太田述正コラム#14846(2025.3.27)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その21)>(2025.6.22公開)

 「・・・1945年8月13日に、アメリカのラジオ放送が「日本がポツダム宣言を受諾した」というニュースを放送しているのを知った中共新四軍・華中局は、翌14日に揚帆と紀綱<(注26)>に緊急に南京の岡村寧次総部に行って、降伏を受諾して来いと命令し<た>。・・・

 (注26)不詳。

 揚帆は地位的に紀綱のずっと上で、このとき中共中央華中局・敵区工作部部長だった。
 降伏受諾などという正式なことをやりたいのなら揚帆が行くべきなのに、・・・紀綱を・・・行かせて、・・・「立花」ら3人の日本の軍人との交渉をさせるのである。・・・
 しかし日本軍側は「ポツダム宣言の規定により、日本は(蒋介石の)国民政府に対してのみ投降することと決められているので、どうかご理解願いたい」と武器の受け渡しを断った・・・。
 まもなく敗北する日本軍の武器を受け取るために、毛沢東は敗戦まぢかの日本軍と・・・接触させたのではないか・・・。・・・

⇒それがどうしたの? という話ですよね。(太田)

 王明<(コラム#10243)>は1956年に病気治療を口実にしてモスクワに行ってしまい、二度と中国には戻らなかった。・・・
 生前、毛沢東との口論を含めた手記を残している。・・・
 <この>ロシア語<での>・・・手記が出版されたのは・・・1975年で、・・・タイトルは『中国共産党50年と毛沢東の裏切り行為』<という>・・・タイトル<だったところ、それを>・・・『中共50年』と変えて、2004年に中国語に翻訳されたものが北京で出版された。・・・
 内部出版として、一部の党員が閲覧するのみに限られていたが、・・・多くの中国人が読むところとなった。・・・
 <それによれば、>1940年10月2日の真夜中に、翌日(3日)発刊の中共中央機関紙「新中華報」の最終校閲版を、その編集担当者が王明のところに持ってきた。
 そこには「毒(ドイツ)・意(=伊=イタリア)・日・蘇(ソ連)の聯盟を論じる」という大見出しがあった(カッコ内の注釈は筆写。以下は日本人の目になじんでいる「独伊日ソ」を用いる。)
 「この文章は誰が書いたのか?」と王明は編集員に尋ねた。
 すると編集員はつぎのように答えたという〔以下、()内は筆写中〕。
 毛沢東同志です。実は本日の午後、新聞社と中央宣伝部の何名かの同志との会議がありました。
 会議で毛沢東は「国際舞台においては必ず”独伊日ソ”聯盟路線を貫かなければならない。国内においては日本と汪精衛(=汪兆銘)との統一戦線をこそ建立しなければならない」と宣言しました。
 会議ではまた、毛沢東はすでに『独伊日ソ聯盟を論ず』という社説を書いて終わったと宣言し、つぎの〈新中華報〉に載せることになっていると言いました。こんな大きな問題なのに、政治局の同志たちとの話し合いはなされていなかったのですか?
 「わかった! よし、それなら私が毛沢東と直接話をする」
 王明はそう言うなり、毛沢東に会いに行った。
 毛沢東はこういう会議を開いたことを認めた。
 その上で、王明と毛沢東の口論が始まる。
 以下はその実録である。
毛沢東:スターリンとディミトロフは、英米仏ソが独伊日に対する反ファシスト統一戦線を組むべきだと建議している。しかし事態の発展は、この建議はまちがっていることを証明している。やるべきは英米仏ソ聯盟ではなく、独伊日ソ聯盟だ。
王明:なぜ?
毛沢東:独伊日はみな貧農だ。彼らと戦って、なんの得があるっていうのかね? われわれが勝利しても大した利益は得られない。英米仏は富豪だ。特に、英国、あの国はどれだけ巨大な植民地を持っていると思うんだい? もし英国を打ち破ることができたら、その植民地の中から莫大な収穫を得ることができる。私がこのように言えば、君は私を親ファシスト路線の人間だと言うつもりだろ? 違うかね? そんなこと言われても、私はこわくないんだよ! 少なくとも中国は、日本人や汪精衛と統一戦線を組んで蒋介石に反対しなければならないんであって、決して君が建議するところの抗日民族統一戦線なんて、やるべきじゃない。だから、君はまちがっている。」(204~206、210~213)

⇒ここまでの、当時の毛沢東の対王明言明に関しては、前に(コラム#10293で)解説したように、(「新中華報」のこの版が日本政府に伝わることを企図しての、)杉山元らの依頼に基づくものであった、と見るべきであるわけです。(太田)

(続く)