太田述正コラム#14898(2025.4.22)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その25)>(2025.7.18公開)

 「・・・陽明学の人間観・聖人観を表す「満街(町中)の人都(み)な是れ聖人」(『伝収録』巻下)との有名な言葉は、陽明学の庶民性を語って余すところがない。・・・

⇒これは、王陽明の独創ではなく、孟子が人間は生まれつき(儒教で最重視されたところの、)「仁」、につながる・・仁の端緒たる・・「惻隠の情」を持っている、と喝破したことを、人間は皆「惻隠の情」を持っている聖人である、と、パラフレーズしただけです。
 但し、孟子は、「惻隠の情」を、「羞悪(しゅうお)の心」、「辞譲(じじょう)の心」、「是非(ぜひ)の心」、と並置しているのに対し、王陽明は、「惻隠の情」だけに着目した点では違いがあります。
https://word-dictionary.jp/posts/3298 ←孟子の説についての典拠
 ちなみに、仁を発現させた者を聖人としたというのが私の理解であり、(孟子はさておき、)王陽明はこの点で孔子とも違っています。
 とまれ、私に言わせれば、これらエリート儒者達は、誰一人として、人間の潜在的な人間主義性を発現させる方法論を具体的に提示することができなかった以上は、法華経編纂者達に比するべくもなきダメ識者達だったのです。 (太田)

 じっさい陽明学徒の中には知識人以外に商人や塩業労働者、木こり、職人など多種多様の庶民が含まれる。
 王陽明の高弟の一人王心斎<(注63)>(名は艮)は塩丁に出自し、のちに泰州学派の祖となったことは知られるとおりである。・・・

 (注63)「製塩を生業とする家に生まれ、塩商に関係して山東に旅し、曲阜の孔廟に詣でたことが、学問をするきっかけとなったとされる。正徳15年(1520年)、王守仁(王陽明)に入門した。・・・
 王艮の学問は、・・・自我を至上として「独善」からの脱却を説くものであった。この場合の「独善」とは、治国平天下(国を治め天下を平らかにすること)の理想を顧みることなく、自己の修養のみにつとめる態度とされる。これに関連して、万物一体の思想も説いた。
 王艮は、生涯一度も官途に就くことなく、一処士(浪人学者)として地方での講演活動に励んだ。著書に『王心斎先生集』5巻がある。
 王艮の門下には、・・・富裕層とは異なる出身の学者(知識人)<達>が生まれたが、彼等はその主だった活動場所にちなんで泰州学派(別に現成派、あるいは近代的な区分に従った左派、乃至最左派。つまり陽明門下の中で最も左よりの集団)と呼ばれた。彼等は、積極的に農・工・商の庶民層に対する教化を実践し、農閑期を選んで講学を行い、村々を経巡ったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E8%89%AE

 <もっとも、>朱子学と同様、<王陽明>が伝統的な身分秩序に固執していたことは、・・・郷約を実施して上下の分を宣揚したことからもうかがえよう。

⇒これでは聖人の聖度に上下があることになるわけであり、王陽明の言行は矛盾しています。
 もっとも、「陽明自身には、自ら著した書物がほとんどなく、<有名な『伝習録』>は、弟子たちが王陽明の手紙や言行などをまとめた<ものである>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E7%BF%92%E9%8C%B2
ことから、自分で書物を著すことがなく、その言行を理想化して紹介したプラトンの対話篇からその思想を知ることができるソクラテスと違って、王陽明にはプラトンに匹敵する能力がある弟子や私淑者がおらず、『伝習録』の出来が悪い、ということなのかもしれませんが・・。(太田)

 陽明の死後、陽明学派は大きく左右に分裂する。
 朱子学同様に修養を求める右派に対し、左派<は>・・・唯心的な傾向を強めていった。
 この学派の最終局面に登場するのが、・・・李卓吾<(コラム#14163)>・・・である。・・・
 だが内面主義の徹底化が既存の秩序や価値観と抵触した時、その動きは抑圧されて再び朱子学が地歩を固めて伝統的秩序が復活する。
 自律的に発展してきた中国社会だが、ここでもまた国家の壁が大きく立ちはだかったのである。」(169~170、172)

⇒引用したこの最後のセンテンスは、檀上自身の頭の中が整理されていないことを示しています。
 緩治と苛政の下で、支那社会は、国家によって翻弄され続け、自律的に発展していくことができなかった、というのが私の見方なのです。(太田)

(続く)