太田述正コラム#14966(2025.5.26)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その26)>(2025.8.21公開)
その後、楚に登場するのが成王の孫で、父の成王を殺して即位したところの暴君だった穆王の嫡子の荘王(BC614~BC591年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
だ。
「荘王は、・・・楚の歴代君主の中でも最高の名君とされ、・・・周に対する尊王の志は薄いが、その権威は天下を覆ったと言えるので、『荀子』「王覇篇」をはじめとして、荘王を「春秋五覇」に挙げる漢籍は多い。・・・「鳴かず飛ばず」・・・「鼎の軽重を問う」<の故事でも有名。>・・・
<後者に関しては、>周辺諸国を圧迫し、領土を広げて、覇者としての頭角を顕わしはじめた。荘王8年(紀元前606年)には兵を周の都・洛邑の郊外にまで進めそこに駐屯した。周から使者が来ると、荘王は使者に九鼎の重さを問いただした。九鼎とは殷の時代から受け継がれた伝国の宝器で、当時は王権の象徴とみなされていたものである。その重さを問うということは、すなわちそれを持ち帰ることを示唆したものに他ならず、周の王位を奪うこともありえることを言外にほのめかした一種の恫喝である。周の使者・・・は、これにひるむ事なく言った。問題は鼎の軽重ではなく、徳の有無である。周の国力は衰えたとはいえ、鼎がまだ周室のもとにあるということは、その徳が失われていないことの証に他ならない、と。これには荘王も返す言葉がなく、その場は兵を引かざるを得なかった。この故事から、「面と向かって皇位をうかがうこと」、ひいては「面前の相手の権威や価値を公然と疑うこと」を、「鼎の軽重を問う」(かなえの けいちょうを とう)、また略して「問鼎」(もんてい)と言うようになった<ものだ>。・・・
<少し前まで、その>「楚<は、>秦に苦しめられ<ていた。
百里奚等の異邦の異才を登用して国力を増強させ、晋や西戎を討った穆公(在位BC659~BC621年)が亡くなり、「主立った家臣たちが数多く殉死したことにより、秦の国力は大きく低下し、一時期、表舞台から遠ざか」った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%86%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
という絶好の機会を捉え、楚の荘王は、自分の死後400年余り後の秦始皇帝による支那統一を経て、清末までの支那史を悲喜劇的に規定することになる、支那統一国家樹立構想を策定した、と、私は考えるに至っているのだ。
まず理念だ。
「荘王はさらに陳の内乱に乗じて一時併合し、鄭を攻めて陳と共に属国化した。荘王17年(紀元前597年)、鄭の援軍に来た晋軍を邲で撃破した(邲の戦い)。・・・<そ>の後、臣下から京観(討ち取った敵兵士の遺体を使ってつくる戦勝のモニュメント)を作る事を進められたが荘王は却下する。「武」という字は「戈」を「止」めると書き、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安じ、衆を和し、財を豊かにするためのものである。自分がしたことはこの武徳にはあてはまらず、その上忠誠を尽くした晋兵の遺体を使って京観を作る事はできない、と言う理由からである。
実際は「武」の字は「戈」と「止(あし)」から成り「戈を進める」が原義であり、この逸話は後世の創作といわれる。「戈を止める」の逸話は孔子の弟子が編纂した「春秋左氏伝」のみに見え、「春秋公羊伝」や「春秋穀梁伝」には無い。
晋を退けて覇業を成した荘王は、その総仕上げとして、今なお晋に従う宋を標的に定め・・・、宋は楚の盟下に入り、<その間、>・・・魯も楚の盟下に入るなど、・・・荘王の覇業は完成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
余計なことまで触れたが、「武」に係る挿話は、それなりの根拠があると見るべきであって、荘王が、弥生的縄文人として、縄文的弥生人が作った言葉(漢字)である武(軍事/戦争)の意味を換骨奪胎し、軍事/戦争は軍事/戦争を廃止するためのものであると訴えた、「史実」、が、この挿話の背景にある、と、私は見ている。
次に統一を達成する方法論だ。
上述のような理念に到達したのは、荘王が江南文化出身の楚の大方の人々同様、弥生的縄文人であったからこそであるところ、この荘王は、この理念を楚自身が実現することは不可能だと考えたのではなかろうか。
その理由の第一は、楚の人々の大部分にこの理念を共有させるのは困難だと思った筈だからだ。
仮に、弥生的縄文人達に対し、平和を実現するためには戦争を行わなければならず、しかも、その戦争は、長く、凄惨なものになる、と訴えたとしても、その大方の理解は得られないだろう、ということだ。
墨子(墨翟。BC470頃~BC390年頃)は、「出身地に関しても、魯・宋・楚など諸説あり」と言うが、恐らくは楚の出身であり、楚の人々の弥生的縄文性の考え方を整理し理論化した人物である、と、私は想像するに至っており、彼が時の楚王に宋攻略を断念させたとの逸話
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%AD%90 ←「事実」関係
は、楚王が具体的にどの楚王であるかをあえて伏せていることを含め、示唆的だ。
その理由の第二は、戦争の間は、総司令官たる王が独裁的権力を振るわなければならないが、弥生的縄文人は和を貴ぶので、独裁に対して拒否反応があるということだ。
私が、楚人の大方同様、江南出身者の考え方がその基調を形成したところの、日本の支配階層、もまた、弥生的縄文人であった、と見ているところ、7世紀初頭における彼らのリーダーであった厩戸皇子が起草したとされる十七条憲法の第一条に言う、「上の者も和やかに、下の者も睦まじく、物事を議論して内容を整えていけば、自然と物事の道理に適うようになるし、何事も成し遂げられるようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95
から、その1200年前の楚人の考え方を類推できるのであって、このような人々に対して、戦時においては、迅速かつ秘密裡での意思決定が求められるので、「上の者」が厳格に上意下達で物事を進めなければならないので、そのように心得よ、と言っても反発されるだけだということだ。
その理由の第三は、江南文化(南蛮)出身の人々がその大方であるころの、楚、が前面に出る限り、覇者体制の下ではもとより、覇者がいなくなったとしても、いよいよとなれば、秦を含め、反江南(反南蛮)の拡大中原(華夏)連合が形成され、楚を叩き潰しにかかり、これに楚が対抗するのは困難であると考えた筈だからだ。
(続く)