太田述正コラム#14894(2025.4.20)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その23)>(2025.7.16公開)

 「郷約<(注59)>の構成員は士民双方を含み、郷紳・紳士層による里甲制崩壊後の郷村秩序の再建策として捉え得る。

 (注59)「朱元璋は郷飲酒礼を復活させ、申明亭・旌善亭を広く設置し、耆老を廃して郷老と改め、「聖諭六言」を頒布した。これを郷約聖諭として頼みとし、朝夕に宣揚すれば、民兵は呼ばずとも集まり、城の守りも戒めずして厳となった。
 正徳13年10月、王陽明は『南贛郷約』全十六款を著し、その前には「十家牌法」を先行して実施、『十家牌法告諭父老子弟』を頒布していた。『南贛郷約』は極めて有効であったため、嘉靖年間には朝廷がこれを推奨し、「嘉靖年間、部より天下に檄して郷約を行わせ、その大半は王文成公(王陽明)の教えを増損したものであった」と伝えられる。・・・
 歴史家の楊開道は「もし満清が関所を越えて入関しなければ、時を経て郷治制度は基盤を確立し、<支那>の民治の根幹となっていた可能性がある」とも評している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E7%B4%84

⇒「注59」が示唆しているように、朱元璋は、かつて存在したところの、(私の言う)一族郎党・・元の時代に緩治/苛政の著しい亢進により、それすら雲散霧消してしまっていたというのが私見・・を、里甲制の形で上から復活させただけであり、既に前漢の時から一族郎党は存在した、と、私は見ているわけです。
 その、里甲制の公的側面は急速に失われるけれど、復活した一族郎党は中共建国に至るまで残ることになる、とも。
 いずれにせよ、一族郎党は、自存自衛たるエゴイズムに立脚した組織であって、そんなものが「民治の根幹とな」りえた筈がありません。(太田)

 彼らにとり郷約の編成は国家と社会を繋ぐ自分たちの責務であり、宗族結合の延長線上に位置づけられていた。・・・
 同様の現象は都市においても認められる。
 万暦年間以降、都市の郷紳や名士たちは親睦と慈善を兼ねて「善会」と呼ばれる団体を組織し、「善堂」<(注60)>という施設を設けて社会福祉活動を行った。

 (注60)「明代末期に河南省で誕生した慈善のための結社。豪紳の親睦会が元となり、清代に<支那>全土に普及した。組織を善会、その運営する実体を善堂と呼び分けることもある。・・・
 潮州系移民の多いタイやシンガポールでは20世紀中頃から多くの組織が生まれ発展した。特に政府や自治体による救急組織が2008年まで存在しなかったタイでは、21世紀の現在でも民間救急の担い手として存在を示している。・・・
 ・・・善堂は大峰祖師(・・・「宋大峯祖師」とも)への信仰が元になっている。
 大峰祖師は北宋の僧侶。1039年、・・・浙江省温州市の生まれ。姓は林。裕福な家庭に生まれ、教育と仏教の修養を受けた。科挙に通り、進士となり、郡長を務める。しかし、54歳のときに、政治の腐敗に失望し、僧侶になり、仏法の普及に努めた。
 81歳のときに、行脚していた折に広東省潮陽県和平里で雨安居に入り滞在することになった。当時、その地域は暴風雨、河川氾濫、疫病、火災、干ばつなどさまざまな災害に苦しんでおり、行き倒れた死体が数多く散乱していた。大峰祖師は死体を集めて荼毘に付し、診療所を開設、困窮する民衆に食糧を配った。また、民衆や弟子を諭し、家族を失った人、困窮する人びとに徳を積み、慈愛を持った行いをするように薦めた。1127年に88歳で没した<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%A0%82

 貧民の救済、使者の埋葬、身寄りのない孤老や寡婦への援助、孤児の収容など、多岐にわたる「善挙」によって地域秩序の安定が図られた。・・・
 明末には民衆教化の勧善書である「善書」も流布する<。>・・・」(167)

⇒檀上は、緩治と苛政の政府に対する被治者達の自存自衛たるエゴイズムに立脚した組織に係る郷約、と、仏教的人間主義に立脚した善会、と、政府による愚民化の手段の一つたる儒教の民衆教化書であるところの善書、という、全く起源も性格も異なる3つのものを無理やり一括りにして論じている感が否めません。(太田)

(続く)