太田述正コラム#14942(2025.5.14)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その14)>(2025.8.9公開)
「・・・吉本道雅<(注25)>は、覇者<(注26)>である晋国を中心に、会盟をつうじて中原諸侯が従属する政治秩序を覇者体制とよび、また覇者晋国および各従属諸国の国内において、代代にわたって有力氏族が卿位を独占的に世襲する政治体制を世族支配体制とよんである。
(注25)みちまさ(1959年~)。[京大(文・史学)卒、]京大博士後期課程研究指導認定退学(東洋史)、同大文助手、立命館大文助教授、京大博士(文学)。妻は、清朝乾隆帝の末裔で立命館アジア太平洋大学教授の愛新覚羅烏拉熙春(吉本智慧子)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%9C%AC%E9%81%93%E9%9B%85
https://kdb.iimc.kyoto-u.ac.jp/profile/ja.f2e424a31941e7d6.html ([]内)
「愛新覚羅烏拉熙春<(あいしんかくら うらきしゅん=aisin gioro ulhicun=アイシンギョロ・ウルヒチュン。1958年~)>は、中<共>出身の契丹語、女真語、満洲語の研究者である。日本名は吉本 智慧子(よしもと ちえこ)。京都大学博士(文学)、中央民族大学文学博士。立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部教授、京都大学ユーラシア文化研究センター研究員。・・・清朝乾隆帝の第5子栄純親王永琪から数えて8代目の末裔で、6世の祖は道光帝と同じ世代の詩人奕絵貝勒、その妻は西林太清(納蘭性徳と並ぶ清朝の女流詩人)。祖父の恒煦は鎮国公として溥儀に仕え、後に契丹語・女真語・満洲語学者として中華人民共和国における満洲族の復権に尽力した。父は女真学・満洲学・モンゴル学の専門家金啓孮であり、3代による共著がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E7%83%8F%E6%8B%89%E7%86%99%E6%98%A5
(注26)「春秋時代の中・後期に、・・・周王室を守って夷狄を退け(尊王攘夷)・・・諸国の同盟の中心となり、諸国を従えて、周王からその地位を認められた諸侯をいう。斉の桓公(かんこう)が紀元前651年、葵丘(ききゅう)(現河南省商丘市の西)での諸侯との会盟でその地位を得たのに始まる。指定された期日と場所に参集した諸侯(代理人もあり)のうちで、牛耳(ぎゅうじ)をとるよう決められた者が盟長=覇者となり、いけにえの血を盟長から順次すすり、盟誓の約文をつくる。桓公ののちも晋の文公、楚の荘(そう)王、呉王の闔閭(こうりょ)、越王の勾践(こうせん)が覇者となり、これらを春秋五覇という(呉、越のかわりに秦の穆公(ぼくこう)、宋の襄公を入れる説、楚のかわりに呉王の夫差を入れる説もある)。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A6%87%E8%80%85-114245
桓公(?~BC643年)は、「斉の君主 (在位前 685~643) で五覇の一人。姓は姜 (きょう) ,・・・ 。兄襄公が殺されたあと異母弟の子糾と争って破り,斉君となる。鮑叔 (ほうしゅく) の推薦で子糾の臣であった管仲を用い,その政策で国内の経済改革を断行して富国強兵を成功させ,夷狄の侵入をたびたび撃退して中原諸国を防衛する一方,桓公 30 (前 656) 年には諸国の連合軍を率いて南方の強国楚の北上を阻止し,召陵 (河南省) で講和条約を結ばせた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%A1%93%E5%85%AC-469711
文公(BC697~BC628年)は、「晋の君主 (在位前 636~628) 。五覇の一人。名は重耳 (ちょうじ) 。献公の子。父が寵愛した驪<(り)>姫の讒言によって太子申生が自殺させられ,その災いが自分に及ぶのを恐れ逃亡。 19年間諸国を流浪し辛苦の末,秦の穆公の援助で帰国して即位した。・・・すぐれた家臣<達>の補佐で内政を改革し,国力を充実させ,・・・前 632・・・ 年<に、>斉,宋,秦の連合軍を率いて城濮 (じょうぼく) の戦いで楚を中心とする陳,蔡などの連合軍を破って楚の北上を阻止した。戦後践土 (せんど) の会を開いて覇者としての地位を確立した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%85%AC-623141
これは過渡期の体制であるが、まだ封建制の内部にとどまる政治体制である。」(54)
⇒吉本、と、それを受けて渡辺、が、一体どうして、覇者体制に関して晋だけに注目したのか、詳らかにしませんが、私(わたし)的には、どうして、周王の(日本の)天皇的なもの化とそれに伴う覇者の(日本の)征夷大将軍的なもの化、が、成就しなかったのか、に関心があります。
(続く)