太田述正コラム#14868(2025.4.7)
<檀上寛『陸海の交錯–明朝の興亡』を読む(その10)>(2025.7.3公開)
「・・・永楽帝の政治スタンスは彼の言葉通り朱元璋の政策を継承し、さらに発展させることであった。
それは朱元璋が最後まで達成できなかった二つの目標。
国内的には南人政権から統一政権への脱却。
対外的には華と夷の統合、すなわち中国中心の国際秩序を確立することに他ならない。・・・
ただし彼の場合、そこにもう一つの課題が加わった。
<建文帝からの>簒奪によって即位した自己の地位の正当化である。・・・
永楽元年(1403)・・・建文年間に明との国交を回復していた・・・足利義満<が>使者を派遣してきた。・・・
彼は日本国王として朝貢し、永楽帝によって正式に冊封されて金印および勘合百道を賜った。
倭の五王の最後の朝貢から約900年、日本は久方ぶりに中国の臣下となったのである。
⇒私は、隋も唐も、遣隋使や遣唐使を朝貢使的なものと受け止めていた可能性が否定できないと考えていますが、いずれにせよ、672年の白村江の敗戦で日本は一時、唐軍の占領下に置かれ(コラム#省略)、その後の遣唐使に関しては少なくとも朝貢使と唐側は受け止めた可能性が大であると見ているので、「約900年」は正しくない、と言いたいところです。(太田)
<その後の>日明貿易<の過程で、>・・・義満は倭寇に拉致された明人や捕縛した倭寇を明に送り、見返りに多くの賞賜にあずかった。
永楽敵は義満の忠誠ぶりを評価し、彼が永楽6年に死亡すると弔問使を派遣して恭献王という諡号を贈ったほどである。
永楽帝が日本を重視したのは、まずは倭寇対策のためには日本の協力が必須であったこと。
その効果もあってか、永楽年間に倭寇の活動が次第に沈静化する。
加えて、日本が明に臣従したこと自体にも大きな意味があった。
あのクビライの求めた朝貢ですら拒絶した日本が、自ら進んで臣下になったのである。
この事実は永楽帝の自尊心をくすぐり、国内向けにも彼の正統性を高めたに違いない。・・・
日本とは逆に、永楽帝の譴責を受けたのが南の中華を自負するベトナムである。
明に冊封された陳朝の王が外戚の黎季犛<(注21)>あらため胡季犛父子に簒奪されたことで、永楽帝は公称80万人の軍隊を派遣し、永楽5年5月に全土を制圧して内地化する。
(注21)胡季犛(こきり=ホー・クイ・リ。1336~1407年)。「ベトナム胡朝の初代皇帝(在位:1400年)。・・・胡朝は、古代<支那>周代の諸侯国のひとつ陳の建国者胡公の子孫を主張しており、胡公は、<支那>神話の君主舜の後裔とされ、そのため、胡季犛によって舜は胡朝の始祖として認められている。
・・・その祖先の胡興逸は五代十国時代(940年代)に婺州永康県から南下・移住した。胡季犛の高祖父の胡廉は宣尉の黎訓の養子となったので、姓を胡から黎に改めた。
陳朝第9代皇帝芸宗の母方の従兄弟にあたる外戚として仕え、枢密大使まで昇格し、チャンパの侵攻を撃退して同中書門下平章事(宰相)となる。1388年、芸宗の甥を退けて陳顒を第12代皇帝順宗として擁立し、1397年タインホアに遷都させた。
1400年、陳朝の衰退に付け入って第13代皇帝少帝から帝位を簒奪し、国号を大虞、姓を黎から胡に改めたが、同年子の胡漢蒼に譲位して太上皇と称し、ベトナム初となる紙幣の発行や、民族文字チュノム(字喃)を用いた文芸の奨励を行うなどの改革を行った。ところが、明の永楽帝は陳朝の新帝として陳添平を擁立し、胡季犛がこれを退けたため、1406年に陳朝復興を口実として明軍が侵攻し、翌年帝都タインホアが陥落、胡季犛・胡漢蒼親子は・・・明軍に捕らえられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E5%AD%A3%E7%8A%9B
建前上はベトナムが礼に背いたことへの報復つまり「問罪」ではあるが、彼を出兵にまで駆り立てたのはやはりクビライの幻影ではなかった。
クビライが最後まで攻略できなかったベトナムを併合することは、日本の冊封と同様、何にも増して重要なことであった。」(59~62)
⇒義満は、事実上の私の言う信長流日蓮主義家たる足利家の征夷大将軍であったというのに、明に対し、日本は、(明の日本流封建制採用を条件としてとまでは言わないとしても、)騎馬民族系の脅威に対して共同対処する対等の同盟国にはなる用意があるけれど、朝貢国にはならない、的な筋論を開陳すべきであったというのに、残念なことです。(太田)
(続く)