太田述正コラム#14874(2025.4.10)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その13)>(2025.7.6公開)
「・・・15世紀中葉から後半にかけ、・・・国家の統制に甘んじていた社会が銀経済の展開で独自の動きを見せ、固い明初体制を突き崩し出した・・・。・・・
正統13年(1448)、・・・オイラトの・・・エセン<(注27)>は定員をはるかに超えた3000人規模の使節団を派遣し、しかもその数は実数よりもかなり水増ししていた<た>め、明は対抗措置として下賜品の額を大幅に削減した。
(注27)1407~1454年。「オイラトの首長で、清朝皇帝以前の非チンギス・カン裔としては唯一ハーンに即位したモンゴル貴族(モンゴル帝国第29代(北元としては第15代)ハーン)。・・・オイラトの最大版図を築き、1449年には明に侵攻して土木堡(現在の河北省張家口市懐来県)の地で明軍を破って皇帝・英宗正統帝を捕虜とした(土木の変)が、ハーンを称したことで<、その翌年、>部下の反乱によって滅ぼされた。・・・
オイラトの勢力がますます強大化すると、明が密かに考えていたモンゴル高原の分断政策は無効となり、またオイラトの支配を嫌う部族が南下して明領に入り込むようになって、明の対モンゴル政策は危機に瀕した。さらに、皇帝から与えられる金品の量は朝貢使節の人数に応じることを利用し、オイラトは朝貢使節を明から指示された人数を大幅に越えて送り込むようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3
これに反発したのがエセンである。
彼は明から得た金品を配下に分配することで求心力を維持ししており、・・・残された途は、武力に訴えて明を屈服させるしかなかった。
正統14年(1449)7月、エセンは陝西・山西・遼東の三方面より明に侵攻する。・・・
<そして、>迎え撃つ英宗正統帝・・・<を>捕虜に<する。>・・・
<しかし、>英宗の弟の景泰帝<(注28)>・・・が立ち、兵部尚書于謙<(注29)>らが結束して北京を死守すると、やむなく・・・英宗を送還してきた。
(注28)朱祁鈺(しゅきぎょく。1428~1457年)。母は[宣徳帝の妃嬪<であった>]孝翼太后。・・・<宣徳帝の皇后であった>皇太后孫氏の命により祁鈺が、まず監国に、次いで皇帝に即位した。・・・
一度は<英宗の子であるところの、後の>成化帝を立太子した景泰帝であったが、自らの嫡子への皇統継承を画策し、景泰3年(1452年)に息子の朱見済を立太子した。この廃立を巡り反対派の朝臣を宥和するため金を下賜したことより、後に「臣下に賄賂を贈る皇帝」と嘲笑の対象とされた。このようにして立太子された朱見済であるが、翌年に薨去している。また景泰帝自身も景泰8年(1457年)に病臥し、朝臣より後継者の決定を促す奏上がなされるが、朱見済に嫡子のいなかった景泰帝は後継者指名を行わずにいた。この状況に、英宗に近い<重臣>らは英宗の復辟を画策し、英宗を軟禁されている宮殿から脱出させ、病床の景泰帝は抵抗することなく英宗が重祚した(奪門の変)。〈孫皇后<は、>・・・大議を裁決して<いる。>〉帝位を追われた景泰帝は間もなく崩御したが、暗殺されたとする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E6%B3%B0%E5%B8%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E7%BF%BC%E5%A4%AA%E5%90%8E ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E7%9A%87%E5%90%8E (〈〉内)
(注29)うけん(1398~1457年)。「科挙を受験して進士に合格<。>・・・エセンが・・・明に侵攻して<くると、>・・・専横を揮っていた宦官の・・・王振の意見で正統帝の親征が・・・于謙をはじめ多くの廷臣たち<の>反対<にもかかわら>ず<行われ>、その結果は土木堡における明軍の大敗だった。・・・
<それを受け、>副都である南京への遷都論が・・・沸き起こったが、于謙はこれに反対して北京の死守を主張し<、>その上で、皇太后孫氏の了承を取り付けた上、・・・英宗の弟の郕王朱祁鈺の即位を取り決めた。これが景泰帝である。英宗は太上皇帝とされ、その子の朱見深(後の成化帝)が皇太子となった。于謙は王振の一族郎党を誅殺し、各地から援軍を呼び寄せ北京の防御体制を整えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8E%E8%AC%99
景泰元年(1450)8月のことである。
南宮に幽閉された英宗だが、のちに景泰帝の病に乗じてクーデターを起こし(奪門の編)、天順帝・・・として復辟する。
景泰帝は死後、皇位を剥奪され、国難を救った于謙等も謀反の嫌疑で処刑された。」(85、89~90)
⇒正統帝の父の宣徳帝は、その更に「父の朱高熾<(後の洪熙帝・・在位9カ月余で死去・・)が>病弱であったため、祖父の永楽帝は廃太子を検討したこともあったが、<後の宣徳帝たる孫の>朱瞻基が英明であったため廃太子を行わなかったと<ころ、宣徳帝は、>・・・内政に努め、また経営が困難となっていた不毛の満洲地区を放棄、また大越からの撤兵を決定した。その一方で鄭和による南方航海を再開している。これは版図の単純な縮小を意味するものではなく、永楽年間に膨張した領土を取捨選択して、国内の行政制度を整備することを目的とした政策と考えられている。宣徳10年(1435年)に崩御。病弱であった父帝より10歳以上も早く世を去った。宣徳帝の治世は洪熙帝と並んで永楽帝以後の休養期にあたっており、仁宣の治と呼ばれている。これが明の全盛期であったという評価が、後世の史家たちの一般的な意見である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%BE%B3%E5%B8%9D
というのが通説ですが、私に言わせれば、やはり、軍事力の整備・維持を怠ったこと、と、バカ息子を跡継ぎにしたこと、でもって、明の衰亡を決定づけてしまったダメ皇帝なのです。
厳しいことを付言すれば、宣徳帝が皇后にしたところの、正統帝の母たる孫皇后についても、彼女が、バカ息子の即位に反対しなかったことまでは咎めないとしても、その後の、非実子たる景泰帝の擁立にも、実子のバカ息子(英宗)の復辟にも、盲版を押すだけ、という有り様では、ダメ人間と言わざるを得ず、そんなダメ人間をとりわけ寵愛し、かつ、皇后にまでした宣徳帝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E7%9A%87%E5%90%8E 前掲
は、この点でも批判されてしかるべきでしょう。(太田)
(続く)