太田述正コラム#14970(2025.5.28)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その28)>
理由の第三は、前述したように、かつて西戎であった周ですら、そして、半分西戎であるはずの秦はもちろん、西戎が遊牧民系であるにもかかわらず、民主的要素が皆無の独裁国家であったことから、秦が、楚に比較して、より長期にわたる総力戦を遂行が可能であると目されたからである、と想像される。
一体全体、どうして、社会法則に反するようなそんな奇妙なことになっていたのだろうか。
こういうことではなかろうか。
周の時代において、西戎には、「かつては周の文王の討伐を受けたことがあ<り、>後に文王の太子である武王と盟約を結んで共に商を滅ぼした諸侯国の一つである羌、ほかには葷粥(くんいく)や氐(てい)、密須(みつしゅ)などが<あり、>・・・民族や種族としては、南北で分かれる傾向があるもの北はテュルク系、南はチベット族やチベット人の祖とされる彝<(イ)>族とみられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%88%8E
ところ、「雲南北西部と四川に住むイ族の多くは複雑な奴隷制度・・・をもっており、人は黒イ(貴族は四川省西部から雲南省の山岳地帯に南進した騎馬牧畜民族)と白イ(白番の祖先はタイ系の稲作耕作民であったと推定され、早くから雲南省のいくつかの盆地に定住した)に分けられて<いて、>白イと他民族(奴隷略奪の抗争や戦争を積極的に行った結果、タイ系の民族やミャオ族や漢族なども含まれることになった)は奴隷として扱われたが、白イは自分の土地を耕すことを許され、自分の奴隷を所有し、時には自由を買い取ることもあ<って、>・・・現在でも族長(家支)が一族の強固な結束力としてあることを特徴としている<ところ、>家支は血統を意味し、始祖から父子連名制によってつながる父系親族集団である(父子連名制)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E6%97%8F
という、騎馬遊牧民系の支配層が農耕民系の被支配層を支配する社会構造を持っているのが通例であって、そういうグループと、上出の「羌<のように、>その字形に「羊」の字を含むことから、牧羊する遊牧民族という説が古くからある<ものの>、殷墟の生贄の骨の分析結果からは、遊牧民族ではなく農耕民族であることを示唆するデータが得られている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8C
グループとが混在しているのが西戎地域だったということになりそうなのだ。
そして、以上から、西戎地域における騎馬遊牧民系の支配層は、農耕民で奴隷たる被支配層、と、地域内の彼らの支配下にない農耕民達、更には、周のような先進農耕民諸国、との間で恒常的な緊張関係にあったので、有事即応体制を維持しなければならず、民主的にリーダーを選出したり民主的にグループ運営を行ったりする余裕がなかった、と考えられるのだ。
(ちなみに、殷の時代における(周を含む)西戎にあっても、かかる事情は基本的に同じだったと思われるが、(周の時代の周とは違って、)殷自体は商人出身者が支配層であり、弥生的縄文人であったので、民主的要素があった。
例えば、「殷は氏族共同体の連合体であり、殷王室は少なくとも二つ以上の王族(氏族)からなっていたと現在では考えられている」ところだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7
こんなことが可能だったのは、殷の当時には、殷に対するところの、構成諸邑という内からの、そして、夷狄(四夷)という外からの、周の当時に比して、脅威がさほど大きなものでなかった、ということなのだろう。)
理由の第四は、これが一番重要とも言えるのだが、秦の当時の国力とその国力の将来における発展可能性の大きさだ。
楚の荘王は、生年が不明だが、BC614年に即位した時、直ちに施政を開始しているので既に成人であったはずであり、その7年前に亡くなった、穆公の秦の盛時を熟知していたと思われ、「177名の家臣たちが<穆公に>殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6
とはいえ、早晩、秦は再び盛時を迎えるだろうし、夷狄への領土拡張可能性がある、楚(や越)を除く、燕、晋、秦のうち、前2国の正面の北夷に比べて秦の正面の西戎は脆弱であるので、秦が一番領土拡張可能性が高い、と、考えた可能性が大だ。
(続く)