなかったと思われるが、)楚の公子を擁立し、または自ら、秦打倒戦争の勝利者になっていたとすれば、彼の新王朝は、軍事軽視を免れていたかもしれないのだが・・。(太田)

 「劉邦<(BC247/BC256~BC195年)は、>・・・戦国時代末期に楚の領域だった泗水郡沛県豊邑中陽里(現在の江蘇省徐州市豊県)で、父の劉太公と母の劉媼の間の男児として誕生した。・・・
 まともな読み書きも身につけないままであった。・・・
 幼い頃の劉邦は、魏の公子である信陵君を慕い、彼の食客だった外黄県令の張耳を訪ねて親交を深めた。その後、魏が秦により滅亡すると、張耳は姓を変えて陳に忍び込み、劉邦も故郷に戻った。後日、劉邦は帝位についてから大梁を通るたびに信陵君の墓に祭祀を行うことで尊敬を表した。・・・
 [信陵君<(?~BC244年)は、>・・・紀元前248年・・・五カ国の軍をまとめて<荘襄王の時の>秦の蒙驁を破った。趙・魏はもとより他の国も指揮権を委ねた辺り、信陵君の手腕と名声に他国からも信頼が厚かったことが窺える。そして連合軍はついに函谷関に攻め寄せて秦の兵を抑えた。これにより信陵君の威名は天下に知れ渡った<が、>・・・異母兄の<魏の>安釐王に疑われて憂死した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%99%B5%E5%90%9B ]

⇒劉邦が楚秦ステルス連衡のことを知らなかったことは、信陵君を慕っていたことからも明らかだ。(太田)

 劉邦はいわゆる親分肌の俠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ生活をしていた。・・・
 入城した劉邦は宮殿の中の女と財宝に目がくらみ、ここに留まって楽しみたいと思ったが、部下の樊噲と張良に諫められると一切手を付けず、覇上へと引き上げた。そして関中の父老(村落のまとめ役)を集め、秦の時代の事細かな上に苛烈な法律を「人を殺せば死刑。人を傷つければ処罰。物を盗めば処罰」の三条のみに改めた「法三章」による統治を宣言した。

⇒劉邦は法家の思想が嫌いな、まさに弥生的縄文人だったわけだ。
 但し、そのままでは、帝国の維持など不可能であり、法家の思想は楚漢戦争に漢が勝利した以降、改めて採用されることになる。(太田)

 この施策に関中の民は歓喜し、牛・羊の肉や酒などを献上しようとしたが、劉邦は「我が軍の食料が十分だから断るのではない。民に出させるに忍びないのだ」とこれを断った。これを聞いた民衆の劉邦人気は更に大きく高まり、劉邦が王にならなかったらどうしよう、と話し合うほどとなったとされる。・・・

⇒劉邦の縄文性の発露だ。
 これが、仁を根底に据えている儒家の思想の公的復活の伏線となった。(太田)

 その後、項羽は咸陽に入り、降伏した子嬰ら秦王一族や官吏4千人を皆殺しにし、宝物を持ち帰り、華麗な宮殿を焼き払い、さらに始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。劉邦の寛大さと対照的なこれらの行いは、特に関中の人民から嫌悪され、人心が項羽から離れて劉邦に集まる一因となっている。
 項羽は彭城に戻って「西楚の覇王」を名乗り、名目上の王である懐王を義帝と祭り上げて辺境に流し、その途上でこれを殺した。紀元前206年、項羽は諸侯に対して封建(領地分配)を行う。しかしこの封建は非常に不公平なもので、その基準は功績ではなく、項羽との関係が良いか悪いかに拠っていたため多くの不満を買い、すぐ後に次々と反乱が起きるようになる。・・・

⇒「<叔父の>項梁は・・・兵法を項羽に教え」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%BE%BD
、項羽に項家の弥生性を継承させることには成功したけれど、その結果、元々普通人に堕してしまっていた項羽は、始皇帝に生き写しの、弥生的普通人になってしまっていた、というわけだ。(太田)

 紀元前201年、匈奴に攻められて降った韓王信がそのまま反乱を起こした。劉邦はまた親征してこれを下した。紀元前200年、匈奴の冒頓単于を討つため、さらに北へ軍を動かした。しかし、冒頓単于は弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返したので、追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲された。この時、劉邦は7日間食べ物がなく窮地に陥ったが、陳平の策略により冒頓単于の妃に賄賂を贈り、脱出に成功した(白登山の戦い)。その後、劉邦と冒頓単于は匈奴を兄・漢を弟として毎年貢物を送る条約を結び、以後は匈奴に対しては手出しをしないことにした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E9%82%A6

⇒劉邦自身が、ついに、縄文的弥生人たりえず、弥生的縄文人のままその生涯を終えた結果、かつて弥生的縄文人ばかりだった楚の被治者達の間で当然視されていたところの、反戦、ひいては軍事軽視、を理論化したに他ならないと私が見ている、墨家の思想、は、普通人主体の拡大中原人と急速に普通人化しつつあった楚人を統合して改めて成立した漢において、わざわざ掲げられる必要もないまま、そして、それ以降の支那の歴代王朝においても、事実上堅持されることになったのだ。(太田)

 「文帝(ぶんてい)は、前漢の第5代皇帝(恵帝の子とされる2人の少帝(前少帝・後少帝)を除外し、第3代皇帝とする場合もある)。諱は恒(こう)。高祖劉邦の四男(庶子)。・・・
 生母の薄氏は戦国時代の魏王室出身の女性を母と<する。>・・・
 文帝の基本的な政治姿勢は、高祖以来の政策を継承するもので、民力の休養と農村の活性化にあった。そのため、大規模工事は急を要するものを除き停止している。宮中で楼閣を設けようという計画が出された際にも、その経費が中流家庭10戸の資産に相当すると知って中止を命じたり、自らの陵墓を高祖や恵帝に比べて小規模なものとしている。また、文帝の在位期間は減税が数度実施され、一切の田租が免除された年もあった(ただし他の税や労役については実施されていたと考えられる)。法制度の改革では、斬首・去勢を除く肉刑の廃止を行っている。・・・
 自らの擁立者でもあり、同時に政敵でもあった諸侯王に対しては穏便に接し、本来ならば無嗣断絶になる場合、また謀反を起こして廃立される場合にも、皇帝の恩恵という名目でその血縁者を求め、領地を分割させて諸侯の地位を保全させる努力を払っている。これらは後の呉楚七国の乱の原因となったと批判されているが、分割相続によって反乱を起こした諸侯王家の意思統一が困難になり、乱の早期鎮圧が可能になったともいえる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
 「父の文帝と同様に漢の基盤を固める善政を行い、その治世は「文景の治」と賞賛された。また、後漢の創始者である光武帝劉秀と蜀漢の創始者である昭烈帝劉備は景帝の末裔と称した。・・・
 基本的に文帝の政策を継承し、消極的な外交政策と倹約に努めるというものであった。また重農政策を打ち出して減税に取り組み、社会の安定を実現し<た。>・・・
 基本的には文帝の方針を継承した景帝であるが、分国問題に関しては袁盎と犬猿の仲である御史大夫の鼂錯の献言に従って、諸侯王の権力削減に着手し、諸侯王の些細な過失を理由に封土を没収し、中央集権体制を構築して行った。これに反発した諸侯王は密かに連携し、紀元前154年に呉王劉濞を中心とした反乱が発生した(呉楚七国の乱)。当初は反乱軍が優勢であったが、周亜夫の活躍によりこの反乱は鎮圧されている。
 呉楚七国の乱の鎮圧以降、諸侯王の封土は官僚である相(諸侯相)を派遣して統治させ、諸侯王は徴税される税を受け取るのみとし、当初計画していた諸侯王の権力削減は成功した。
 また、呉楚七国の乱鎮圧の功労者である周亜夫を、皇太子冊立をめぐる対立により丞相から解任した。それからしばらくして、前漢では初めて自身の側近を丞相に任じた。このことは従来、皇帝の政策にも制約を加えるだけの権力を与えられていた元勲たちとその一族からのみ任命されることが不文律化していた丞相の権力が、景帝の時代に大きく低下し、逆に皇帝権力が飛躍的に強化されたことを示している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)

⇒漢の事実上の二代目の文帝とその子の景帝によって、義の統一/皇帝独裁、の完全復活もなされ、ここに、漢人文明が事実上確立した、と言えよう。
 そして、儒家の思想のタテマエ上の国家思想化が、後漢においてなされることで、漢人文明が名実共に確立することになる。(太田)

4 漢人の探検精神・科学的精神・慈善精神の欠如

 (1)序

 漢人の探検精神、科学的精神、慈善精神の欠如も、主として墨家の思想に由来する軍事軽視によって、従として墨家の思想に由来する世俗性・即物性志向によって、説明することができる。

 (2)漢人の探検精神の欠如

 まず、探検精神の欠如についてだが、軍事重視社会だと、軍事地誌への関心が高いことを背景に、全くの民間人からも探検家が輩出するものだ。
 ちなみに、「探検(たんけん、探険)とは、未知の地域へ赴いてそこを調べ、何かを探し出したり明らかにする行為のこと」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A2%E6%A4%9C
であるところ、「中国 探検家」で検索すると、下掲にヒットし、この15名が出てくる。↓

 汪大淵、鄂棟臣、甘英、義浄、丘長春、玄奘、徐宏祖、宋雲、陳誠、鄭舜功、鄭和、ラッバーン・バール・サウマ、法顕、鄚玖
https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%8E%A2%E6%A4%9C%E5%AE%B6

 しかし、この中で探検家の名に・・辛うじてだが、・・値するのは、2人だけだ。
 1人目は、汪大淵(おうたいえん、1311年~?)であり、彼は、「元代の航海家。・・・1311年に竜興路南昌県生まれ・・・。1330年と1337年の2度にわたって泉州を出航し、インド洋沿岸各国を訪れた。1349年、泉州で『島夷志略』を著し、記述は東南アジア、インド、イスラム諸国から欧州、アフリカにまで及ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%A4%A7%E6%B7%B5
であり、恐らくは、商人で、海外交易のついでに地誌的記録を残しただけではないか。
 もう1人は、当時の支那の版図外に一歩も出ない探検家でしかないけれど、徐宏祖(じょこうそ。1586~1641年)で、彼は、「明末の旅行家・文人・地理学者。・・・。常州府江陰県南暘岐の出身。20代から56歳で没するまでの30余年にわたって<支那>のほぼ全土を踏破し、のちに『徐霞客遊記』としてまとめられる日記群を残した。その筆致は、同時代の文人よりもむしろ近代の科学者の叙述に似るとされ、前近代の中国における最も重要かつ有名な地理学者に位置づけられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E5%AE%8F%E7%A5%96
 残りの人々は、漢人探検家の名に到底値しない者ばかりだ。
 法顕、宋雲、玄奘、義浄は仏教僧、丘長春は道教の道士、ラッバーン・バール・サウマは景教僧で、いずれも、宗教上の必要性にかられて遠方に旅しただけだし、宋雲は命ぜられた遠出だし、ラッバーン・バール・サウマは漢人ではない。↓

 法顕(ほっけん。337~422年)は、「東晋時代の僧。・・・平陽郡襄陵県武陽(現在の山西省臨汾市襄汾県)の人。・・・経典の漢語訳出に比べて戒律が<支那>仏教界において完備しておらず、経律共に錯誤や欠落があるのを嘆き、・・・シルクロードの西域南道を進み、・・・ンド(中天竺)に達し・・・さらにスリランカにわたり、・・・海路(南海航路)で青州へ帰国した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%A1%95
 宋雲は、「北魏の官人(僧官か)である。・・・北魏孝明帝の神亀元年(518年)11月、霊太后胡氏の命を受け、・・・西域・・・<及び>ガンダーラ等・・・に赴き経典を求めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E9%9B%B2
 玄奘(602~664年)は、「唐代の・・・僧。・・・洛陽にほど近い洛州緱氏県(現在の河南省洛陽市偃師区緱氏鎮)で陳慧(または陳恵)の四男として生まれた。・・・陳氏は、後漢の陳寔・・・士大夫の家柄で、地方官を歴任した。・・・玄奘は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、また、仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)、隋王朝に変わって新しく成立した唐王朝に出国の許可を求めた。しかし、当時は唐王朝が成立して間もない時期で、国内の情勢が不安定だった事情から出国の許可が下りなかったため、玄奘は国禁を犯して密かに出国し・・・<陸路>インドに至った。ナーランダ僧院で・・・学び、また各地の仏跡を巡拝し<陸路で>帰国<、>・・・太宗の勅命により、・・・翻訳事業を開始した。・・・さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を次の皇帝・高宗に進言し、652年、・・・寺に<保存のための>塔が建立された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E5%A5%98
 義浄(635~713年)は、「僧<で、>・・・斉州山茌県の人であ<り、>・・・15歳の時(649年(貞観23年))には西域行を志し、法顕や玄奘の行跡を思慕していたという。671年(咸亨2年)、・・・海路でインドへ渡ることとな<り、>インドには西暦673年に到着し、14年間インドに滞在し、そのうち10年間はナーランダ僧院で過ごした。帰路も再び海路で、・・・中国に戻る<と、>・・・武則天は、自ら洛陽の上東門外に出迎え、勅によって仏授記寺に迎え入れた。以後、仏典の漢訳を行う。訳経は国家事業として洛陽・長安の大寺や内道場で行なわれ・・・西域渡来の僧<達>が訳経を担当し、武則天自らが序を著した。・・・また、『南海寄帰内法伝』、『大唐西域求法高僧伝』を著す。両著とも、当時のインドや中国の仏教研究、あるいはインドや東南アジアの社会状況に関する貴重な史料となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E6%B5%84
 丘長春(きょうちょうしゅん。1148~1227年)は、「道教の一派の全真教の金末から元初の道士。・・・1218年夏に・・・西アジア遠征中のチンギス・カンの招請を受けるや、その高齢を省みることなく弟子たちを引きつれて遠く西域まで赴いた。・・・チンギス・カンは・・・丘長春にモンゴル帝国の占領地における全真教保護の特許を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%98%E9%95%B7%E6%98%A5
 ラッバーン・バール・サウマ(?~1294年)は、ウイグル(もしくはオングト)出身の景教僧でイルハン汗国及び元の使節。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%9E

 甘英、陳誠、鄭和は外交使節に過ぎない。↓ 
 甘英は、「後漢の人物。・・・ローマに派遣された<後漢の>の軍事大使であり、97年、西域都護であった班超の命によって、当時大秦と呼ばれていたローマとの国交を開く任務を託された。彼は、・・・軍と共に、パルティア王国の西の国境まで到達した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E8%8B%B1
 陳誠(ちんせい。1365年 – 1457年)は、「明の外交官・探検家。・・・1396年、サリク・ウイグル(撒里畏兀児、現在のツァイダム盆地西部地区)へ国境防衛施設設立のために派遣された。1397年、永楽帝により安南陳朝への使節として派遣された。・・・
 1414年・1416年・1420年に陳誠は明の使節としてティムール朝の都のサマルカンドを訪れ、この際の見聞を西域番国志及び西域行程記に記した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E9%9B%B2
 鄭和(1371~1434年)は、ご存じ、明の使節だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%92%8C

 また、鄭舜功は、明後期に地方官が派遣した対日スパイに過ぎない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E8%88%9C%E5%8A%9F

 最後に、鄚玖(まくきゅう。1655~1736年)は、「清朝の海禁政策の影響を受けて<清を>離れ<た、単なる華僑で、>・・・カンボジアとベトナム(阮氏広南国)の関係において重要な役割を果たした華人の探検家・開拓者・政治指導者。広南国における地位は河僊総兵」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%9A%E7%8E%96
だ。

 (3)漢人の科学的精神の欠如

 次に、科学的精神の欠如だが、「ジョセフ・ニーダムによれば、これは主に三つの側面から生じたものです。第一に、<支那>には科学の成長に適した自然観がありませんでした。第二に、<支那>人は実用性に過度に注目し、多くの発見が経験の段階で止まり、人々は深く探求しませんでした。第三に、人々は試験に合格して名声と富を得るために関連する書籍を読むことに没頭していました。このようにして、優れた知識人は道徳と文学に集中し、科学を研究するためにすべてを投げ出す人はほとんどいませんでした。」
https://insights.made-in-china.com/jp/The-History-and-Achievements-of-Chinese-Science-and-Technology_mApftaOTBQIB.html
というわけであり、正鵠を射ていると思うが、これも、その根本的な原因が、やはり軍事軽視にあることはお分かりだろう。
 春秋戦国時代を経て漢の初期まで、支那の科学技術が世界最先端だったのに、その後停滞してしまったのは、そのためだが、停滞前において、既に支那が科学技術中の科学面が相対的に弱かったのは、古典ギリシャ演繹科学の継受ができなかったということもあるが、その世俗性・即物性志向によると言ってよかろう。

 (4)漢人の慈善精神の欠如

 漢人における慈善精神の欠如も知る人ぞ知るだ。
 これは、統治者階層の弥生的普通人化、被治者階層の普通人化、と、(本来仁を核心とする)儒教の統治思想への組み込みが、単なるタテマエとしてでしかなかったからだろう。
 かかる漢人社会における慈善・・漢語では長く「善挙」という言葉が用いられた・・は、普通人の安心安全ネットワークたる一族郎党から漏れ落ちていて、しかも救済を要する、人々、を助けることを意味するところ、官によるおざなりの慈善ではない、「民間人士による自発的かつ組織的な救済活動が行われるようになったのは<、実に、>明末の・・・長江下流域の江南を中心とした地域で・・・16~17世紀<にもなってから>のことである。」
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-20220701-0047.pdf?file_id=168746
 私の仮説は、これは、明末清初におけるキリスト教の影響による、というものだ。
 イエズス会のキリスト教は、明末清初の支那に大きな影響を及ぼした。
https://www.worldhistoryeye.jp/99.html
 この中に、慈善の話が出て来ないのが不思議なのだが、同じ時期の、「<日本でのイエズス会の>キリシタンたちの信仰は基本的には教理書『どちりいな・きりしたん』(全11章)によって形作られた。教理書の序文に、イエス・キリストが在世中に弟子たちに説き教えたこと、即ち「後生を扶かる道の真の掟」が最も肝要なこととして説かれる。一つは、神デウスを信じる事。二つはデウスによる救いを望む事。三つは身持ちを以て御大切即ち愛を実践する事。この「信・望・愛」は、神デウスの根本的な教えであり、後生即ち来世における霊魂animaの扶かり・救いを得るための道理であるとされる。
 愛即ち隣人愛の実践については、教理書の(11)章において「慈悲の所作obra de Misericordia」14条が説かれる。1600年の改訂版『どちりな・きりしたん』の序文では、「(三に)つとめをこなふべき事とはかりだでcaridade(愛)といふ大切の善にあたる事なり」となる。「大切」とは「愛」のことである。同じ章で、「三には、かりだあでとて、ばんじにこえてD(デウス)を御大切にぞんじ奉り、ぽろしもproximo(隣人)をもDにたいし奉りて大切に思ふ善これなり」とも述べる。キリストの人性に現れた神の愛、即ち御大切が強調され、隣人に対する御大切については、デウスに対すると同じ隣人愛の実践が求められた。ザビエルの教理では、「七つの身体的慈悲の所作」(19条)、「七つの霊的慈悲の所作」(20条)として説かれている」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tja/72/Special_Issue/72_261/_pdf/-char/ja
と、いうことから、支那においても事情は同じであった、と、推測されるのだ。
 このキリスト教の愛に、かすかに弥生的縄文人時代の人間主義の記憶が残っていた支那の江南の人々が触発された、と、見るわけだ。
 以上から、逆に言えば、それまでの支那には慈善がなかったということが再確認できるのであり、支那史における人口の振幅の大きさは、要するに人口の下振れが大きいということであり、結局のところ、それは、主として軍事軽視に由来する内外患の周期的到来、従として統治者階層によるおざなりの慈善と被治者階層における慈善精神の欠如、によってもたらされた、と、言えるのではなかろうか。

5 まとめ

 BC1046年頃に始まる西周
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8
及び東周(春秋戦国)時代を通じ、西周と同じ頃に始まった楚
https://baike.baidu.com/item/%E9%AC%BB%E7%86%8A/10970861
とBC905年に始まった秦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6 前掲
はBC318年の1回目の函谷関の戦いまで、600年近くにわたってただの一度も戦っていない。
 (もっとも、両国の著名でない諸君主の事績については基本的に邦語ウィキペディアだけに頼っているところ、記述が少ない場合が多いが、それでも、それぞれの全事蹟が収録されているとは限らないので、戦っている例をご存じならぜひ、典拠付きで教えていただきたい。)
 BC611年に両国は接壌国・・隣国同士・・になった可能性が大だというのに・・。
 しかも、この函谷関の戦いでは、魏・趙・韓・燕・楚からなる対秦合従軍の総大将を楚の懐王が務めたというのに、楚は出兵しておらず、結局、秦が大勝利を収めている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BD%E8%B0%B7%E9%96%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D318%E5%B9%B4)
 実際に楚(懐王)と秦(恵文王)が干戈を交えたのは、BC312年の丹陽・藍田の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%96%87%E7%8E%8B_(%E7%A7%A6)
の時を嚆矢とするが、どれほど真剣に戦ったのだろうか、両国が接壌国であり、疑問符が付く。
 しかも、それまでの間、BC506年の楚と呉の間の柏挙の戦いで楚が滅亡の危機に直面した時、当時の楚の昭王が当時の秦の哀公の孫であった関係から、秦が援軍を派遣し、楚を救っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E6%8C%99%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
し、上出の恵文王の正室は楚出身で継室は楚公女だし、同じく上出の懐王の子で次の楚王の頃襄王の子は秦の左丞相(政王の臣下ナンバーツー)を務めていて、この頃襄王のもう一人の子で更にその次の楚王の考烈王の子は秦の右丞相(政王の臣下ナンバーワン)である上、秦王政の養祖母、は、政の父親の荘襄王を公子時代に養子にすることで太子・王になることを可能にしたところ、彼女は、上出の左丞相の育ての親でもある、というのだから、楚の公室と秦の公室は、天下統一直前の時点でほぼほぼ一体化していたと言ってもよい。
 それだけではない。秦の昭襄王の統治は、(以下、本文中では記さなかった箇所がいくつか出てくるが、)商鞅が秦に持ち込んだ法家、楚由来の秦墨、及び、殷に淵源を持つ儒家、の各思想をミックスした統治思想に基づく統治であり、これをその当時に秦を訪問した荀子が理論化したのが、その、基本的に普通人ばかりの社会を前提にしたところの、性悪論に立脚した儒教だったと私は見ているが、この荀子派儒家の思想で天下統一がなされれば、天下統一によって始まることとなる漢人文明は、比較的枝ぶりの良いものになるはずだった。
 ところが、秦において、孝文王の超短期の「在位」を経て、その跡を継いだ荘襄王、そしてその子で天下統一を成し遂げた政王、は、2人とも、楚人的訓育を殆ど受ける機会がなかったこともあり、とりわけ、政王の場合、李斯という、楚出身ではあるものの、しかも、荀子の弟子でもあるものの、法家と秦墨だけからなるところの、世俗性即物性志向にして緩治志向で、荀子の儒教ないし楚公室の統治思想中にはあった、軍事重視性や仁政志向性や和志向性、を蔑ろにする思想を抱懐する、人物を重用してその思想に染まってしまい、政王改め天下統一後の始皇帝の時代の彼自身の弥生的普通人としての諸蛮行のせいで、楚人たる劉邦が興した漢に取って代わられこそしたけれど、始皇帝/李斯の統治思想が、形の上だけ儒家の思想をまぶされただけで基本的に維持されることとなり、悲劇的にして停滞的にその後の支那史を規定することとなる漢人文明が成立してしまうのだ。
 (参考までだが、「[紀元前308年<プラスマイナス>65年とされる<楚の>東宮之師<、すなわち>]守役である太傅<(たいふ)>の遺物とみられる書簡群からは道家の書は老子など4編が見つかっただけで、大半は周礼を始めとする儒家の書であり、<楚の>貴族子弟の教育に関しては中原諸国と同様だったと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E5%BA%97%E4%B8%80%E5%8F%B7%E6%A5%9A%E5%A2%93 ([]内))
 
           参考:秦君・楚君一覧表

 秦君        統治年数
非子(秦嬴) 紀元前905年 – 紀元前858年
秦侯    紀元前857年 – 紀元前848年
公伯    紀元前847年 – 紀元前845年
秦仲    紀元前844年 – 紀元前822年
荘公    紀元前821年 – 紀元前778年
 秦伯
襄公    紀元前777年 – 紀元前766年
文公    紀元前765年 – 紀元前716年
憲公    紀元前715年 – 紀元前704年
出子    紀元前703年 – 紀元前698年
武公    紀元前697年 – 紀元前678年
徳公    紀元前677年 – 紀元前676年
宣公     紀元前675年 – 紀元前664年
成公    紀元前663年 – 紀元前660年
穆公     紀元前659年 – 紀元前621年  :西戎の覇者
康公    紀元前620年 – 紀元前609年 :楚秦ステルス連衡締結??
共公    紀元前608年 – 紀元前604年  :楚秦ステルス連衡締結??
桓公    紀元前603年 – 紀元前577年  :楚秦ステルス連衡締結?
景公    紀元前576年 – 紀元前537年
哀公    紀元前536年 – 紀元前501年  :娘伯嬴を楚平王に嫁がせた
恵公    紀元前500年 – 紀元前491年
悼公    紀元前490年 – 紀元前477年
厲共公    紀元前476年 – 紀元前443年  :楚恵王と「和平」
躁公    紀元前442年 – 紀元前429年
懐公    紀元前428年 – 紀元前425年
霊公    紀元前424年 – 紀元前415年
簡公    紀元前414年 – 紀元前400年  :この頃までに戦国時代突入
恵公    紀元前399年 – 紀元前387年
出公    紀元前386年 – 紀元前385年
献公     紀元前384年 – 紀元前361年
孝公    紀元前361年 – 紀元前338年 :商鞅の変法断行。楚秦公室一体
                         化着手?
 秦王
恵文王    紀元前337年 – 紀元前311年  :正室は楚出身、継室は楚公女
                         初めて、王号を名乗り、楚と戦う
武王    紀元前310年 – 紀元前307年  :上掲正室の子
昭襄王    紀元前306年 – 紀元前251年  :上々掲継室(宣太后)の子でこ
                         の継室の弟2人を重用。その統
治実態を荀子が理論化? 周を滅亡
孝文王    紀元前250年         :正室は楚公女
荘襄王    紀元前249年 – 紀元前247年 :上掲正室(華陽太后)の養子
政       紀元前246年 – 紀元前221年  :呂不韋馘首後、楚人3名(昌平君                         、昌文君、李斯)を重用
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6 前掲

楚君
鬻熊(いくゆう)
熊麗
熊狂
熊繹
熊只
熊䵣
熊樊
熊鍚
熊渠                       :初めて王号を(一時)名乗る
熊毋康
熊摯紅
熊執疵(延)        ? – 紀元前848年頃
熊勇      紀元前847年頃 – 紀元前838年頃
熊厳      紀元前837年頃 – 紀元前828年頃
熊相      紀元前827年頃 – 紀元前822年頃
熊徇      紀元前821年頃 – 紀元前800年頃
熊咢 紀元前799年頃 – 紀元前791年頃
若敖 熊儀 紀元前790年頃 – 紀元前764年頃
霄敖 熊坎(鹿) 紀元前763年頃 – 紀元前758年頃
蚡冒 熊眴 紀元前757年頃 – 紀元前741年頃
武王 熊徹 紀元前740年 – 紀元前690年 :改めて王号を名乗る
文王 熊貲 紀元前689年 – 紀元前675年
堵敖 熊囏 紀元前674年 – 紀元前672年
成王 熊惲(頵) 紀元前671年 – 紀元前626年
穆王 熊商臣 紀元前625年 – 紀元前614年
荘王 熊侶(旅) 紀元前613年 – 紀元前591年  :楚秦ステルス連衡締結? 秦等
                         と協力して庸を滅亡させ、恐らく
楚と秦は接壌国に
共王 熊審 紀元前590年 – 紀元前560年  :妃が秦出身
康王 熊招 紀元前559年 – 紀元前545年
郟敖 熊員 紀元前544年 – 紀元前541年
霊王 熊囲(虔) 紀元前540年 – 紀元前529年
訾敖 熊比 紀元前529年
平王 熊弃疾(居) 紀元前528年 – 紀元前516年
昭王 熊珍(軫) 紀元前515年 – 紀元前489年  :秦哀公の孫。楚、呉により窮地
恵王 熊章 紀元前488年 – 紀元前432年  :父同様秦が救う?墨子が面会?
簡王 熊中 紀元前431年 – 紀元前408年
声王 熊当 紀元前407年 – 紀元前402年
悼王 熊疑 紀元前401年 – 紀元前381年  :呉起を重用
粛王 熊臧 紀元前380年 – 紀元前370年  :呉起による改革が無に帰す
宣王 熊良夫  紀元前369年 – 紀元前340年  :楚秦公室一体化着手?
威王 熊商 紀元前339年 – 紀元前329年   
懐王 熊槐 紀元前328年 – 紀元前299年 :初めて秦と戦い、幽閉先の秦で
                         死去
頃襄王 熊横 紀元前298年 – 紀元前263年  :秦の政の左丞相の父。太子時代
                         に秦で人質生活
考烈王 熊完 紀元前262年 – 紀元前238年  :秦の政の右丞相の父。太子時代
                         に秦で人質生活
幽王 熊悍 紀元前237年 – 紀元前228年  :(以下の4名は考烈王の子)
哀王 熊猶 紀元前228年
負芻(熊負芻) 紀元前227年 – 紀元前223年  :楚滅亡
(昌平君 熊啓) 紀元前223年         :秦昭襄王の孫
(景駒(けいく)) 紀元前208年頃        :平王末裔。秦嘉らによる傀儡政
                         権☆
(懐王(義帝) 熊心)紀元前208年頃 – 紀元前206年 :懐王孫/玄孫。項梁、項羽によ
                         る傀儡政権★
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E9%A7%92 ☆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%B8%9D ★

6 終わりに

 考えてみると、アングロサクソン文明、欧州文明、米国文明、ロシア亜文明、イスラム文明、朝鮮亜文明、インド文明、のそれぞれの起源についてこれまで披露してきたことには結構自信があったけれど、漢人文明の起源について披露してきたことについては自信がなく、実際出来が悪かったところ、その理由は、最初の三つの文明とイスラム文明に関しての、私の、エジプト(アングロサクソン文明、イスラム文明)、オーストリア(欧州文明)、米国(米国文明)、イギリス(アングロサクソン文明)での滞在経験と防衛庁勤務経験(ロシア亜文明、米国文明)、に相当するものが、漢人文明に関しては私になかったことが大きい。
 (実は、インド文明と朝鮮亜文明に関しても漢人文明に関してと殆ど同じことが言えるのだが、インド文明に関しては仏教の知識を通じて古代インドのイメージを形成できていたこと、また、朝鮮亜文明に関しては、それが単純な文明であり、かつ、その起源を説明できる史実に偶然遭遇した、ということ、が、それぞれ功を奏している。)
 和製西欧語翻訳漢字の支那席捲について書いたスタンフォード大の政治学科修士課程の時のハーディング(Harry Harding)
https://en.wikipedia.org/wiki/Harry_Harding_(political_scientist)
・ゼミ提出ペーパー、漢人達とのごくわずかながらあったお付き合い、4度の北京行、遡れば、小青年時の児童用支那歴史本群や父の支那関係蔵書群の読書、や、防衛庁勤務を通じて身につけた先の大戦に係る戦前の日支関係史や戦後の「潜在敵国」に係る中共に係る若干の知識、そして、最近の中共製TVシリーズ等の鑑賞、といったものを総動員して、今回、改めて、漢人文明の起源についての新訂私見を提示させてもらったが、本件に係る上述した総体的な知識・経験の不足に加えて、支那に関してはウィキペディア類が邦語のものしか基本的に使えない・・漢語ウィキペディアは漢語Google翻訳の精度が低過ぎるし、英語ウィキペディアは固有名詞の漢字表記が分からなくて躓いてしまうことが多い・・ことから、今回の「講演」原稿についても、大略においてはともかくとして、細部においては、依然、至らない点だらけではないかと危惧しており、あらゆる批判的コメントを歓迎したい。
 最後に、今回、同じ支那の江南文化を背景に持ちながら、日本史と支那の漢人史とが全く異なった形で推移していった理由の解明という問題意識も併せ持って取り組んだわけだが、現在、我々が、日本文明が日本では終わってその日本がプロト日本文明へと先祖返りしつつある一方で、支那が漢人文明をあえて捨て去って日本文明の総体継受に努めているのを目撃させられていることに、複雑な思いを禁じ得ない、と、申し上げておきたい。

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太田述正コラム#15006(2025.6.14)
<2025.6.14オフ会次第>

→非公開